第二章(1) 友
約50000文字(空白・改行含めず)
1
二人の間を、冷たい冬風のような緊張感が包む。
「………………。」
「………………。」
ただジッ、と睨みつける。
相手も、こちらから目を離さない。どこか観察しているような様子だ。目は合っているのに見ていない、そんな風に思った。
新夜はこちらに顔を近づけてきた。左手を有次の右肩に軽く乗せ、耳元で囁くように、
「足りない。何もかも。」
新夜はスっと顔を遠ざけた。
有次はその言葉の意味を理解できない。が、無表情を貫く。
「僕の名前は、草薙・ラーンウォルフ・新夜。」
「久遠有次。」
短く応答する。
「……。」
お互い、名乗ったというのに全く反応がない。有次の場合、目の前の男の名を既に知っていたからだが。
しばらく沈黙と観察が続いた。
有次が気付いたことは二つ。彼の方がはるかに強いこと、そして、全く戦意が感じられないことだ。
新夜の存在は、まるで何度斧を振っても小さな傷しかつかない巨大な樹のようだ。樹を切ろうとしているこちらが、逆に無力感を与えられる。人間一人の手ではどうしようもない自然の理。そのような漠然とした力を新夜から感じるが、当の本人にはそれをこちらに向ける気が毛頭ないらしい。
それどころか、悲しそうな顔をした。
表情の変化はないが、有次にはそう見えた。
何故、と思うより先に、自分を憐んでいるのかと憤りを感じた。
拳を強く握りしめる。
しかし、今は何より、状況が最悪だ。
この学校にどれだけの生徒が在籍している。ここで事を起こしても不利になるのはこちらだ。まして力の差を考慮すると、余計最悪だ。
悟られないように、無表情のまま新夜を睨み続けるが、内心では必死に打開策を模索していた。
この長い沈黙を破ったのは、新夜でも有次でもなかった。
「有次……」
背後にいた翔が一歩、こちらに踏み出すが、
「来るな!」
たったの一歩で止まった。
初めて聞く友の怒号に、ビクッと体が強張ってしまった。
今の教室の異様な空気感は、クラスメイトの誰もが感じたことのないものだった。空気が鉛みたいに重く、そして体に絡み付いてくる。恐怖と圧迫感で呼吸するのを忘れてしまいそうになる。一言では形容できない状況の中、勇気を振り絞って踏み出した一歩は、友人の声で無に帰した。
「僕は何もしないよ。」
そう呟く新夜に対して、
「今は、だろ。」
「……。」
肯定も否定もしない。
今の有次に新夜を止める術は、恐らくない。単独であれば話は別だが。
つまり、この場の決定権の全ては新夜の手の中にある。
それでも、諦める訳にはいかない。この状況を正しく判断できるものがいれば、有次はライオンに噛み付こうとする子猫に見えるだろう。
「本当に、今日は君を見に来ただけなんだ。クラスが同じだったのは僥倖だったけどね。そういうことだから、また明日からよろしくね、久遠有次君。」
「おい。」
一度は真横を通り過ぎた新夜の背中に、有次はこう問いかけた。
「何故だ。」
何に対して何故なのか、それは言葉にせずとも二人の間では伝わっている。
新夜は立ち止まったが、答えない。
有次は、新夜がどう出るのか様子を窺った。下手に刺激しない方が良かったかもしれないが、黙って見過ごすことが出来なかった。
しかし、何も答えない。じっと立っているだけ。
有次からは背中越しで表情が分からない。
結局最後まで何も言わずに、教室を去っていった。
彼が扉を開けた瞬間、外にいた生徒たちの声が一気に押し寄せてきたが、すぐに扉を閉めたため、教室は再び静寂に支配された。
終始、新夜の感情は謎のままだった。
沈黙の時間が続く。
他の生徒達は、そもそも何が起きているのか理解できなかった。突如現れた転校生、おまけに有名人。楽しく会話していたところ、それまでがまるで茶番だったみたいに有次と話し始める。話の内容は聞き取れたものだけでも全く理解できなかった。そして謎深まる二人の関係。どこからどう切り出せばよいか。
有次も有次で動かない。動けない。
さも対等な関係を装っていたがそうではない。有次はずっと虚勢を張っていた。
実力の差が開きすぎている。
彼が去った今、手足はプルプルと小刻みに震えていた。そんな自分に情けなさと悔しさが込み上げてきたが、グッ、と歯を食いしばる。
ここで自分が折れるわけにはいかない。目を逸らしてはいけない。なぜならこれはもう避けようのない戦いなのだから。
そんな彼に歩み寄る人物がいた。
「有次……。」
茶髪の少年。彼の数少ない友達。
歩み寄ったものの、何て声をかければいいのかわからなかった。普段表情を、感情をあまり表に出さない彼が、こんなにも悪意に満ちた言動を誰かにするのは初めて見た。
声に反応して振り返る。
「翔……。」
有次は、一度も目を合わせようとはしなかった。
「……ごめん。」
一言。たった一言だけそう残して、教室を去っていった。
誰も彼を止める者はいなかった。
いつの間にか教室の外にいた生徒たちはいなくなっていた。
2
三年E組の担任教師こと伊守レナは、朝から憂鬱であった。
彼女の人生は、全体的についていない。
内外から注目を受けている都市の高校教師、というのはそう簡単になれるものではない。しかもこの若さで(二十七歳)。しかし、それは彼女の上辺しか見ていない。
まずは名前。下の名前の「レナ」は、カタカナ表記で正式に登録されている。なぜカタカナなのかと言うと、特に意味はない。
彼女の両親は、明るく元気溌剌で賑やかな人物だ。そして、残念なほどにバカだった。
子供というのは、親に関して大きく二つに分類される。
尊敬して憧れるか、嫌いで尊敬も憧れもないかだ。
例えば、父親が警察官だったとしたら、正義のヒーローのように街を守る立派な存在だと感じる子と、忙しくて全然遊んでくれないから好きじゃないと感じる子がいる。
伊守レナは(もちろん)後者である。
両親によって被った恥辱の数々を挙げるときりがないが、親のような人物を生み出さないようにするために、彼女は教師を目指した。
が、先程も述べた通り、伊守レナはついてない人である。
晴れ晴れ教師になってからというもの、担当するクラスはどこも問題児ばかり。テストの点数は低いし、遅刻欠席が多いし、親に難癖つけられるし、他の先生からも色々言われたり、もう散々であった。他にも、朝が早くて夜が遅いから自由な時間がなかったり、周りからは結婚報告がちらほら……。
そんな彼女、伊守レナの目下頭を悩ませている問題は、とある転校生についてである。
朝陽市は世界から注目を受けているだけあって、外国人の割合は高い。特に留学生は珍しいものではない。一クラスにだいだい二、三人ぐらいはいる。しかし、彼女が現在受け持っているクラス、三年E組には留学生がまだいなかった。この学校では、留学生の話が持ち上がると、その留学生の情報を元に、彼ないし彼女達ができるだけ快適に学生生活を送れる可能性の高いクラスを選出する。そういうことでまだ合う留学生が来ていない現状で、しかも三年生の他のクラスはどこも留学生が既に在籍しているのだった。よって学年主任の教師からは、次の留学生が来たらよっぽどの理由がない限り君のクラスに入ってもらう、と聞いていた。留学生がやってくること自体問題はなかった。むしろどんな子が入ってくるのかワクワクもしていた。
四日前だっただろうか。
ついに高校三年生の留学生がやってくるかもしれないとの情報が入ってきた。校長と教頭、そして学年主任の教師が話し合った結果、E組で問題ないという結論に至った。その日の夕方過ぎ。留学生についての資料を帰り際に渡された。気になってその場で見ることにした。
before
(どんな子かな。可愛い女の子とかがいいな~。クラスの男たちも鼻の下伸ばして少しでも高校生らしい落ち着きを……)
after
(え!? ちょと待てちょと待て。……んー、どゆこと!? だってこの子、有名人じゃん!! しかもお父さんが大企業の大社長とか。もし授業でミスしたら学校に乗り込んでくるかもしれないわ! どうしよう。難癖つけられて教師を辞めさせられたら…………)
周りから見たらさぞや滑稽な様子だっただろう。急に目をカッ!! と見開いて書類二度見三度見したと思ったら、冷や汗をかいたり頭を両手でガッシリ掴んで机に伏せたり。
四苦八苦の末、
(·····帰って寝よ。)
現在。
今日は朝からどこも転校生にまつわる話題でもちきり。職員室から教室までの間、ため息しか出なかった。
(そういえば今日はなんでこんなにうるさいの? またSNSで変なもんでも流行ったのね。)
職員室を出て階段を上がっていると、ちょうど上から多くの生徒たちが降りてきた。そのほとんどは三年生ではなく一、二年生だった。上の階に行けば行くほど上学年のフロアになるため、この騒ぎの根源は三年生にあると推測できる。それだけでもう十分悪い予感しかしない。
そんなこんなで朝から憂鬱な教師は、自分が受け持っている三年E組の教室に入るのだった。
そう、三年E組に入ったはずだ。
新学年になってからそんなに月日は流れてないけど、このクラスはみんな打ち解けるのが早く、いつも明るくて賑やかなクラスだった。ちょっとうるさすぎたりやんちゃなところもあるけど、そういう面は彼らのいいところだと彼女は理解していた。
しかし、教室内は異様な空間だった。生徒全員が席を立っていて、後方を向いていた。全体の空気は張り詰めていた。しかし緊張のそれではなかった。部活の顧問にひどく説教された後の、最初に話す内容によってその後の場の空気が決まってしまうようなものだった。誰かが楽しい話題を振れば段々と空気は変わっていくが、話題が説教に関するものだったら、そのまま沈んだ空気が続いてしまう。教室内もこれに近かった。初めに声を上げた人が全ての流れを作ってしまう。だから全員が互いの顔色を窺っていたのだ。
そして驚くほど教室内は静かだった。
そんな中、担任の教師が入ってきた。有次と入れ替わる形で。しかも教室前方の扉から。故に彼女は全ての視線を集めることとなった。
流石の先生も面を食らって、半歩後ずさりしてしまう。
「みんな、ど、どうしたの……??」
「「…………」」
帰ってきたのは、助けを求めているような視線のみ。
全く状況が飲み込めない伊守レナは、正確な対処を図る。
「とりあえず、みんな席に座って。」
3
生徒たちの話を聞いたところ、生徒たちも何も状況を把握していなかったので、伊守レナはこの話題を一旦切った。時間が経つと、朝の騒ぎは横に置いておいて、生徒たちはいつも通りの学校生活を送っていった。一名を除いて。
篝翔はサッカー部に所属している。サッカーを始めたきっかけは小学生の時、友達からの地域クラブへの勧誘だった。そこからはサッカー一筋の、サッカー大好き少年となった。そのおかげでぐんぐんと成長していき、中学生の時には県選抜に選ばれるほどだ。
朝陽第一高等学校サッカー部は県有数の実力校であり、全国を何度か経験している。彼はこの部のエースストライカーである。キャプテンの素質は皆無だったが、彼を中心としたチームとなっていることは間違いなかった。
現在は高校三年生。受験を控えているが、その前に全国高等学校総合体育大会、総体やインターハイなどと呼ばれているものが、予選を含めると、早いところでは六月ぐらいから開かれる。これが部としての最後の公式大会だ。当然翔を含めたサッカー部全員が、この大会で念願の全国大会出場を目標に、日々練習に励んでいる。彼らに残された時間は三ヶ月を切っていた。
帰りのホームルームが終わったと同時に、翔に近寄るクラスメートが二人。
一人は西東拓哉。
もう一人は片岡総一郎。
二人ともサッカー部のメンバーである。そして西東拓哉はサッカー部の部長でもある。
「翔、行こう!」
ホームルームが終わった瞬間、部活へ直行するのは三人にとっていつものことだ。だから拓哉は多くは言わなかったが、帰ってきたのは間の抜けた返事だった。
「……ん、ああ。そうだな。」
「……どうしたんだ今日は。いつもなら我先に教室を出ていくのに。」
「…………いや、行こうか。」
ギギギッと大きな音を立てて椅子を引いた翔は、ふらっと教室を出ていった。
二人は不思議に思う。彼の性格からこんなに深く考えたり悩んだりすることは少ないと知っているからだ。しかもここ最近で翔は一番部活動に力を入れていた。周りにも伝わるほどの情熱や熱意がチームを活性化させているのは事実だ。
翔の背中を追いかけながら二人は、
(おい、どういうことだ、拓哉。こんな翔見たことねえぞ。)
(わかんねえ。変なもんでも食ったか?)
そんなヒソヒソ話にも気付かない翔は、やはり朝のことが気になって仕方なかった。
ふと、いつの間にか練習着に着替えていることに気が付いた。
いつものように準備運動を行い、パス連、シュート練を全体で行う。頭は別の思考で一杯なのに、体はいつものように動く。まるで、勝手に体がいつもの動きをトレースしているようだった。本人に自覚はないが、それ程まで彼にとってサッカーというのは自分の一部なのだ。
それは、スポーツ選手にとってはこの上なく素晴らしいことだ。試合本番では、どんな選手であれ、普段とは違う緊張感を持ち、日ごとに周囲の環境、天候、コンディションが異なる。これらは選手から本来の実力を削ぎ落とすが、そんなものに囚われないぐらい体に練習を染みつかせれば、必ず成果に繋がる。勝負の世界において、思考とはカギであり枷でもある。仮に人間と同じように動けるロボットがいたら、そのロボットの最大の強みは、一定のパフォーマンスを維持できる点だろう。圧倒的な差をつけられようと、どんなに相手が強かろうと、感じる心がないのだから、指示されたように動き続ける。これは人には難しいことだが、近づくためには膨大な練習量を積むしかない。
その観点から言えば、翔がいかに優れた選手であるかは語る必要もないだろう。実際、県選抜にも選ばれる実力者だ。
ただ、どんなに優れた選手でも、突発的なアクシデントには対応できない時がある。
特に、注意力が散漫になっている状態では。
「翔!」
誰かが自分の名前を呼んだ、気がする。
拓也の声のような、気がする。
記憶が曖昧なのは、正面からノーガードで顔面にボールが当たったからだ。
付け加えると、鼻血を出して気を失った。
無様過ぎて笑いもしない。
幸いと言うべきなのか分からないが、救急車を呼ぶバカが現れる前に意識を取り戻した。
さすがに保健室送りになったが、驚くほど頭の中は空っぽだった。
十年振りに意識を取り戻した人はこんな気持ちなのだろうかと、ぼんやり考えていた。
ただ、空白の頭にも、たった一つの光景が焼き付いていた。
友達の苦悶に満ちた顔だ。
振り返ると、楽しいことばかりの人生だった。
辛いことはあっても、悲しいことは少なかった。
何日も考え込んでしまう悩みなんて覚えてない。
友人たちにも恵まれ、いつもワイワイ楽しく過ごしていた。
これからも、それは変わらない『当たり前』だと、きっと誰もが疑っていないだろう。
今日も相変わらず平和で、明日も平和で、平和について考えたことがないくらい平和だ。
世界は笑顔に満ち満ちていて、大抵の不幸は微々たるもので、すぐに幸せで埋もれてしまう。
だから初めて見た。
あんなにも死んでしまいそうな人間の顔を。
手が触れたら壊れてしまいそうだった。
来るなと言われたら、気持ちがすくんでしまった。それ以上手を伸ばせなかった。
怖くなった。理由はよく分からないけど、怖かった。
だから、心のどこかで、こう思うことにした。
有次のことだから、明日になったらひょっこり現れて、いつものように無愛想な挨拶を返してくれる。
本当はわかっていたのかもしれない。
実は有次のことなんか深く考えてなくて、他人事のように思っていたことを。
俺は今、あいつのことを胸を張って友と呼べるのだろうか。
*
今の季節、どこを見ても桜が目に入る。高台に登ればそれは壮観であろう。
母親が幼い子供を連れて散歩をしている。老人が道端のベンチで景色を眺めている。
そして、ワイシャツ姿のまま、昼前の住宅街を歩く一人の青年。
スマホを取り出し、何回か画面をタップした後に、耳にあてた。
画面の名前欄には、ここ書かれていた。
月影、と。
すぐに繋がった。
「どうされましたか?」
聞こえてきたのは、若い男性の声。
「…………時が来た。」
「……ということは、現れたのですね。」
「ああ。」
「……勝てますか?」
「痛い質問だな。実を言うと、ほぼ確実に勝てない。今は様子見で、こちらから手を出す気はないが、…………」
「承知しております。」
「もし俺からの連絡がなくなったら…………そういうことだ。その時は…………、すまない、無責任だな、俺は。」
「いえ、念の為いつでも一帯の住民が避難できるよう手配します。ですがまずは、あなたの命を優先してください。あなたがいなければ元も子もありませんから。」
そこで通話は終了した。
木々を通り抜けて鋭い風が吹いた。少し肌寒かった。
「主様。cipherが現れました。」
とある建物の一室。立派な木製のテーブル、高級なソファ。床一面には赤色の絨毯が敷かれている。壁際には箪笥やショーケースの類が置かれており、数多くの賞状や勲章が飾られている。中央からやや後方には大きな机となんとも座り心地が良さそうな可動式の椅子が置いてある。机は、座って右手側の下に物を収納できる三段の引き出しが付いている。巨大な勉強机のようなデザインだ。
そこよりさらに後方、窓際に二人の人物が窓の外に目を向けている。窓、といっても全面ガラス張りであり、そこからは町を一望できた。どうやら高層マンションの上層階の一室のようだ。
一人はまだ二十代だろうか。年齢の割にはとても精悍な顔立ちをしている。もう一人は五十代ほどの男性。中年故か、恰幅の良い体型をしている。
若い男は手にスマートフォンを持っていた。彼が先程の有次の通話相手。名前は月影。半歩後ろから丁寧に尋ねる。その佇まいはメイドや執事のようだった。
「いかが致しましょうか。」
もう一人の、月影に『主様』と呼ばれている男性は少し悩んでから、口を開く。
「fakerはなんと言っておる。」
「勝てる可能性は限りなく低い、と。」
「う~む……。」
またもや男性は考え込んでしまう。月影は肯定も否定も提案も、何一つ示さず、ただじっと待機している。次の指示を待っているのだ。
「『裏同盟』に緊急招集をかける。月影、また連絡があったら何よりも優先して私に伝えろ。」
「承知致しました。主様。」
男性が去っていった後、月影は部屋に一人残された。頭の中で、今後の自分の行動を確認していた。ふと、大きな机の端に置いてあった、三角柱の真ん中をごっそり抜き取ったような置物に目を向ける。その置物は、底面ではなく面積の大きい側面を机につける形で置かれていた。実際は名前を記したものである。それが少しズレていた。回り込んでズレを正す。
そこには、こう書かれていた。内閣総理大臣 柏田浩之、と。
部屋全体を見回し、特に問題がないことを確認すると、月影も部屋を出て行った。
4
翌日、通学路。
いつもならこの時間ぐらいにここを通るはずだが、見当たらない。
心の不安が膨れ上がる。
あの時声をかけておけば良かった。そういう後悔が後を立たない。
自然と早歩きになっていて、いつもより少し早く学校に着いた。教室の扉を開くと、
「有次!」
窓辺の席、肘を机について、手のひらに頬を乗せ外を眺める。いつもの有次がいた。
ホッとした。これが正直な気持ちだった。でも後から考えれば、なんと無責任なんだろうか。何もせずに、ただ待っていただけなのに不安になったり安堵したり。そんな資格はないんじゃないのか?
「有次、昨日は…」
「……ごめんな、大きな声出しちゃって。」
でも、顔をこちらには向けてくれなかった。ずっと外を見ていて、表情がよく見えない。
少しの間、何と切り出そうと考えた。友人の前だというのに、何故かよそよそしさがあった。
「ゆう――」
キーンコーンカーンコーン
鐘の音で遮られた。
先生が教室に入ってきたことで、渋々自身の座席へ向かった。
踏み込めない。
朝のホームルームにて
「じゃあ皆さんに、改めて転校生を紹介するわ。入ってきて。」
入ってきたのは、昨日も見た銀色の髪の好青年。
名前は、
「改めて、僕の名前は、草薙ラーンウォルフ新夜。一年という短い期間ですが、どうぞよろしくお願いします。」
盛大な拍手でクラスは彼を迎え入れた。
高校三年の時に他所から転校してくるケースはとても珍しい。受験も絡んでくるし、大抵は本人もあまり馴染もうと思わないのだが、彼に至っててはその問題は心配ないだろう。
「彼は知っての通り有名人です。外にはマスコミが複数確認されています。他のクラスや他学年からも無数の人が彼に押し寄せることは、先日の件からもわかることでしょう。ですので、各々節度をもった行動を心がけるように。草薙くんも、その辺はわかってね。」
今日も一目見ようと、学校の周りには住民達が、校内は入り口から教室まで生徒達が群がっていた。昨日の教訓か、今日は朝早くから多くの生徒と警備の人たちが、校内のみならず校外に及んで誘導や注意喚起にひた走った。そのおかげか昨日のようなお祭り騒ぎにはならなかった。
「もちろんです。伊守先生。こちらこそ先日は申し訳ありませんでした。以後気をつけます。」
「分かってるならいいんです。君の席は中央の一番後ろの席よ。座って。」
「わかりました。」
教卓の横から、机と机の間の通路を通って一番後方へ移動した。
その一挙手一投足がクラスの目を引く。自然と目で追ってしまう。異性というよりも、人間としての美しさを感じられた。
新夜が着席したところで、いつも通りのホームルームが行われた。
終わってから次の授業までの間、クラスメイトが新夜の席に殺到した。四方八方から質問を浴びせられても悠々と振る舞い、その度に大きな歓声が湧き上がる。
そんな彼らを他所に、ひとり席を立ち上がり、有次の席へ向かおうとしたところを、誰かに後ろから引っ張られた。
「委員長!?」
波澄がいつもより元気なさそうな顔をしていた。
「篝君、ちょっと。」
「どうした?」
「それはこっちのセリフよ。有次君にさっき話しかけたら、しばらく一人にしてくれって言われたの。やっぱり昨日のことで何かあったのかな?」
「………。」
俯くことしかできなかった。
有次は、自らの主張を極力しない人間だ。たとえ嫌な事があっても黙ってやり過ごす、そういうタイプだ。その有次がはっきりと口にしたということは、やはり何か大きなものを抱えているのかもしれない。
「委員長、後で話があるんだけど。」
そろそろ一限の授業が始まってしまうため、一旦話を区切った。
「じゃあお昼に生徒会室で。」
*
それからというもの、授業の合間や休み時間には、白髪の青年は常にクラスメートに囲まれていた。
「ねぇ、草薙くんのその髪は染めてるの?」
「地毛だよ。僕が生まれた時から白かったよ。」
「マジすごくない? 白っていうかもうシルバーに近いじゃん。めっちゃきれい。」
「ありがとう。」
そうニッコリすると、周りを囲っていた女子たちは一撃でハートを射抜かれた。と言っても、周りには女子しかいないのだが。
いきなり高スペックの有名人がやってきたら、青春を謳歌したい男子諸君の中に快く思わない者がいてもおかしくない。教室の隅で固まってヒソヒソと話している男子たちを、新夜も女子たちも知らない。
一人の女子生徒が、おそらく(女子なら)みんなが気になっていて、かつ聞きにくい話題へ踏み込んだ。
「草薙くんはさ……」
「新夜、でいいよ。」
「う、うん。じゃあさ新夜くんはさ……彼女? みたいな人はいるの?」
「あたしも知りたい!」
「アタシも! 気になる!」
急に熱が上がって、みんなで新夜に肉薄する。しかし、当の本人はなんてことないように、
「そういう関係の女性はいないね。」
と、サラッと言った。
教室中に歓喜の声が響き渡った。
「えー、今日は、大問二十一から三十までです。いつも通り四十分経ったら答え合わせをします。では始め。」
重々しく話すのは、三年E組他幾つかのクラスを担当している数学の教師。この高校の三年生を担当している数学教師の中では最年長で、あと数年で定年を迎えてしまう。
旧時代的な授業スタイルで、内容はあらかじめ予習してきて授業内ではひたすらに問題を解かせる、というものだった。なんのひねりもなく面白味は皆無の淡々とした授業。しかし解説は一番わかりやすく、質問しに行けばわかるまで丁寧に教えてくれることから、どこか憎めない、むしろ裏で人気が跳ね上がっている教師なのだ。
ピッタリ四十分間、教室内にはペンを走らせる音のみが独り歩きしていた。
「はい。そろそろ終わりにしてください。では大問二十一の問一、わかる人?」
ただ問題を解かせるのではなく、アウトプットもさせるぬかりのない授業。
彼らが解いている問題集は、分野・章ごとに十問ずつ大問が用意されており、十の倍数の大問に近づいていくほど難易度は上がっていく。初めの方は基礎的な問題だが、最後の方は大学入試にも応用が利きそうな発展問題だ。この問題を解くというよりは自分で精一杯解いて、その上で解説を聞いて納得することで力をつけられるのだ。だから教師側も初めから正解することを求めているわけではない。
「じゃあ最後の問題、わかる人?」
クラスの優秀な生徒なら時々正解に辿り着く者もいる。が、この問題は誰もわからなかったようだ。
先生が誰も手を挙げていないことを確認して解説に移ろうとしたとき、
「先生。」
教室後方から声はした。一同振り返ると、今日入って来たばかりの転校生が手を挙げていた。
「解けたのかね?」
「はい。」
「では発表したまえ。」
新夜は静かに立ち上がると、ホワイトボードに答えを書いていく。
「初めに条件のa、bについて場合分けをします。a=bならば、大問二十七問二の条件式がそのまま使えます。a≠bの時は、与えられた条件式の両辺の自然対数を考えると、前問f(x)、g(x)を用いてf(a)=g(b)が成り立ちます。ここで方程式を解いて――――」
ホワイトボードに自分の答案を書き写しながら解説までしてしまった。それはもう教師のそれと同じだった。
新夜が自分の席に戻るまで先生も含めた全員が呆気にとられてしまった。
「新夜くん、やっぱり頭いいんだね!」
「いくつもの大学を卒業したってほんと?」
「正式に卒業したわけではないんだよ。ただその試験に合格したってだけだよ。」
「それ普通にすごくない? じゃあさ、高校の勉強ってやっぱり簡単?」
「んーと、思ってたほど簡単じゃないね。意外と忘れてること多いし。それにここの高校のレベル結構高いからね。みんなだって今難関中学の模試を受けて満点は取れないでしょ。」
「じゃあじゃあ、あれは?あの~、えーと、なんか小っちゃくて映像映し出すやつ。名前なんだっけ?」
「『アーク』、だったかしら。」
隣から別の女子が助け舟を出す。
「そうそうそれ! その『あーく』、って新夜くん開発に協力してたって本当なの?」
「ああ、アークか……。」
新夜は少し困ったような顔をした。今までどんな質問にも軽快に答えてきたが、こんな様子は初めてだった。
『アーク』
宙を浮くことが出来る球形小型デバイス。サイズは片手に乗る程度のものだ。
二年前。新夜の父でありスパーク社の社長、ウィリアム・ラーンウォルフがこのアークという製品を公式発表した。
これは、単体で空中にモニターを投影し、映像を流すことができる。SF作品に出てくる何もないところに立体映像を映し出すホログラフィック技術のようなものを、二次元映像に限定してだが可能にした革命的な製品なのだ。記録した映像のみならず、リアルタイムの映像も流せる。さらに、このデバイス自体がルーターのような機能を備えているため、一定間隔ごとにアークを配置していけばどこにでも映像を流すことができる。
広告や宣伝、災害時の警告や誘導まで行える汎用性から、日常に普及すれば生活は一変するだろうと言われている。しかし、まだ商品化、量産化の目処はたってない。現在はより改良を重ねており、太陽・風・熱など様々な自然エネルギーをアーク自身のエネルギーに変換する超小型汎用発電装置を取り付けることでバッテリー問題や、どんな雨風や強風、あらゆる状況下にも耐えられる耐久性に着手したりと、世間の期待はうなぎ登りで上がっている。
ここで登場するのがウィリアムの息子こと新夜。新夜の知名度は、父ウィリアムの事業が成功し始めた頃から徐々に上がっていった。これには複数の理由が少しずつ関与している。第一に、ウィリアムの扱っている事業がまだフィクションの存在と思われた電脳技術だったということが世間の注目を集めた最初のきっかけだ。アークはウィリアムにとってはまだまだ通過点でしかなく、ゆくゆくは脳にマイクロチップを埋め込み、脳の電気信号をそのチップを通してアーク本体に送ることで、操作なしで自由自在にアークを動かせるようにしたいと彼は公言している。もっと先の未来では、漫画やアニメのような世界が待っているかもしれない。そう万人に思わせる彼の事業は、大いに社会の目を引いた。大ブレイクした俳優の周囲や私生活にメディアが関心を持つのと同じように、彼の息子に関心が集まるのは時間の問題だった。
次に大きな要因は、新夜の頭脳だ。ウィリアムが有名になると、どうやら息子がずば抜けた頭脳を持っているということが判明していく。取材した記者はさぞ驚愕したことだろう。まだ十三歳の少年が、世界でも有数の大学の試験を難なく解いているのだ。しかも当時、少年は学校や塾に通ったことがなく、通信教材の類もほとんどなかったのだ。加えて様々な分野に精通していて、その明知は奇跡、と言われるほどだった。
次第にSNSやメディアに顔が出るようになり、その端正な顔立ちと銀にも似た美しい白髪、そして形容しがたい神秘的なオーラは多くの人を魅了した。彼自身も、露出を毛嫌うことはしなかったため、知名度は緩やかに膨れ上がった。
決定的だったのが、アークの公式発表でのことだ。質疑応答においてアークの名前の由来について聞かれたとき、ウィリアムはこう答えた。
「アークは方舟からきています。創世記において、ノアは方舟を作り、家族と動物たちを連れて大洪水から逃れました。私が開発したアークも、皆さんをより良い未来へ導けるようにと考え、こう名付けました。と言いましても、本当は息子が名付けたんですけどね。」
当初は皆笑いのネタぐらいにしか思ってなかったが、よくよく思えばその息子さんは頭脳明晰でいらっしゃる。もしかしたら開発に携わっていたのではないだろうか。疑問は渦巻き、尾ひれのついた噂だけが拡がり、事実は未だにはっきりしたわけではないのだが、いつの間にか彼はすっかり名の知れた有名人となっていたのだった。
「あれはちょっと手伝ったぐらいだよ。開発メンバーに加わったわけではないし。」
すると一斉に周りの女子達が食らいついてきた。
「それって、開発に関係はしてたってことだよね!」
「う、うん。まぁそうなるね。」
キャー、と歓声がまた教室に響いた。
当の本人は何が起きているのわからずキョトンとしているが、周りは大興奮だ。
「アタシたちが初めてじゃない?知ったのって。」
「そうよきっと!噂が本当だったなんて!」
「マジヤバくね!」
ここでやっと新夜は気づいた。
「ああそういうことじゃなくて、別に噂が本当ってわけじゃ……」
「でもお父さんのお手伝いをしてたんでしょ?」
慌てて火消しに回ろうとしたが手遅れだった。墓穴を掘った自分を後悔しても、今更だ。
素直に降参ポーズをとって、
「ネットには流さないでくれよ。」
「「ハーイ!!」」
お母さんに自慢しよとか、友達に知らせないと、などなど新夜は聞こえないふりをした。
体育の時間、グランドにて。
「お前ら! 来たばかりの転入生にいいようにやられて、そのままでいいのか!」
そう発破をかけたのは、体育担当の熱血教師。ちなみに陸上部の顧問である。
「あいつ上手いな。確か未経験って言ってなかったっけ?」
「多分未経験。だってルール全く知らなかったし。」
「……マジか。」
「というかさっきから黄色い声が止まないのは何故?」
「バカ、一々口に出すな。みんなわかってるよ。」
「あそこ、二階から四階の窓。ほとんど女子の顔でぎっしり。」
「だから言うなって。」
「くそ、このままいいようにやられっぱなしなのは嫌だな。」
「おう、そうだな。周りの声黙らせようぜ。」
このチームは今、一致団結を果たした。
勝ち負け、というよりも、引き立て役という表現が一番似合う。そんな試合だった。
ここに、タオルで汗を拭いて休憩している男子がいる。
彼の名前は、西東拓哉。
サッカー部の部長をやっている。先に一つ言っておくべきことは、キャプテン=一番強い、というわけではないことだ。特に団体競技においてはみんなのまとめ役が必要であり、キャプテンとなったものは、どちらかと言うと精神的な面の主柱になることが多い。普段の練習において、ヘラヘラとふざけながらやってるキャプテンがいたとして、果たして周りも真剣に練習に取り込めるだろうか。
彼の所属している朝陽第一高等学校サッカー部において、一番強い選手、つまりエースは篝翔である。これは自他共に認めていることであり、だからこそエースは責任感を強く持ち、キャプテンはこれを考慮してチームをコントロールし、メンバーはサポートし貪欲に勝利を求める。拓哉自身も最高のチームだと思っている。実際彼らは県有数の強豪チームであり、今年で悲願の全国大会を目指しているところだ。
彼と翔の初めの出会いは、小学生の時に所属していた地元のサッカーチームでのことだった。それから中高と、ずっと一緒の学校で一緒にサッカーをやってきた仲だ。
(…………。)
グランドでプレーをしている翔を見て、昨日から様子がおかしいことが気になっていた。
元気がないこともそうだし、何よりサッカーをしているのに笑っていなかった。
サッカーをしている翔は、どんな時でも楽しそうにプレーしていた。体育であっても、声は出すし周りと笑い合いながら楽しむはずだ。
それが今は、黙って気の抜けたプレーをしている。
ボーッと考え事をしていると、隣から、
「水分補給に気を付けてね。今日は暑いから。」
「おお。サンキュ。」
あさっての方向を向いていたから、差し出された共用のスクイズボトルを意識せずに受け取った。ちょうど喉が渇いていたから、ぐびぐびと喉を鳴らして飲んだ。
ふと横を見ると、
「!! っんゴホッゴホッゲホッ!!」
まさか横に立っていたのが噂の転校生だった。
「大丈夫か?」
「あ、ああ大丈夫だ。」
西東拓哉は転入生、新夜のことがあまり好きではなかった。正確に言うと好きになれなかった。
先ほどのサッカーの試合を見ていて、体育の時間といえど彼のパフォーマンスはおそらく自分のレベルを超えていると感じていた。
圧倒的な才能、運動神経。
これでイケメンで頭もよくて性格も良いときた。嫉妬すら覚えてしまう。特に人一倍努力を積み重ねてきた者にとって、生まれ持った才能は嫌悪の対象でしかない。
「お前、さっきの試合。本当にサッカーやったことないのか?」
「うん。試合前にちょっとだけ教えてもらったんだ。サッカーって面白いんだね。知らなかったよ。」
「……そうか。」
しかしどうしてだろう。彼自身にもよくわからなったが、実際に話してみると不思議と嫌味な感じがしなかった。
人当たりもいいし、温厚で誰かを下に見たり、自分のことを得意げに話すこともない。なにより他人との接し方がうまかった。彼自身とても輝いた存在なのに、一緒にいても隣を歩いてくれるような、歩幅を合わせてくれるような、それで苦しく感じない絶妙な距離感。
こちらが勝手に鼻につく奴と思っていただけかもしれない。
「ねえ、君のことなんて呼んだらいい? 名前が長いからどう呼んだらいいのかわからなくて。」
「新夜、でいいよ。この名前気に入ってるんだ。」
「わかった。俺の名前は、西東拓也。サッカー部の部長をしている。もし興味があったら一度来てみてくれ。」
二人は授業が終わると教室まで一緒に戻った。
新夜の女子人気は言うまでもないが、男子達と良好な関係を築くのに、そう時間はかからなかった。
この学校の昼食事情は、半々で弁当派と購買派に分かれていた。食べる場所は特に指定がなく、外で食べる者も少なくないが、教室のほうが机と椅子があり食べやすいことから、教室で昼食をとる生徒が一番多い。
基本的に男子は同じ部活動の連中と固まって食べることが多い。例えば野球部の生徒が多くいるクラスには、昼になると他クラスから野球部の仲間たちがそのクラスに集まってくる。その点E組はそういった固まった人数のグループがなく、男子達の多くは他クラスに行ってしまう。そのため、普段E組は女子達のたまり場と化しているのだ。そこに噂の転校生を投下したらどうだろう。
答えはご覧の通りの有様だ。新夜を中心にぐるりとガールズであふれている。そんなことは気にも留めず、新夜は平然と自分のバックから、ギリギリ片手で乗るくらいの小包を取り出した。上面でがっちり結ばれた結び目をほどくと二段の弁当箱が姿を現した。両段の蓋を開けると、上段にはおかずが、下段には白米がびっしりと敷き詰められていた。
「新夜くんはお弁当なんだね。」
周りの女子の多くはは購買で買ってきたパンを食べていた。
「親に作ってもらってるの?」
「いや。自分で作ってるよ。」
「「「えっ!?」」」
「……今何か変なこと言った?」
周りの反応に戸惑いを感じたが、すぐに質問攻めをくらうのであった。
「新夜くん料理もできるの?」
「料理ってほどじゃないよ。そんなに珍しいかな。」
「うんうん珍しい。なかなか自分で弁当作る男子高校生はいないわよ。」
「そうかな……。昔からずっと作ってたからそんなに気にしたことなかったよ。」
「ねぇねぇどんな感じに作ってるの?」
こう質問してきた女子は、見るからに炊事や家事ができなさそうなわんぱく少女といった印象だった。
「今日ので言うと、これはほれんそうとベーコンを適当な大きさに切ってバターで炒めただけ。この鶏肉は冷凍してあったものを解凍して、適当に火を通して味付けしたんだ。最後に卵焼きを作っておしまい。それ以外の具は昨日の余り物だったり、パック詰めされたものを移しただけだったりするんだ。」
「何かポイントとか工夫してることはあるの?」
「そうだね……。朝だからそんなに手の込んだことは出来ないんだ。だから例えば、作る順番を考えるんだ。今日だと肉を料理した後に卵焼きを作ると、仄かに肉の風味が卵焼きにうつるんだ。」
今度は別の子が、
「見たところご飯には何ものってないけど、ふりかけとかごま塩とかで食べないの?」
「これはね、一見ただご飯が詰められてるだけに見えるけど、」
そこで一旦言葉を区切ると、箸を取り出して少量のご飯をとってみせた。すると、下層に黒いものがご飯の上にのっていた。もう白がわからないぐらいに。
「初めにご飯を半分ぐらいの高さまで入れる。そしたら海苔を上に敷き詰めて醤油をかける。その後また上からご飯をのせているんだ。簡単なのり弁、てとこかな。」
日頃から購買でパンを買っている女性陣はただただ感心の声しか出せなかった。なぜなら、彼女達は弁当など作ったことがないのだから。
それから彼らは昼食を食べている最中、なぜか新夜による料理講座が開かれるのであった。
食べ終わり、しばらく会話を楽しんでいると、
「なあ新夜、この数学の問題わからないんだど、教えてくれない?」
横からクラスの男子の一団が輪に入ってきた。
それまで新夜と楽しくお話ししてた女子達は腹を立てて、
「ちょっと男子! いきなり入ってきてどうゆうことよ。質問なら先生に聞けばいいでしょ。」
何だと、と女子と男子の言い争いが起こってしまった。
「僕は教えることぐらいわけないよ。」
女子の顔は険しくなり、反対に男子の顔は明るくなった。
「ちょっと新夜くん、こいつらを甘やかしちゃダメよ。」
「なにお堅いこと言ってんだよ。別にいいじゃねえかよ。」
「そう言って、結局は宿題見せてもらう魂胆でしょ。」
ギクっと明らかに体が強張ったのが見えた。
「あいつらが去年、どれだけクラスの平均点を落としていたか知ってるんだからね。」
「い、いや〜、そんなことないって。ただ普通に教えてもらおうと――」
「目が泳いでるわよ。」
「………………。」
「フフフッ。」
意外にも笑ったのは新夜だった。
それにつられて周りの空気もたちまち和んでいった。
*
昼休み。
篝翔、波澄久礼波、朧一、の三人は、生徒会室の前に来ていた。
「既に許可は取っているから。」
というのも、生徒会室には無断では入れないようになっている。
この学校の規模は大きく、かつ世間の注目を集めることが多いため、生徒会の仕事は他の学校と比べて多岐に渡り、責任を伴う仕事も任されることがある。それほど生徒会とは簡単な思いでなれるものではなく、務まるものでもない。学校の威厳と体裁を保つためにも、生徒会室が遊び場になるということはあってはならないのだ。選挙などでメンバーが入れ替わる時期に近づくと、希望者は入室を許されることもあるが、それは冬のことである。
簡単に言えば、生徒会室は一般生徒にとって入りづらく近寄り難い場所なのだ。
生徒会室は、入ってみると普段の教室よりも二回りも大きかった。それは生徒会の構成人数が多いからだ。まず、生徒会長が一人。副会長が二人、男女一人ずつの構成だ。次に、書記、二人。監査は三人。会計、広報、庶務は四人ずつ。それぞれ二年次以上の生徒で男女問わない。となっている。外部の先生方を招くときに生徒会の助けを借りることもあるため、メンバーは多くなっており、生徒会室は一種の会議室になっていた。長机が中央に置かれていて、囲うように椅子が多数置かれている。正面と後方の壁にはホワイトボードが壁に埋め込まれていて、数々の資料がマグネットで留められている。
翔は、実は生徒会室に入るのが初めてではないため、遠慮なく空いている席に腰掛けた。一方一は、オドオドしながら翔の隣の椅子に座る。
「最近は特に何もないから、問題ないわ。」
「やけにすんなり許可が降りたのは、そのためか。」
「いいえ、私の信頼よ。」
「はいはい。」
生徒会は、仕事によっては一般生徒に見せられないものを扱うことも時々ある。そういう時は一般生徒を同伴させることは難しくなるが、今はそうじゃないようだ。
各々持参した弁当を机に出した。
「それで、話って……」
一は、ついさっき翔に簡単に誘われてやって来ただけで、どうしてここに集まってのかを知らないでいた。
「朧君も感じているでしょ? 有次君の様子が変だって。」
「……うん。」
「まあ、変っていうか、人とズレてるって点じゃあいつも通りさ。相変わらず何考えてんのかわかんねぇし。」
(それに、俺はあいつのことをそんなに知ってるわけじゃなかった。)
有次といる時は楽しかった。だから、有次が何を考えているのか、深く考えることはなかった。
楽しい、それは自分にとってとても重要なことで、きっとそれを理由に無意識のうちに様々なことから目を背けてきた。
だから、今、有次のことがわからないでいる。
「でも、今回は違う。何がどう違うのかうまく説明できないけど、これだけは断言できる。」
たとえ有次のことをよく知らなかったとしても、一緒に過ごしてきた時間だけは正直だ。
「同意ね。有次君は、自分から積極的に誰かと関わろうとしないけど、それは多分、人との関わりが嫌いだからじゃないと思うの。」
「うん。僕も有次くんと友達になったのは、有次くんから話しかけてくれたこときっかけだから。」
波澄は一のその言葉を受け止めて、少し俯き、二人にこう問いかけた。
「……去年、有次くんが不登校になったのを覚えてる?」
一は頷いた。
「篝君は知らないと思うけど……」
「いや、あいつから聞いてるぞ。」
「ホント!?」
「ああ。こっちに帰ったときに、な。」
「じゃあ、どうしてかワケを聞いたの?」
「そこは言わなかった。いずれ話すって。」
「………そう。私にもね、その核心だけは話してくれなかった。私は、彼がとても大きな闇を隠してるように思えて、でも、彼から話すのを待つしかないのかな……。」
三人の箸が止まった。
翔は、この場にいる三人が今、共通の友に向かって同じ悩みを抱いていることに気が付いた。
「委員長と一は、昨日の会話聞こえたか?」
明確に誰と誰の、どこでの会話かは言わなかったが、昨日と言えば察しがついた。
「僕、あんまり聞こえなくて。」
「一は少しだけ遠くにいたからな。」
「私は近くにいたから、何となく聞こえたわ。」
「俺にも聞こえた。有次は転校生のことを『サイファー』と、そして転校生は有次のことを『フェイカー』と呼んだ。それがどういう意味なのかはわかんないけど、なんか嫌な感じだった。」
昨日の教室での出来事を思い出す。
“お前がサイファーだな。”
“そう、僕がサイファーだ。初めまして、フェイカー。”
そのときの様子は、とてもじゃないけど、穏やかなものではなかった。
「でも、二人の父親は今共同研究してるぐらいだし、もともと知り合いだった、とか?」
「私そこが引っかかるのよね。」
そう言って、弁当のから揚げをほおばり、もぐもぐとゆっくり咀嚼して後に飲み込んだ。
「二人は、お互いに名前とは別の呼び名で呼び合った後に、何故か自己紹介したの。相互認知してた呼び名を持っていたのに、まるで初対面みたいだった。」
その説明は、翔が何となく引っかかっていたつっかかりを上手く言語化してくれた。
「…………。」
結局ああだこうだここで話し合っても、答えは出ない。
「なあ、今日の放課後、幸一に会いに行こうと思うんだけど、一緒に行くか?」
「こういち、って誰?」
「有次の弟だよ。血はつながってないけどな。」
一は有次の弟のことは知っていたが、その名前までは知らなかった。
というのも、有次と弟の幸一は、このあたりではちょっとした有名人なのだ。世界平和同盟が設立されて一番初めに行ったのは、『言語の統一』と『一人っ子政策』だった。
それから百年。政策後に生まれた子供たちは既に年老いて、亡くなっている者も少なくない。その全員が、兄妹がどういうものなのかを知らない。世代を重ねる毎に、『きょうだい』という単語自体薄れていった。知識的には知っているが、馴染みがなくてよくわからない、というのが現状だろう。
基本的には、養子などを引き取って義兄弟を作ることも許されていない。差別をなくすためだ。
だが、例外的な事例で兄弟が認められる場合もあり、世界規模では一定数いる。有次と幸一もその一つだ。
だとしても、兄弟というのは珍しいもので、父親が企業の社長というのもあって地域では名が知れ渡っているのだ。
「……でも、幸一くんに会いに行くってことは、有次くんの家に行くってことだよね?」
一は、今の有次と話してまともに相手してくれるのかを危惧したが、
「さっき連絡したら、今日は部活で夕方まで学校にいるって。」
自宅に向かうのではなく、幸一の通う学校に直接向かうという意味だった。
「篝君は部活いいの?」
「ああ。一応昨日派手にぶっ倒れたばっかりだからな。…………そういえば、今日誰にも心配されなかったんだけど、…………まあ気のせいか。」
「気のせいよ。」
「うん。気のせいだよ。」
三人の止まっていた箸が一斉に動いた。
*
「なあなあこの間さ、幸一の兄貴を見たよ。」
「マジ!? 俺見たことないよ。」
午後六時十分。朝陽第一中学校サッカー部部室兼更衣室。
汗まみれの少年たちが、制服に着替えながら会話している。
「どこで見た?」
「それはこの前の週末だった。商業区のスポーツショップを巡ってたんだけどな、遠くに幸一を見つけたんだ。そしたら隣にいたんだよ、兄貴が!」
誇らしげに語る少年に、食い気味で耳を傾ける少年たち。
この学校のサッカー部で、実は有次はレアキャラだったりする。
そんな部員たちに呆れながら、早々に着替え終える。丁度、ポケットに入れたスマホが振動した。
『着いたぞ(^^)』
それは、翔からの連絡だった。
『今から行きます!!』
打ち終わって、再びポケットにスマホをしまい、
「じゃあ僕は先に上がりますね。」
部員たちに言ったというよりは、部室に向かってとりあえず言ったかたちだった。
「まままま、置いていくなよ、幸一。」
「まだ話は終わってねぇ~ぞ~。」
両脇を悪友に固められる。
部室を出てから、一直線に校門へ向かう。もちろん両耳のノイズを無視して。
校門までは、徒歩で五分もかからない。
日はまだ完全に落ちておらず、はるか遠くの残照が空を淡く染め、視界が真っ暗になることはなかった。
そうでなくとも、普段から親しい人は背格好のシルエットと雰囲気だけで判断できる。
だから、校門の外にいる三人組の内の一人が翔だとすぐに気付けた。
「お待たせしました。」
「こっちも着いたばっかだ。悪いな、急に。」
「いえ、大丈夫です。……それで話って。」
「そのことなんだが、……」
幸一は、翔から話があると連絡を受け取ったとき、その内容がどんなものなのか気になってしょうがなかった。だというのに、寸前で翔が話を止めたのは、決して翔の意図するところではない。
幸一のすぐ後ろにいた二人の少年が目に入ったからだ。
「お、お兄さん……?」
そう口にしたのは、先ほど部室内で幸一の兄貴を見かけたと誇らしげに語っていた少年だ。
「え!? この人幸一のお兄さんなの!?」
話題がホットな状態に加えて、まさかのご本人登場で、年相応の驚き方を見せてくれた。
「ちょっと待って。なんでそうなるのさ。」
振り向きながらいち早くツッコむ幸一。
「だって、さっきの話で幸一の横にいた人は……」
「……僕、その人が僕の兄さんだって言ったっけ?」
「……。」
全く言い返せず固まった二人だが、誰もが予想しなかったことを言い放つ。
「だよなー。そうだと思ったよ。」
「確かに。こんなチャラそうな人が幸一の兄貴なわけないか。」
あっはっはっ、と笑い始めた。
「なーんだ、ただの見間違えか。あんな堂々と言ったのに恥ずいな。」
「その時は人混みでよく見えなかったんだろ? まあ、仕方ないさ。……ところで、幸一はこの後この人たちと何か用事?」
「う、うん、一応……。」
「そっか。じゃあ俺たち先に帰るな。」
「じゃなー。」
ポカンとしている幸一に、一方的に言いたいことを言って、横を通り過ぎて校門から二人は去った。
少しの間、彼らの談笑は聞こえ続けた。
「…………最近の中坊はこんなにも生意気なのか。」
やや声が小さい。どうやらご立腹だ。
「翔さん、彼らは正直なところがいいところなんですよ。」
苦笑いしながら友人をフォローしつつ、火消しを試みる。
「まったく…………兄さんは悲しいぞ!」
「あなたは兄さんじゃないでしょ。」
波澄の呆れたツッコみで場は静まり返った。
「こいつの名前は朧一。クラスメイトだ。」
「初めまして、久遠幸一くん。僕は朧一。有次くんとは去年同じクラスだったんだ。」
「そうだったんですか。」
幸一を加えた四人は、ゆっくりと帰路を歩き始めた。
「そんでこっちは――」
「久しぶりです。波澄さん。」
「そうね、半年ぶりくらいかしら、幸一君。」
「…………え、知り合い?」
そう言った翔はデジャブを感じた。
「私、幸一君のこと知らないって言ったっけ。」
それは、さっき幸一が友人に向けて放ったセリフのオマージュになっていた。この場合、相手を挑発するように言った波澄には、明らかに翔を馬鹿にする意図が含まれている。
「あっははー、意外と世界は狭いなんて言うけど、ホントだったんだなー。」
怒ってないよと言わんばかりの棒読みは、誰がどう見ても怒っているのだが、表に出さないあたり、少しは精神面で大人になったということなのだろうか。
「町で有次と一緒にいるところでも見たんか。」
「違いますよ。最初は家に来たのがきっかけで知り合ったんです。」
「…………家!? おいおい、有次の家に行ったのか委員長。大胆だな。」
後で詳しく、と幸一の耳元で小さく呟いたが、波澄には筒抜けだ。
「べ、別に、私はただ有次くんが心配で――」
もう段々と暗くなってきて顔色は見えづらいが、波澄が顔を赤らめているのは想像に容易い。
翔はニマリと笑みを浮かべ、
「別に理由までは聞いてなかったんだけどな。もしかして、俺何か言ったっけ。」
「ッ……」
殴りかかりそうなほど強く拳を握りしめたところで、一と幸一が止めに入った。
「喧嘩は止めようよ、二人とも。」
「そうですよ。それに、話って何なんですか?」
「お、そうだった。」
話を元に戻す。
「昨日の有次はどんな感じだった? なんかいつもと違うとことかなかったか?」
「そうですね、特には。でも、今日から翔さんの家にお泊りなんですよね? 何かあったんですか?」
えっ、と波澄と一はつい声を零してしまった。
しかし、
「それがな、あいつ急にふらーっとどっか行っちまってよ。どーこほっつき歩いてるんだが。」
後ろ頭に手を回しながら、翔は面倒くさそうにそう言った。
暗くて、横を歩いてた二人の驚いた顔が幸一にばれなかったのは幸いだった。
「昨日は電話でしか話してないので、放課後は見かけてないですけど、兄さんのことですから、ふらっと帰ってきますよ。」
「それもそうだな。」
翔はそう言って、笑った。
道中は、幸一と翔が主にサッカーの話をして盛り上がった。
「へぇ~。じゃあ、幸一くんがサッカー部に入部したきっかけは、翔くんだったんだ。」
「はい。」
「有次君がやってないのに、急に始めた理由がわかったわ。」
「兄さんはスポーツとか全くやりませんから。遊びに来る翔さんに少し教わって、それで部活に入ったんです。」
「幸一はな、才能あるんだぜ。飲み込み早いし、時期エースさ。」
幸一の肩をポンポンと叩きながら、誇らしげに語る。まるで、自分が育てたんだすごいだろと自慢しているみたいだ。
だが、実際に今でも時稀に指導をしていたりする。
本人曰く、
「指導が出来てやっと一端の天才なのさ。」
運動やスポーツを嗜まない波澄や一にはよく分からない領域だった。
翔の指導内容や方法、幸一の部活での様子を話していたら、いつの間にか幸一の自宅に通ずる一本道の前だった。
「では、僕はこっちなので。」
「ああ、また今度な。」
各々挨拶を言い合って、幸一は一人、明かりのない家に向かっていった。
暫く幸一の背中に手を振り続けた三人は、やがて先へ歩き始めた。
「僕、有次くんの弟さんと初めて会いましたけど、いい子ですね。」
「だろ? どっかの無愛想な兄貴とは大違いさ。」
駄目な父親と自由人な兄と一緒に暮らす幸一は、自然と大人びた十四歳へと成長した。目上の人に対しても、尊敬を忘れずに、しかし謙遜し過ぎない適度な距離感を築く。話している側も、過度な気遣いをせずに済むから、フレンドリーに接することができる。初対面で幸一に悪印象を持つ人はさほどしかいないだろう。
「そんなことより。」
波澄は、ずっと気になっていたことを聞く。
「さっきのあれは――」
「もちろん嘘さ。」
「やっぱり。」
答え合わせに近い質問だった。
「あれって、有次くんが翔くんの家にいるって話?」
一の質問に翔は頷く。
「あいつは、幸一にも嘘をついてどっかにいるってことだ。」
「でも、どこにいるんだろ。商業区のお店はどこも二十三時に閉まっちゃうし、朝陽には、ネットカフェや漫画喫茶、朝まで営業しているカラオケはないから………ホテルは高いし…………」
波澄も頭を悩ます。
試験都市として、犯罪や堕落に繋がる要素は排除しているのも特徴の一つだ。仮に家を失って所謂ホームレスのような状態に陥っても、世界平和同盟の支部に行けば、大抵は何でも解決する。この朝陽で二十四時間営業している店など、居住区のコンビニぐらいだ。
ホテルに関しても、朝陽では平均価格がとても高く、ただの高校生が簡単に泊まれるようなホテルを、彼らは知らない。
問題なのは、家に帰ってないであろうはずなのに、そんな様子が確認できないことにある。
(誰いない時間帯に家に帰って、着替えを回収。商業区の銭湯に行けば、服は制服だし、翌日登校しても特に違和感は残らない。でも、どこで寝たのかしら。ホテル?)
世界最先端の試験都市で、平和に暮らしてきた女子高生には、ダンボールを使って路上で一夜を明かしたり、公園の茂みに寝そべって寝るなどの選択肢は出てこなかった。
「どれにせよ、あいつはやっちゃいけないことをした。」
翔は怒っていた。
この時、二人は翔が何に対して怒っていたのかを知らない。
5
翌日の朝。
未だ止まぬ新夜人気で、今日も学校は三年E組を中心に騒がしかった。
朝のホームルームが開始される五分前。
教室の後方中央。新夜の座席を沢山の女子が取り囲むのは、たった一日でこのクラスの日常風景となった。
前方の教卓の近くでは、波澄と一が一緒にいた。翔が登校してくるのを待っているのだ。
窓際やや後方の座席には、昨日と同じように有次が静かに外を眺めている。教室に流れ込む風を一身で受け止める姿は、風景に溶け込んだ自然そのものだった。
ガラガラガラ、と少し荒々しく教室の扉が開いた。しかし、女子たちの会話のボリュームと比べたら、小さなノイズだ。
入ってきたのは翔だ。
波澄が気付くのが遅れた理由は、翔が後方の扉から入ってきたからだ。翔の座席は一番前。だからいつもは前方の扉から入ってくる。そのつもりで二人は視線を前方の扉に集中させていたのだ。
教室に入ってきた翔は、そのまま新夜を囲う女子の一団を通り過ぎ、窓際のある席へ近づいて行く。波澄が翔に気付き、横の一を小突いたのはこのタイミングだった。
翔は有次の席に片手を着いて、何か喋った。
声が小さかったのか、それとも周りが騒がしかったのか、どちらにせよ波澄たちまでは声が届かなかった。
その数秒後、
「いいから来い!!」
教室中に響き渡った怒声は、室内全員を一瞬にして黙らせた、
その声を出したのは、翔だった。
近くにいた女子たちが翔を見てびっくりしていた。
唯一驚いていないのは、一番近くにいた有次だ。顔色一つ変えない。
翔はずかずかと後方の扉から教室を出て行った。翔が消えた後、驚きで静まり返った教室に、今度は場違いな椅子と床が擦れる耳障りな音が響いた。
みんなが唖然とする中、有次も後方の扉から教室を去った。
*
まだバッグを背負った状態で、翔は廊下を傍若無人に歩く。
ついて行くには距離が離れた位置で、両手をポッケに差した有次が黙って歩く。
二人は階段を上がる。
どんどん人気が無くなり、やがて聞こえてくるのは自分たちの足音のみとなった。
一番上まで上った。
一層頑丈に閉ざされたドアは、屋上に繋がっている。
朝陽に限った話ではなく、安全性の問題からどの学校でも屋上は立ち入り禁止だ。
そんな当たり前の常識を知っていてなおここにやって来たということは、もちろんそういうことだ。
翔が目線を右下に移す。
ドアの横の壁には、消火器が取り付けられていた。収納されていたプラスチックの箱を開け、手を伸ばして箱の内側をまさぐる。
チャリン、と音がすると、間もなくして手を引っ込めた。鍵を持っていた。
裸の鍵をドアノブに差し込むと、するりと簡単にロックが解除された。
普段全く使われていないドアは、ギギギと重々しく開いた。
新しい風が吹き抜ける。
屋上の端には、大型の変電設備や電気設備がフェンスで囲われている。それ以外は目立ったものが置いておらず、開放的な屋上だ。
翔に続いて有次が屋上に入ると、ドアは勝手にバタンと大きな音をたてて閉まった。
朝陽が高層都市であるように、この学校も一般の学校よりは階数が高い。一階には昇降口や保健室、体育館などがあり、二階が一学年フロア、三階が二学年フロア、四階が三学年フロアとなっている。五階以上は、職員室や授業で使う教室などが敷き詰められており、屋上は十階だ。
学校は居住区にある。商業区であれば十階は低い部類だが、居住区はマンションと一戸建ての割合は五分五分だ。特に、日照権の問題から、高層マンションは同じ地区に乱立されないので、屋上からの景色は格別だ。
家の屋根は意外とバリエーションが豊かだ。同系色の色でも、日焼けで色褪せ、全く同じ色は存在しない。物珍しい風景ではないが、よく観察すると日常風景の美しさを感じられる。
だが、屋上の二人は、外の景色ではなくお互いしか見ていない。
冷たい表情で。
「有次。お前、幸一に俺のところにいるって嘘ついたな。」
「…………。」
「俺に嘘をつくのはいい。でも、幸一にはそんなことするなよ、弟だろ。」
「…………。」
たった一つの嘘。小さな、しょうもない嘘。そう他人に捉えられてもおかしくないが、先日からの有次の様子の変化を考慮した時、翔にとってこの嘘はただの嘘では済まされないと思った。他にも重大な嘘を、弟の幸一にしているのではないか。そう思わせるには、翔にとって十分な状況だったのだ。
「確かに、俺に兄弟はいない。だから、俺にそんなこと言う権利があるかはわからない。でも――」
「話はそれだけか?」
ため息を零して、有次はそう言った。
「…………は?」
「だから、話はそれだけか? なら教室に戻るぞ。そろそろホームルームが始まる。」
早々と目線を切り、ドアへ戻る有次。
翔は大股で近づき、その背中をぐっと掴んで無理やり自分の方を向かせた。
「お前、それ本気で言ってんのか?」
有次は、答えない。
「俺の知ってる久遠有次は、弟思いで優しい奴だ! 俺の知ってる久遠幸一は、そんな兄が大好きな少年だ! そんなお前にとって、ちっぽけな話かこれは!」
「じゃあ聞くが、お前は俺の何を知ってるんだよ。」
「!」
有次は、自分の肩を掴んでいる翔の手を乱暴に払った。
「常々思っていたことだが、お前は俺に、……いや、兄弟というものに対して、美しい目で見過ぎだ。そんなに美化されるほど、俺は綺麗じゃない。俺は…………」
そこで言葉を切った。何か言いたいことを、一瞬ためらったようにも見えた。
ただ、それよりも、有次の言葉が深く翔の心には刺さっていた。
何も言い返せず、図星だったから。
さも有次のことをよく知った風に話したが、その実有次のことを何も知らないし理解していない。有次と幸一の兄弟を、どこか清く尊い存在のように思っていたのも事実だ。
なによりも、本人から言われたことが、翔には余計に刺さった。
「もういい。これ以上、俺に関わるな。」
今度こそ、有次は屋上を去った。
止めることは、出来なかった。
6
「この後、空いてる?」
「え?」
冗談抜きに口からこぼれてしまった。そしてそれは自分だけではなかった。クラス中の女子が同じように固まっていた。
どうしてこうなったのだろうか。一度自分の胸に聞いてみることにしよう。
私の名前は波澄久礼波。朝陽第一高等学校、三年E組の学級委員長と生徒会長を務めています。自分で言うのも変ですが、私は『真面目』が好きです。友人と派手に遊び回るよりは、勉強したり読書をしていたい人なのです。しかし、別に自分とは違う好みを持っている人を、蔑ろにしたり疎外に感じたりはしません。今日E組に転入してきた草薙・ラーンウォルフ・新夜くん。逆に名前が長いせいか覚えてしまいました。彼は誰が見てもかっこいいと思うほど容姿が整っていて、性格も良好、頭も良いのです。他所から見ていても完璧と言えるかもしれません。ですが彼はまだ学校に来て間もない。できる限りのサポートはしてあげたいと考えていました。でも彼の周りにはいつも沢山の人がいるので、私が出来ることは少ないのかもしれません。と、思っていたら彼から声をかけられました。ちょうど帰りのホームルームが終わって帰りの支度をみんながし始めた時でした。彼は当然女子人気がとても高いです。狙っている女子が多いのも知っています。そんな彼が私に予定を聞いてきたのです。驚愕です。私は彼とほとんど話したことがありませんから。なぜ彼がこんな質問をしてきたのか皆目見当もつきません。
全く意味のなかった自己回顧を済ませた波澄は、あくまで自然な形で相手に尋ねてみる。
「空いてるけど、私に何か用事でも?」
「うん、まだ部活動とかよくわからなくて。色々と案内して欲しいんだ。」
「……せっかくだけど、私じゃなくてもいいんじゃないのかしら。」
「実は生徒会にも行ってみたいんだ。」
「…………なるほど。」
その一言で、周りの女子たちは察した。どうして彼が波澄に声を掛けたのかを。
一般生徒の立ち入りが基本的にできない生徒会を見学したいなら、生徒会のメンバーにお願いするのが合理的だろう。それに、丁度このクラスには生徒会長がいるのだから。
誰かからそのことを聞いたのかもしれない。そう思った波澄は、
「先生の許可をもらいに行く必要があるけど。」
「もちろん構わないよ。」
「そう。なら大丈夫よ。今すぐ行く?それとも時間を空ける?」
「いや、今からでお願いするよ。」
「わかったわ。じゃあ職員室に行きましょう。」
数人ぐらいはついて行くと言ってくると思ったが、見当は外れた。改めて、生徒会は学校の中では少し浮いていると実感した。
学年主任の先生を訪ねた二人は、すんなりと許可を頂けた。理由は二つある。一つは、新夜は三年生であるのにこの学校のことを詳しく知らず、一年でこの学校を去ることになるので、いち早く学校に馴染んでもらいたいということ。もう一つは、波澄が教師陣からとても信頼されているということだ。そして二つ目の理由から、教師が引率することもなく、鍵だけポイと渡されたのだ。仮に別の生徒会メンバーが同じことをしても、こうはならないだろう。
波澄は、新夜が自分に頼んできた最たる理由は生徒会だと思い、学校案内よりも先に生徒会室へ向かった。新夜も異論はなさそうだった。
放課後の校内は静かだ。雨が降れば、体育会系部活動の面々が校内で活動してそれなりに騒がしくなるのだが。
廊下を歩く二人に会話はない。
新夜は楽しそうに校庭の部活動の風景を眺めている。波澄は、少し新夜に苦手意識があるのだ。といっても、新夜自身にというよりは、新夜を取り巻く女子たちの熱気のようなものが苦手なのだ。
生徒会室に着くと、早速中に入る。質素な長机に椅子。あまり散らかっておらず、使われていない空き教室のように見える。
「今は特にやることないから綺麗なんだけど、体育祭が近づくと足の踏み場がなくなっちゃうのよね。」
新夜がどこまで生徒会を知りたいのかがわからないため、とりあえず、適当に座って、と言った。
波澄は先に窓辺により、窓を開けて換気をする。
無風だったが、気持ち的にはまだマシだろう。
ふと、隣に新夜が寄ってきて、外を眺める。
その横顔は、和やかで、懐かしんでいるようで、実際は何を考えているのか解らない。
「新夜君は、生徒会の仕事に興味があるの?」
新夜は間を空けてから、波澄の方を向いて、
「……言いにくいんだけど……、実は生徒会には興味はないんだ。」
「?」
怒りの感情はなく、純粋にどうしてという疑問が湧いた。
「本当は二人きりで話がしたかっただけなんだ。」
新夜は少しだけ口角を上げてこちらを見つめてきた。何か理由があるにしろ、悪意がないのはわかった。
「それならここでなくてもいいんじゃないかしら。」
「それが、多分他の女の子達が集まってきちゃうから。なかなか、ね。」
「まあ、そうね。あの様子だったら。でも私に話なんて何かしら?」
「久遠有次について聞きたいんだ。」
その一言で、場は奇妙な緊張感に包まれた。
波澄は慎重に口を開いた。
「気になってたんだけど、二人は知り合いなの?」
「知り合いの定義によるね。知っているかと言えば前から知っていたよ。お互い、父親に通ずるところがあるからね。」
「そういえば、今は父親同士が共同研究を。」
「そう。だから知っていると言われれば知っている。けれど会ったことはなかったんだ。だから知りたいんだ。彼のことをもっと。」
波澄は態度を低くして、
「なんかごめんなさいね。いろいろと詮索する空気にしてしまって。この間のことで、二人の関係性がわからなくて。」
「気にしないよ。」
相手を見て、波澄は胸をなで下ろした。肩の重たさがスっと取れた気がした。
「で、有次君のことだけど、私そんなに彼のプライベートを知ってるわけじゃないわよ。」
「いいんだ。君の知ってる彼を、僕は知りたいんだ。」
そこで新夜は椅子を指さした。座ろうというジェスチャーだった。頷いた波澄は一つの椅子を引いて座ると、新夜は机をはさんで向こう側の椅子に座った。
新夜が座ったところで、波澄は久遠有次とのこれまでを語り始めた。
*
私が有次君と初めて会ったのは、去年のこと。クラスが同じだったの。うちの学校は人数が多いから、学年が上がった時に、それまでのクラスメイトと同じクラスになることは滅多にないの。だからクラスが変わるとほとんどの人とはじめましてなんだけど、彼は印象に残った。
上手く表現出来ないけど、不思議な人だと思ったわ。決して近づきすぎず離れすぎず、奇妙な距離感と雰囲気を持っていた。彼は自分から誰かと触れ合ったりしようとしないから、初めのうちは全く話したことがなかったの。
接点を持つきっかけになったのは、新学期が始まってからニヶ月ぐらい経った頃。
彼は、学校に来なくなったの。
元々彼と友達になったクラスメートはいませんでした。だから常に教室の机が一つ空いていても、いつしか誰も気にならなくなっていきました。私は一年生の頃から、いや、小学校のころからずっと学級委員長をやってきたから、去年も例外じゃありません。
日が経つにつれて、彼のことが気になっていきました。不謹慎なことかもしれないけど、どうして学校に来なくなったのかそのワケが気になりました。
その年の七月中旬。例年よりも気温が落ち着いていて、印象的な夏休みの始まりでした。私は夏休みに入っても、生徒会の仕事があったため学校に何日か登校していました。
仕事を片付けて生徒会室を出た時の事です。担任の伊守先生とばったり遭遇しました。扉の真ん前にいた先生は、驚いて持っていた書類を幾つか落としてしまったのです。
「すみません、先生。」
お互い腰を下ろして書類を取ろうとしました。特にその書類を覗くつもりはありませんでしたが、たまたま書類は表向きに落ちていたため、内容が目に入ってしまった。
「これ………以前配られたプリントですか?」
拾った書類を先生へと渡すと、先生は困った顔をしていました。
「そうなの。これは同じクラスの久遠君のよ。」
「えっ?」
「彼、一月前ぐらいから学校に来ていないでしょ?特に仲の良かった友達もいなかったみたいだから、溜まったプリントを定期的に家に届けてるの。声は聞けてるんだけどね、直接は会えてないの。」
「そう………ですか。」
自分の想像以上に彼は複雑な状況かもしれない。興味本位で彼のことを気にしてた過去の自分に罪悪感を感じてしまいました。
「彼………、久遠君は勉強とかは大丈夫なのでしょうか。」
「どうかしら。一年の時は優秀な成績だってのは聞いているわ。うちは出席点よりテストの点数の方が単位に関係してくるから。でも、流石に休み期間が明けた後もこの調子なら困るわ。」
伊守先生はつい私の前でため息をこぼしてしまった。理由がはっきりしているなら対処はしやすいが、先生は原因をまだ知らないようでした。
「先生、一つ提案なんですけど。」
その時、私が何を思っていたのか、正直詳しく覚えていません。罪悪感から?まだ気になっているから?どれも嘘ではない、と思います。でも一番は、私がお節介だからだと思います。先生と話して、ただ彼の助けになりたい、そう思いました。
「私がそのプリント、持っていっていいですか?」
先生から住所を聞いた私は、さっそく彼の家へ向かうことになりました。朝陽は構造上、住所を聞けば大まかな場所はわかるようになっています。環状都市のメリットです。後は詳しい地点をメモしてもらったため、さほど苦労せず辿り着く事が出来ました。
しかし、今になって、
(よく思えば、全く話したことのない男子の家に行くって………。一軒家だから一人暮らじゃなさそうだけれども。先生に家族構成は聞いておくべきだったわ。)
兎も角、引き受けてしまったには匙を投げる訳にはいけません。それでも、男子の家のインターフォンを押すことにはそれなりの勇気が必要でした。
ガチャン。
(?)
まだインターフォンは鳴らしていないのに、玄関が開きました。一瞬ドキッとしました。
出てきたのは、
(だれ?)
彼ではありません。年齢的には私より年下。身長も小さいし、顔にまだ幼さが残る印象を抱きました。
「あの……どちら様で……。」
お互いが訝しんだ様子で見つめ合った。
「まさか久遠君に兄弟がいたなんて。ビックリよ。」
「血は繋がってませんよ。」
「でも、今どき義理でも兄弟がいるなんて珍しいことじゃない。」
「そうですね、僕も他には見たことないです。」
あの時、家から出てきたのは久遠幸一君。中学生です。
ちょうど彼が買い物に出かける時に私と遭遇したのでした。私は久遠君に用があったけど、家には彼と弟の幸一君しかいませんでした。流石に家に誰もいないのに(久遠君はいるけど)家に上がるのは忍びないし、けれど幸一君も買い物には行きたそうだった、ということで、今二人で一緒に買い物をしていて、色々と聞いている最中です。
「中学生でもうお家の夕飯を作るなんて凄いわね。私なんてお菓子しか作ったことないわ。」
「周りからも言われますが、最近では何でも勝手にやってくれる器具が多いので、レシピを調べてそれ通りにやれば特に苦労はありません。」
「ご両親は料理をあまりしない人なの?」
「そうですね。料理どころか家事が何一つ出来ないだらしない父です。母はうちにはいません。」
「ご、ごめんなさい。ちょっとプライベートが過ぎたわね。」
「いえ、気にしないでください。」
彼は本当に気にしておらず、屈託のない笑顔を見せてくれました。
「一つだけどうしても聞きたいことがあるんだけどいいかな? もちろん答えたくなければいいんだけど……。」
「大丈夫ですよ。」
「幸一君の父親って……何をしてらっしゃる人……かな?」
私の質問を聞いた彼はクスッと笑った。私の言った意味がわかったからかもしれません。
「多分想像通りだと思います。」
「じゃあ!」
「ええ、父さんはフューチャー社の社長さんです。」
「やっぱり!」
スーパーの中で興奮してしまった自分が恥ずかしい。
「この前ニュースで見てね。『久遠』ってそう聞かない苗字だからもしかしてと思って。そうか、お父さんは有名人か。ねぇねぇ、お父さんが有名人で何か良かったり、逆に困ったりしてる事ってある?」
「そうですね。考えてみるとぱっと思いつきませんが、僕は大勢に囲まれるのが苦手なので。クラスが変わる度に質問攻めから始まるのは未だに慣れません。それと基本父は家にはいません。職場で泊まることも多いですし、ズボラな人なので。」
あまりいい内容が出てこないことに意外だと感じました。
「お父さんいなくて寂しかった?」
予想に反して彼は、
「いいえ。僕には兄さんがいますから。」
「……。」
不意に久遠君のことが出てきたことで、私は本題に入りました。
「幸一君、久遠君は………どんな様子かな?」
話題が話題なため言葉を選びながら問いかけました。幸一君は表情には出てませんでしたが、明らかに曇ってしまいました。
「実は僕もそんなに直接は会ってはないんです。部屋から出てこないので。あ、でも話はある程度できます。………ご飯も一食食べるかどうかで、もうこれが一月も続いているんです。」
「何か理由や原因のようなものは聞いてる?」
幸一君はただ首を横に振った。
ますます彼と直接会ってみないことには何もわからないという状況になりました。
「でも私、久遠君と全然話したことなくて。大丈夫かしら。」
「もしかしたら、女の子が来たらすんなり出てくるかもですよ。」
やや湿っぽい雰囲気の中、幸一君が言った冗談は可笑しくて、二人顔を合わせて笑ってしまった。
家に着いた私達は、買い物袋をキッチンまで運ぶと二人で階段を上がりました。
幸一君は軽くトントン、と扉をノックし、
「兄さん、同じクラスの波澄さんが来てるよ。プリントを届けに来てくれたよ。」
「こんにちは、久遠君。私、波澄だけど、わかるかな。」
しばらく返答はなく、静寂がその場を包んだ。私と幸一君、両方が何か話題を振ろうとした時、
「委員長?」
「良かった! 覚えてくれてたのね!」
私はガサゴソと鞄をまさぐり、クリアファイルの中からいくつかのプリントを取り出しました。
「今日は先生の代わりに私がプリントを持ってきたのよ。」
「ありがとう。」
はっきりとは聞き取れない、か細い声でした。
「僕はご飯の準備をしてくるので。」
そう言って幸一君は席を外しました。
扉一つ隔てて二人きりになったところで、なんて声を掛ければ良いのかわからず、また廊下に静けさが戻って気まずくなりました。
「委員長はどうして俺の家に来たの?」
これは私がこの家を訪れた目的を聞かれているのではなく、その行動心理を聞かれているのだと理解しました。
「私にもよくはわからない。でも、長い間学校に来なくなったクラスメイトをほっとくことは、私にはできない。」
私は自分でも驚くほど、堂々と言い放ちました。宣言に近かったのかもしれません。
「……ありがとう。…………本当にありがとう。だから、一つお願いしてもいいかな。」
「ええ、私にできることがあれば何でも言って! 力になるわ!」
「じゃあ、…………俺にもう関わらないでくれ。」
「………ぇ…………」
開いた口が塞がらなかった。
頭が真っ白になったのを今でもよく覚えています。
私は彼が困っているなら助けになりたいと思いました。ただそれだけなのに、彼にとってはそれが迷惑だったのです。極めて穏やかに言ってくれたが、明らかな拒絶でした。
「すまない。…………俺を一人にしてくれ。」
「………。」
彼の、今にも泣き出しそうな声を聞いても、私にできることは何もありませんでした。
私はそのまま何も言わずに、彼の部屋を後にしました。そして逃げる様に家を飛び出しました。
自分の部屋でも、彼のことが頭から当分離れませんでした。
困った状況に陥れば誰かに相談し、自分一人で対処が出来ないならば周りに助けを求める。逆も然り。そうして誰かと誰かが助け、助けられるということは人間の当然に持ち合わせている行動心理だと思ってました。私には『困った』としか形容できませんが、彼がそういう状況にあることは明白なのに、彼は一人を選んだ。他人の私のみならず、近しい人間すら拒絶している。それが私を思考巡りに嵌めていました。
下から、ご飯ができたよー、とお母さんの声が聞こえ、ふと時計を見ると、いつの間にか時間が経っていました。
気分を変えるために明日の学校の準備をしよう。そう考えて鞄を開けると、
「あっ……。」
一番上に、雑にしまい込まれたプリントが。そう、彼に渡すはずだったプリントです。
あんなことを言われたのに、また彼の家に行かなくてはならない用ができてしまった、その事実にあと数分は固まっていました。
夏休みの期間はおよそ一ヶ月半。
長いようで短いような。そんな夏休みを他の人はどう過ごしているのでしょうか。
朝陽の高校三年生は基本的に受験勉強をしません。なぜなら、エスカレーター式で朝陽市内の大学に進学できるからです。もちろん希望者だけで、就職することもできるし、朝陽には多くの専門学校があるのでそちらに進むこともできます。エスカレーターだからといったって、進学試験は簡単なものではありません。しかし夏休みを削って勉強をしようとは、多くの人は思いません。
私?
私はその中でも稀有の稀有だと思います。
他所の大学への受験を希望しています。
なぜわざわざ朝陽を出るのかというと、その大学は医学に特化した有名な大学だからです。
私の夢は医者になることです。幼少期に良くしてくれた祖母を病気で亡くしたのがきっかけでした。今では多くの人を救いたいと考えています。
朝陽にも医学に精通した学校は幾つかありますが、さらに外科に特化した学校は朝陽にはありませんでした。
だから私は夏休みだからといっても、勉強に勤しんでいます。昔から勉強は苦に感じませんでしたし、他の子とパァーっと遊ぶのも苦手ですので、自然と家にいることが多いです。図書館にはよく行きますが。
そんな私の日常にある事が増えました。彼の家を訪ねることです。つい先日、生徒会の仕事で学校に行った時のことです。先生から、今度は久遠君に勉強を教えて欲しいと頼まれたのです。私は承諾し、一週間に一度ほど彼の家を訪れることになりました。訪れる頻度や、あちらでの滞在時間はなるべく最小限に抑えています。彼を困らせたくはないので。しかし、段々と彼とも意思疎通がとれるようになりました。未だに部屋からは出てきませんし、雑談は少ししか話さないのですが、距離はなんとなく縮まったような気がします。
夏休みもあと二週間まで迫った八月の下旬。残暑が厳しく、木陰の涼しさが身に染みる頃、私のスマホに一通の連絡が届きました。
連絡をしてくれたのは幸一君。
兄弟共通のお友達と一週間ほど出かける、とのことでした。
まず、彼が家の外に出たことに驚きましたが、これをきっかけに変わってくれるかもと思いました。
明後日に始業を迎える日。私は自分の部屋で穏やかに過ごしていましたが、突然来訪者が現れました。その日は家に私しかいなかったため、慌てて一階へ駆け下りて玄関を出ました。
「はーい。」
扉を開けながら、宅配だったらハンコ持ってこないと、など考えてました。しかし、そこに居たのは、
「久遠君!!」
「こんにちは、委員長。」
なんと、そこには制服を着た久遠君が立っていました。
「久遠君、制服来ちゃってどう………」
「ごめん!!!」
私の言葉を遮って、彼は唐突に頭を下げた。あまりの勢いに少し後ずさりしてしまいました。
「ど、どうしたの?急に。」
「俺、君が何度も家に来てくれた時、正直自分のことしか考えてなかった。君の親切心を気にもしてなかった。ごめん!」
私はその時、つい笑ってしまいました。もちろん悪気は毛頭ないです。
「ごめんなさい。私、久遠君がこんなに真面目な人だったなんて知らなくて。」
彼は少し顔を赤らめて、顔を背けました。彼自身、性にあわないことをしている自覚はあるみたいです。
「こんなところで立ち話もだから、上がって。今家に私しかいないから遠慮はご免よ。」
彼は頬を緩めて微笑んだ。
とりあえず二人、ダイニングテーブルに座ると、彼から口を開いた。
「本当に、ありがとう。」
今度は謝罪じゃなくて感謝の言葉だった。なんだかこっちの方が居心地が良かったりする。
「いいの。私気にしてないわ。それより久遠君がこうやって外に出てくれたことが嬉しいわ。ところで、どうして学校の制服を着ているの?」
「ああ、これは………。俺、夏休み終わったらちゃんと学校に行こうと思って、その意思表示、かな?」
「何それ、変なの。」
「ハハ、そうだね。」
まさかこんな風に笑い合って会話する時が来るとは、想像もしてませんでした。
「ところで久遠君、聞いてもいい?」
彼は私の真意を受け取ってくれて、優しい目を向けた。
「うん。」
「どうして学校に来なくなっちゃったの?」
彼は少し悩んだ。
「すまない。今はまだ詳しく話したくないんだ。でも君の存在が僕を救ってくれたのは確かだよ。」
「……そう。」
「でも、絶対にいつかちゃんと話すから。だから、ありがとう。波澄。」
「……!?」
「……ごめん、俺なにか悪いことでも言ったか?」
彼がそういったのも無理はないと思う。きっと私、変な顔して固まってたから。
「今、なまえ……。」
「ん? ああ、嫌だったか。それはすまーー」
「違う。」
今度は私が彼の言葉を遮った。
「違うの。私基本みんなから委員長とか会長とか呼ばれてて、男の子に名前で呼ばれたことそんなになくて。なんて言うのかな。嬉しいんだと思う。」
「……そっか。じゃあ俺のことも有次でいいよ。久遠じゃあ幸一と一緒にいる時、どっちだかわからないからな。」
「わかった。それと、私、解けなかった問題は根に持って忘れないタイプよ。覚えておいてね、有次君。」
言った通り、学校が始まると有次君はちゃんと登校してきました。周りは驚いた様子で、あまり近寄ろうとしませんでしたが、私は学校でも普通に彼と接しました。例えば、いきなり有次君と仲良くなってくださいってみんなに言っても、お互いが気まずいだけで距離は縮まらないと思うの。だから私も過度にサポートしないで、あくまで委員長として彼を最大限サポートすることに決めました。
時間とともに彼は少しずつクラスに受け入れられていきました。元々彼に友人がいなかったせいか、特段仲がいい人は今のところいないけど、クラスメイトと呼べるぐらいには周りに溶け込んでいます。
そして私は先生との約束を守るべく、放課後に彼に勉強を教えています。学校が始まった当初は、授業内容を全く知らないだろうと、毎日残って彼に今までのノートを見せたりしてました。
それなのに……
空が燈色に変わり始め、多くの生徒が帰路についていることでしょう。
私は教室でノートを広げているのですが、ふと私は手を止めて、向かいに座る有次君にこう言いました。
「おかしいわ。」
「何が?」
私が勝手に過去を振り返って思ったことだから、私が何に対してそう言ったのか彼がわかるはずもないのだけれども、それでもやっぱり今のこの状況はおかしい。
「なんで私、有次君に勉強教えてもらってるの?」
「それは、俺が波澄の力になりたいからだよ。」
「………そうじゃなくて。」
前までは私が教えていたのに、いつしか立場はくるりと変わってしまった。
「だって俺にわかって波澄にわかんない問題があって、俺が波澄に解を教えることは不思議なことでもないさ。」
「……なんか気に食わない。」
「ひどくないか?」
「だって。なんでそんなに頭いいのよ。私、有次君が勉強しているところ見たことないのに(ノート見せてあげたってパラパラめくるだけで済ませるし)。」
「なぜ段々と語尾が弱くなったんだ?」
私は自分でも頭はいい方だと自覚はあるけれども、それと偉いかどうかは別問題だとしっかり認識している。けれど、プライドは持っていたらしい。
「波澄は偉いな。ちゃんとした夢を持って、それのためにこうやって頑張って勉強ができるなんて。」
「前から思ってたんだけど、有次君って時々年上みたいな物言いするよね。もしかしてからかってる?」
「いやいや、そんな事ないさ。あ、そこ、間違えてる。」
「え? …………ホントだ。」
*
「そんな感じで、私と有次君は勉強を教え合う仲になったわ。そしてその年、私がテストでクラス順位一位を取ることはなかったわ。」
いつの間にか、太陽は沈み、空は代わりに星を付け始めた。
そろそろ学校が閉まる時間だった。校内外の喧騒はどこかへ帰っていった。
「他に彼と仲のいい人は知らない?」
「有次君とよくいるのは、篝君と朧君かな。」
いまいちピンときていない顔をしていたため、波澄は続けて、
「篝君は、一番前の席で茶髪だからわかりやすいと思うわ。今日は来てないけど。朧君は、新夜君の席から右斜めを向いたあたりの席よ。前髪が目が隠れるくらい長くて、おとなしい雰囲気を持ってるわ。」
「ありがとう。早くみんなの名前を覚えないとね。」
「新夜君ならクラスに慣れるのが早いから大丈夫よ。きっと女の子の名前をいち早く覚えるんだろうけど。」
「君は容赦ないことを平気で言うね。」
新夜は苦笑いをこぼした。
二人はその後部屋を出て、一度職員室に鍵を返してから学校を出た。
その道中、波澄から新夜へ質問があった。
「私、一つ聞きたいんだけど。」
「どうぞ。」
「今日の授業についてなんだけど。」
新夜はその先を待った。
「今総合の授業で取り扱っているテーマ、世界平和同盟。どうして同盟がここまで支持を集められたのか、その問いに、草薙君がどう答えたか覚えてる?」
「覚えてるよ。それが?」
「うん。実は全く同じ答えを、有次君も言ってたのよ。私にはよく意味が分からなくて。」
新夜はしばらく答えなかった。
それを不思議に思って顔を覗き込むと、懐かしむような顔で微笑んでいた。まるで遠い恋人を思うかのように。
「草薙君?」
ふと、いつも通りのにこやかな顔に戻った。
「人間っていうのは、みんなが思うほどロジカルな生き物じゃないんだ。」
視線を外に向ける。大きな照明を付けて、サッカー部や陸上部が片付けをしていた。
「政府の権威が失墜し、代わりに同盟が台頭した。同盟は様々な革命を起こし、世界中の人々にそれまで以上の利益をもたらした。そして、これからももたらし続ける。だから同盟を支持した。具体的に何をやったかはそこまで重要じゃない。流行、という言葉があるように、人間の好き嫌いは簡単に変わる。大きな視点での最たる例が同盟だったというだけの話さ。自己の利益になれば、不都合な側面には目を瞑る。実績が積み重なり、いつしか都合の良い側面だけを眺め続ける。『それが、人間だがら』。」
波澄は、どこか遠い目をして固まった。何か考えているのだろう。
(私と有次君の違いがわかった気がする。)
「ありがとう。」
何に対してありがとうなのかを、波澄も言わなかったし、新夜も聞かなかった。
7
時間とは残酷だ。
人間の意思とは無関係に、ただただ流れ行く。一定の速さで、変わらずに、ずっと。
人の死は平等にやってくると言う人がいるが、それは人の人生をマクロな視点で見つめた場合の話だ。もう少しミクロな視点を向けると、そのタイミングまでは平等ではない。大事なものを失い、死にたいと思ったときに死ぬ人もいれば、幸せの絶頂の中死ぬ人もいる。時間軸上においてはどちらも、どこかで人生が始まりどこかで人生が終わる、という点は共通している。そこが、時間の恐ろしいところだ。時間というものは、中に情報を格納できないし、保存できない。幸せな時間も、辛い時間も、主観的にそう思っているだけで、時間そのものは幸せでもなければ不幸でもない。それに、どんなに幸福な時間があったとしても、時間の流れによっていずれ消え行く。
あれから、時間だけが過ぎていった。
状況は変化していないし、むしろ屋上での一件以降、週末の金曜まで一回も有次と話していない。
翔の頭の中は、過去の楽しい思い出ではなく、有次に突き付けられた言葉だけが占拠していた。
有次は、いつも新夜を見ていた。まるで、監視しているみたいに。
明らかに、何か隠し事をしている。
でも、踏み込めない。
新夜を見ている有次を、ただぼんやりと見るだけ。それとなく周囲にはいつも通り笑顔を振りまくが、部活も休みっぱなしだ。
「翔、最近なんか変だぞ。悩みでもあんのか?」
「……まあ、そんなとこだ。」
それは、金曜の朝。たまたま通学途中に拓也と遭遇した。
「ハッ、お前らしくもない。」
「別に悩みぐらい、誰だって抱えるものだろ?」
「そんなことを言ってんじゃない。悩みを持ち続けることがらしくないって言ってんだ。」
拓也は呆れたように続けた。
「俺たちは小ちゃいガキの頃からの付き合いだ。特にバカ正直なお前のことは大抵わかるさ。いつものお前は、難問には当たって砕けろ、だろ?」
「…………。」
(いつもの俺、か…………。)
それは、以前屋上で有次に向かって自分が放った言葉と似ていた。
自己評価と他者評価が違うように、自分の普段の行動の傾向や癖は、意外と自分よりも近くの人間の方が的確に把握しているものだ。
最近は、頭がごちゃごちゃで、何をどうしたら良いかさっぱりだった。しかし、いつもの篝翔なら、そんな悩み、すぐさま行動して解決しただろう。
(そうだ。俺は……篝翔は、そういう奴さ。)
ウジウジしていたって何も解決しない。そんな簡単なこと、どうして忘れていたんだろうか。
「まあ、いつも砕けてるばっかだがな。」
「……確かに、それもそうか。」
心が少し晴れた気がした。
「ありがとう、拓也。ちょっとスッキリしたわ。」
「そうか。ならいいが、そろそろ部活に顔出せよ。後輩たちがえらく心配してたぞ。」
「わかった。」
「ただし、モヤモヤしたまま来んなよ。大きな怪我でもしたら大変だからな。」
「わかってるって。」
自分のことを理解してくれる人がいることが、こんなにも素晴らしいことだなんて、翔は初めて自覚した。
同時に、有次にも理解者がいるのだろうかと思った。
(もしいないなら、…………俺が…………。)
強くこう思った。
誰かが有次を支えなくちゃならない時、隣にいるのは自分でありたいと。
自分が、有次の理解者でありたいと。
翔は、無意識の内にあることを避けていた。
改めて考えると単純なことだが、どうしてそうしなかったかと回顧してみれば、明確な答えは出てこなかった。
ただ、過去についてとやかく追求するのはやめた。キリがないからだ。
その日の放課後、生徒たちがぞろぞろと帰る中、その人物が帰ってしまう前に座席へ近づいた。
「草薙・ラーンウォルフ・新夜。ちょっといいか?」
「構わないよ。僕も、君と話してみたかったんだ。」
8
週末の土曜日。
商業区はいつものごとく人で溢れかえっている。猥雑としたこの空間に静かな場所など存在しないため、逆にゆっくり落ち着ける空間を提供する店は多い。いわゆる、カフェだ。
下層では人の出入りが多いため、カフェは高層に集中している。
「新夜は何を頼む?」
「僕は…………そうだね。これ飲んだことないんだけど、どんな飲み物なのかな?」
「カフェラテか。コーヒーにミルクを入れたものだ。あとホットだこれは。」
「コーヒーか。前に飲んだことがある。」
「そんなに飲んだことないのか? じゃあ試しにどうだ、美味しいぞ。」
「じゃあそれにしようかな。」
翔はアイスコーヒー、新夜はカフェラテを頼んだ。
すぐに飲み物は提供され、窓側の座席へ向かう。四角いテーブルに、向かい合って座る。
午前中だったためか、まだ店内の人の数は少ない。一人で何やら作業している人が大半だ。邪魔にならないように、極力周りのひとやたちから離れた窓側の席を選んだ。
「休日なのに悪いな。」
「ううん。構わないよ。」
新夜は優雅に足を組んで、カップを口元に運ぶ。銀色のサラサラな髪は、間近で見ると、男の翔ですら魅了される美しさだ。
新夜にとって、今日はこの学校に転校してきて最初の休日だ。この一週間で仲良くなったクラスメイトとの遊びの約束が、一つや二つありそうだったが、こんなよく話したこともない奴に時間を費やしてくれることに驚いていた。しかし、新夜からは、渋々付き合っているような様子は感じられなかった。
一つ一つの所作に無駄がなく、美しい、その一言がよく似合う。そんな感想を抱いた。
「ちょっと熱いな。」
そう言って、カップをそっとテーブルに置いた。
「僕はね、クラスのみんなと仲良くしたいんだ。だから、君とも話してみたかったんだ。」
「俺たち、ほとんど話したことなかったからな。」
「君に限った話しじゃない。どうしても男の子たちとは会話する機会に恵まれなくてね。」
あれほど女子人気が高ければ、仕方ない。男子にも興味を持って話そうと意思を持っているから、男子たちも新夜のことを憎めないでいるのだろう。
「折角の機会で悪いが、今日は他の人の話を聞きたいんだ。」
「それは誰だい?」
「久遠有次。」
翔は、新夜の様子を窺った。有次の名前を出した時の反応で、二人の関係性に見当をつけようと考えていたが、
「久遠有次。フューチャー社社長、久遠勝武の長男。世にも珍しい兄弟であり、朝陽第一高等学校に在籍する三年生。僕が知っているのは、その程度だよ。」
新夜が話す様子は、至って冷静で、普段通りだった。
「それは、全部有次の肩書きだろ? 有次の人間性や個性、性格なんかについては、何か知ってるのか?」
新夜は首を横に振る。
「そこまで詳しくは。」
「四月の十三日、月曜日。新夜が転校してきた日だ。俺から見たら、有次と初対面って感じじゃなかったんだけど、以前から知ってたのか?」
「知っていたかと言われれば、知っていたよ。ご存知の通り、僕の父親、ウィリアム・ラーンウォルフと久遠有次の父親、久遠勝武は共同研究をしている間柄だ。以前から何度かコンタクトがあり、共同研究が決定したのは二年前だと聞いている。だからその時には知っていたよ。ただ、対面で会うのは初めて、というだけさ。」
「……そうか。」
今までの新夜の話に、おかしな点はない。むしろあの状況に納得する部分もあった。
十三日の朝。有次と新夜は、まるで知り合いのようでありながら、自己紹介をした。これが情報のみでお互い知っていたなら、全くの初対面ではないが初めましての状況になる。
しかし、重要な事がまだ残っている。
「じゃあ、『フェイカー』って何のことだ。」
その質問に、新夜はすぐに答えなかった。
テーブルに置いたカップを再び手に取り、飲む寸前、フーフーと熱を冷まし、ゆっくりと口に運ぶ。
一口、二口と口に含み、じっくりと味わっている。十秒にも満たない時間が、翔にはとても長く感じられた。
カップをテーブルに戻し、翔を正面から見つめて、微笑んだ。
「正直なところ、あまり話したくないのが本音かな。」
誤魔化そうとしているようには見えない。プライベート過ぎる質問でちょっと困っている、そんな微笑みだと翔は感じた。
「実は以前、ネット上で何度か彼とやりとりしたことがあってね。その時のハンドルネームとして使っていたんだ。僕としては特に意味なく使っていたんだけど、もしかしたら彼にとっては何か意味があるのかもしれない。仲が悪く見えたのは、その時のやりとりが原因かな。そこは察してほしいな。」
「…………色々聞いて悪かったな。最近有次の様子が少し変で、もしかしたら何か知っているかなって思って聞いたんだけど。」
翔が新夜を怪しく思っていたのは、どうやら空振りみたいだ。
(やっぱり、本人に聞く必要があるか。)
ただ、全くの無駄骨ではなかった。ある程度二人の関係性はわかったし、有次のことだから、意固地になってネット上で口論になったのかもしれない。そこまで嫌悪感を示すかは疑問だが、それは新夜に聞くことではないだろう。
「彼のことが心配かい?」
「ああ。」
翔は即答した。
「そう言える人がいるのは、とても幸せなことだね。ところで、彼とはいつからの付き合いなのかな?」
「そうだな……友達になったのは高校一年の時だ。同じクラスだったんだ。でも実は、それよりも前から俺は有次のことを知っていたんだ。」
向かいに座る新夜は、柔らかな表情でこちらを見つめている。話を促し、聞き手になる準備ができているみたいだった。
さっきは自分が質問攻めしてしまったし、成り行きから、翔は自分の過去について語ることにした。
「新夜は、有次に弟がいることは知っているか?」
「もちろん。」
「……そう、みんな知っていることさ。父親が有名な企業の社長さんだってこともあって、朝陽ではちょっとした有名人だった。」
一口、アイスコーヒーを飲んで喉を潤す。
「俺が中学生のときだ。毎日夕方まで学校で部活に励んでいた。汗まみれの泥まみれで、シューズやら練習着やら沢山の荷物を担いで、いつもの通学路で帰宅していた。途中のコンビニで買い物をするのが習慣で、春や秋は甘いもの、夏はアイス、冬は温かいものを一個買っては、コンビニの近くで食べていた。ある日、向かいの道の歩道橋を歩く、二人の少年を見つけた。一人は自分と同い年ぐらいで、もう一人はまだ小学生だった。不思議と目で追った。二人は手を繋いで楽しそうに会話していた。家に帰った後、あれは噂の兄弟なのではないかと思うようになった。それからほとんど毎日、二人は同じ時間に同じ道を通った。俺の習慣に、その兄弟を見つける事が加わった。深い意味はなかった。たまたま俺の部活が終わる時間と重なっていただけかもしれない。向こうは、俺がこの習慣を始める前からずっとこの道を通っていたのかもしれない。でも、全く赤の他人が、こう何度も同じシチュエーションで会うと、つい親近感が沸いてしまったんだと思う。と言っても、向こうは俺のことを認知していないがな。こう言葉にしてみると、少し気持ち悪い感じがするが、俺が二人をつい目で追ってしまうのには、理由があった。二人は、いつも幸せそうだった。今どきみんな兄弟じゃないから、兄弟だからいいな、とかそういう嫉妬はなくて、兄弟ってどんな感じだろう、という好奇心の方が強かった。来る日も来る日も二人の楽しそうな姿を見ると、一層兄弟について興味が高まっていった。そんなある日、珍しく二人手を繋いで歩いてなかった。弟は眠ってしまっていて、兄がそれをおぶっていたんだ。そいつは、背中の弟が起きないように、ゆっくりと何度も背負い直していた。スヤスヤと眠る弟を見て、そいつは微笑んだ。それを見て、……何だろう、上手く言葉に出来ないけど、素晴らしいと思った。二人には、俺が持っていない優しさや思いやりがあって、いつも幸せそうな姿を見ていると、…………どこか…………兄弟が、尊い存在のように思ったんだ。」
そう口にした時、屋上で有次にかけられた言葉を思い出した。
「俺の両親は、出張でいないことが多いんだ。別に寂しかった訳じゃない。友達は沢山いたけど、あの二人からはそれらでは手に入らない何かを持っている気がした。周囲の人に聞いたところ、あいつと俺が同い年だと知った。俺は、あいつと友達になりたいと思った。あんな優しい奴が友達だといいなと思った。そしてこの学校に入学すると、あいつが同じクラスにいたんだ。運命なんてものがあるのなら、俺はその時、運命を感じた。真っ先に声をかけて、そこから今の関係になったって感じだ。」
カラン、と翔のコップの中の氷が溶けた。その音で、翔は回想から現実に戻ってきた。
「わりぃ、俺ばっかベラベラ喋っちまったな。」
「いいんだ。それに、僕も彼のことを知りたかったから、とても面白い内容だったよ。」
思いのほか長く話してしまい、喉が渇いた。
残ったアイスコーヒーを一気に飲み干す。
新夜に移すと、目を閉じてカフェラテを楽しんでいた。
有次と新夜の間に何があったかは知らないが、新夜は良い奴だと思った。女子人気が絶大なのも頷ける。
新夜も残りを飲み干し、静かにカップをテーブルに置いた。
「昨日も言ったけどーー」
「用事があるんだろ? 時間は大丈夫か?」
午前中から集まったのは、新夜にはこの後用事があるからだ。事前に連絡は受け取っていたが、時間までは聞いていなかった。
「それが、十三時までは空いているんだ。よければ、朝陽を紹介してくれるかな。」
「いいね。任せとけ。」
そうと決まれば、あとは動くのみ。
二人は立ち上がってカフェを後にした。
*
商業区のあちこちを回って、翔は久しぶりに羽を広げることができた。
新夜は、冷静であるが冷徹ではなく、自己より他者を重んじ、だからといってノリが悪いわけじゃなく。どこか有次を彷彿とさせる性格だった。
正午になってから、朝陽で有名なラーメン屋でご飯を食べ、四十分ごろに二人は別れた。
「じゃあな~。」
「うん。また来週、学校で。」
翔の姿が人混みに埋もれて見えなくなるまで、新夜は手を小さく振り続けた。
完全に見えなくなると、ゆっくりと手を下ろした。
「君のお友達はいい人だね。」
そう呟いた。
独り言ではない。
自分の背後でじっと自分を見ている人物に向かって言ったのだ。
多くの人が行き交う道の中、流れに逆らうように立ち止まっている影が二つ。
新夜と、その後ろ数メートルに立つ、久遠有次。
新夜が振り返ると、有次は今までかぶっていたフードを外す。
「こんな日もご苦労様。朝登校する時から自宅に下校した後まで。一日中僕を見張っているけど、ちゃんと寝ているのかい?」
「…………お前、翔に何かしたのか。」
今にも人を殺しそうな眼光で睨みつけるが、対照的に新夜はいつも通りの平静さを保っている。
「何かって、僕が誰かに危害を加えたこと、あったかな?」
有次は、新夜が何かしでかすのではないかと疑って、この一週間ずっと見張り続けていた。この何か、というのは、直接的な暴力のほかにも、策謀や洗脳など、様々な想定が含まれている。しかし実際のところ、新夜が不審な行動を見せたことは、今までなかった。
それでも、有次がここに姿を現したのには、理由がある。
「明日の二十四時。朝陽第四自然公園に来い。」
これは密会の約束ではない。
有次はこう言いたいのだ。
殺し合おう、と。
つまり、決闘だ。
新夜は鼻で小さくため息をついた。
「自ら賽を投げるか。」
珍しく、冷徹な表情をした。
有次にとって、今までは後手に回るしかない状況だった。例えるなら、犯罪が起こった後にしか動けない警察だ。
監視するだけで手を出さなかったのは、新夜の実力をしっかりと把握していなかったからだ。
新夜がそもそも危険人物なのかもわからず、いつ本性を見せるのかもわからず、かといってこちらから仕掛けるには情報が足りず。その曖昧な状態は、クルクルと空中で回る、表も裏も決まっていないコインと同じだ。
シュレーディンガーの猫、という思考実験がある。簡単に例えると、箱の中に生きた猫と、五十パーセントの確率で毒を充満させる装置を入れる。一時間後、箱の中の猫は生きているのか、それとも死んでいるのか。この問いに対する答えは、当然箱を開けるとわかる。しかし逆を言えば、箱を開けるまで猫の生死は判断できず、箱を開ける前の猫は、生きているかもしれないし死んでいるかもしれない状態なのだ。
有次の新夜に対する、白とも黒とも言えないこの状況をはっきりさせる方法は一つだけある。
自ら箱を開けて、中身を確認するしかない。
「君の心理は理解できるが、決断と実行については理解できないな。…………もしかして、僕が彼と接触したのがまずかったのかな?」
「…………。」
(こいつ…………)
初めて会った時もそうだ。草薙・ラーンウォルフ・新夜という男は、細かな機微、言動、状況の流れから、正確な情報を予測する術に長けている。それだけ、頭の回転も速く、そして柔軟だということだ。
有次からわざわざ賽を投げたのは、新夜が翔に接触したことで、いよいよ取り返しのつかない事態になりかねないからだ。
一週間も同じクラスに通えば、有次と親しくしているクラスメイトなどすぐに看破できる。身近な人から狙うのは常套。やられてからでは遅いのだ。
「うん。まあいいよ。僕は構わない。約束は守るさ。」
対峙する二人をよけて、大勢の人が通り過ぎる。歩く人たちの目に、二人は留まらない。通り過ぎた一秒後には記憶から消えている。
まるで、二人だけが世界の流れに取り残されたみたいだった。
やがて人知れず、二人の姿はどこかへ消えた。
9
日曜日の朝。
自分以外、誰もいない、家。
おはよう、と声をかけると、一日の始まりを感じられる。
おはよう、と言い返してくれると、世界で動き始めたのが自分だけじゃないと実感できる。
おはよう、と言わないと、世界が止まっているようで、少し寂しくなる。
慣れることはない。それはきっと幸せなことで、残酷なことだ。
大切だと思えば思うほど、失ったときの悲しみは大きくなるから。
お腹は、あんまり空いてない。朝食はいいや。
食器は昨日のうちに洗っておいたし、掃除機も昨日の夕方にかけた。洗濯物も大丈夫。
冷蔵庫を開ける。おとといの買い溜めが十分だ。お父さんは今日も帰ってこないから、買い物はしなくていい。
スマホを開いて、通話ボタンを押す。
名簿の一番上、『兄さん』を押して、電話マークを押す、前に指を止める。
兄さんがいつ帰ってくるのか聞いてない。チャットの返信はいつまでも来ない。
翔さんに連絡しようか。でも、もしかしたら忙しいのかもしれない。連絡したら迷惑になるかも。
兄さんはまだ寝てるかな。そうしたら、電話の呼び出し音で起きちゃうかもしれない。
スマホの電源を落とす。
久遠幸一、十四歳。
久遠勝武の義理の息子であり、久遠有次は義理の兄だ。
物心ついたときからこの家におり、正確にいつから久遠家の一員になったのかは記憶にない。
幸一は、幼いながらに周囲の反応と世間の常識から自分の状況を理解しており、小学生になるまえから、自分が養子であると自覚していた。
家族は分け隔てなく自分に接してくれる。特段無理に気を使ったり、他人のようなよそよそしさは全く感じられなかった。
大変ありがたいことだが、それが帰って、幸一が常に一歩身を引く原因にもなっていた。
年を重ねるごとに、この思想は強くなっていった。
心配されたくなくて、気取られないように振舞った。
基本的に自分から意見や願望を口にしない。口にするときはいつも、思っていたことを一つスケールダウンしたことを言った。
迷惑をかけたくなくて、いつもいい子でいるように努めた。積極的に家の手伝いもした。
不満などない。むしろ何不自由なくいさせてくれる。感謝しかない。
この時代に兄弟を持つ、ということは、少なからず世間の批判を浴びることを意味する。どんな理由があれ、周囲とは差別化されてしまうから。
どういう経緯で自分がこの家にやって来たのかは教えてくれなかった。父親は、そんなの関係なく俺たちは家族だと言っていたから、逆に詮索すると恩義を無駄にしているようだった。
もしかしたら、自分自身に許可を求めているのかもしれない。ここにいていいんだよ、という許可を。
最近は、それは間違っているのではないかとも考えるようになった。家族の好意を蔑ろにしていないだろうか。
彼は、悩める思春期だ。自分の本音と建て前を再度確認する必要があると考えていた。
一体どうすれば、彼らと本物の家族になれるだろうか。その答えを探している。
休日だが、部活は休みだった。
午前中は、学校の宿題を片づけたり、読書をしたり、ゲームで遊んだり、ぐるぐると色んなことをして時間をつぶしたが、たったの数時間しか経っていなかった。
リビングで大の字になり、天井をぼんやり眺めていると、自然と瞼が落ちてきて、そのまま睡魔に身を任せた。
――――――
――――――
ゆっくりと意識が覚醒する。
ハッと目覚めると、午後の五時になっていた。
むき出しの床でこんなにも長時間寝ていたということは、もしかしたらかなり疲れていたのかもしれない。
夕飯の準備をしようと、重たい体を起こす。
ピンポーン。
誰もいない家に、無機質な呼び出し音がこだまする。
(こんな時間に誰だろう?)
「おーい、幸一。いるかー?」
慌ててインターフォンに向かおうとしたところ、先に翔の声が聞こえた。
来訪者は、翔だった。
インターフォン越しに返答するよりも先に、玄関に向かって行き、扉を開けた。
「翔さん。どうしたんですか、こんな時間に。」
手ぶらで私服姿の翔が立っていた。
「今暇か?」
「ええ、まあ特にこれといったことはないですけど……」
「ちょっと話したいことがあるんだ。いいか?」
「………わかりました。とりあえず上がってください。」
玄関の扉を大きく開けて、翔を中に通す。
いつもの陽気な雰囲気はなく、珍しく思い詰めた様子だった。
ふと、数日前の翔との会話を思い出す。
あの時の様子はいつも通りだったけど、今思えばわざわざ自分のところに来て兄のことを聞いてたのは違和感が残る。
もしかしたら、そのことと関係があるのかもしれない。
翔がこの家にやって来たのは、初めてではない。一昨年の高校一年のときは、割と足しげく通っていたほどだ。しばらく来ていなかったけれど、家の内部構造はしっかりと覚えていた。幸一の案内がなくともリビングの場所はわかった。
「今日は一人か?」
「はい。お父さんは連日研究に忙しいみたいで、ここ最近はあまり家には帰ってこないんです。」
辺りを見渡すと、生活感がまるでなかった。しばらく一人でいたことが見て取れる。
「幸一。今日は大事な話があって来たんだ。」
「……大事?」
「ああ、そうだ。」
翔はダイニングテーブルの椅子に座る。
幸一は冷蔵庫からお茶の入ったピッチャーを取り出し、用意した二つのコップによそった。片方を翔の近くに置くと、ありがとうと言って一口飲んだ。
「大事な話っていうのは有次のことなんだが…………その前に一つ確認がある。」
「何でしょう。」
「有次はこの間の月曜十三日から、家には帰ってないんだよな?」
「はい。月曜日の昼くらいに兄さんから連絡があって、しばらく用事で翔さんの家に泊まることになったって。」
「それは嘘だ。」
「嘘?」
「あいつは一度も俺の家に来ていない。」
どうして有次がそんな嘘を言ったのか、理由がまるで幸一にはわからなかった。
「ホントのことを言うとな、俺も全然事情を把握してないんだ。でも、これはきっちりお前と共有すべきだと判断して、今日ここに来たんだ。今まで隠しててごめんな。」
幸一の翔に対する印象は、とにかく明るい、だった。
幸一は、翔が悲しんでいたり落ち込んでいたりしているところを見たことがない。一緒にサッカーをしていた時に、翔が派手に転んで怪我をしたことがあった。
『翔さん!? 大丈夫ですか!?』
『イテテテ。躓いちまった。』
『あ、足、足! 血でてます!』
『ん?……あ、ホントだ。まあそんな慌てんなよ。俺は大丈夫だ!』
そう言って笑う顔は、今でも印象的だった。
その笑顔は、見ているこちらも笑顔にしてしまうような眩しさがあった。
目の前の翔からは、普段見られない思い詰めた気持ちと、まるで自分を責めているような気持ちが入り混じっている様に、幸一は感じた。
「有次についてわかってることは一つ。学校には顔を出すが、どこで寝泊まりしてるのかわかんないってことだ。」
「じゃあ兄さんは、先週の月曜日からずっと別の場所にいるってことですか?」
「そうなるな。」
翔は丁寧に椅子を下げて立ち上がると、
「有次の部屋に行くぞ。」
そう言ってリビングを出ようとした。
幸一も翔の後ろをついて行く。
ギシッ、ギシッ、と階段の軋む音がやたら脳に響く。
階段を上りながら、翔は有次や幸一との楽しい日々を思い出す。
(学校帰りによくこの家に来て遊んだな。)
主に室内で遊ぶことが多かった。それは、有次が運動をあまりしないからだ。
トランプやゲーム、映画鑑賞、一緒に料理を作ったりしたこともあった。俺は自炊するのが珍しくなかったから、料理はある程度できるが、有次や幸一までできるのは驚きだった。幸一に聞けば、全部有次に教わったってことらしい。それに、あの兄弟の作るメシはどれもウマかった。
去年は、親の出張の関係で、一年間海外で過ごした。一人帰ってきて、そこから家に来たのは今日が初めて。どうせなら、三人で楽しい時間を過ごしたかった。
(階段を上りきって、正面は親父さんの部屋。隣が幸一、そして一番奥が……)
階段から最も遠い部屋が、有次の部屋だった。
中に入ると、以前ここに来た時と内装は変わっていなかった。右の小窓側にベッド、窓がない左側に勉強机が置かれている。その隣には机よりか少し高いぐらいの棚がびっしり置かれていて、そのほとんどが小説で埋め尽くされている。教科書など、数える程度だ。
翔には変哲のない部屋に見えたが、どうやら有次の部屋に入るのは幸一も珍しいらしく、クローゼットを開けて服を物色し始めた。
幸一の手が止まったのは、ワイシャツや体操服など、主に学校関係の服を収納している引き出しだった。
「兄さんは、ちょっと変わった畳み方をするんです。なので、服を見れば、誰が畳んだかわかるんです。」
「それでどうだった?」
「…………。」
翔の想像通りだった。
「有次は、毎日シワのない綺麗なワイシャツを着ていた。家族が誰もいない時間帯にひっそり帰ってきて服を持っていった可能性もあったが……ハズレだな。」
大窓と小窓を開け放つ。新鮮な風が部屋になだれ込み、カーテンが大きくたなびく。
「毎日銭湯に通い、服はコインランドリーで洗濯、乾燥する。私服を一着買えばできなくはない。じゃあどこで寝てる? ホテルか? 買った服はどこに置いた? コインロッカーか? 毎日そんな生活していて、お金は足りるのか?」
幸一は机に近づき、備え付けの引き出しの一番上を開けた。
「お父さんは家にいないことが多いので、万が一に備えて、口座のカードを兄さんに預けているんです。そのカードは、ここにあります。」
ただの高校生が突然消えたとして、果たして大金を持っているだろうか。
洗濯、食事、睡眠全てにお金を使う生活が、一週間も続くだろうか。
「ただ、問題はそこじゃない。今のあいつは、完全に人との関わりを拒んでるってことだ。まるで、一年前のように…………。」
翔はベッドに腰かけた。両手をついて、天井を見上げる。
「去年、俺は両親に連れ添って海外に行ったが、こっちが丁度夏休みのときに、一度帰ってきた。」
「覚えてますよ。一緒に長野の山奥に遊びに行きましたね。」
幸一は、ローラー式の椅子に座った。背もたれが大きく見える。
「あの時、有次から聞いたんだ。有次は、二年生に上がって間もなく、不登校になったって。……そのことは、幸一の方がよく知ってるはずだ。」
「…………はい。」
「有次は、まあ見ての通り、あんまり感情を出さないし、図書室の端っこでひっそり本を読んでるのが似合いそうな奴さ。でもな、不思議と誰かとの関わりを拒んだりしなかった。一人でも、孤独じゃなかった。そんな有次が、他人との関わりを拒んだのは――」
「去年と、今……。」
翔は立ち上がって、喉が渇いたから下に戻ろう、と言った。
幸一も立ち上がり、二人はリビングに戻った。
「有次から直接聞いたあの時、あいつの様子は俺の知ってるいつもの有次だった。だから俺は、そんなに深く追求しなかった。なんで、あいつが助けを求めてるって思わなかったんだろうな。誰だって、秘密の一つや二つ抱えている。その全てを公開するのは、むしろ不可能だ。有次がかつてこう言っていた。家族も友人も恋人も結局は他人だ、って。でも、こうも言ってた。そんな他人に繋がりを求めるのが人間なんだ、って。そう言った奴が、他人との繋がりを断ち切ったんだ。きっと何か大きなものを抱えているのかもしれない。きっと、たくさん苦しんでいるに違いない。…………そんなことにも気付けないなんて、何が友達だ、バカヤロー。」
皮肉たっぷりに、そう小さく呟いた。
「……僕も同じです。僕は、心のどこかで、兄さんは何でもできるって思ってました。そんな兄さんを尊敬していて、兄さんみたいになりたくて、いつも兄さんを見上げていました。…………でも、だから、兄さんが苦しんでいるときに、何も出来なかった。」
同時にこうも思った。まだ自分の心のどこかに、家族に対する遠慮があったのかもしれない。それで本当に、家族と言えるのだろうか。もしかしたら自分の行動が、理想から遠ざかる最大の原因なのかもしれないと、幸一は考えた。
翔は、有次に謝りたかった。そして、今度こそ友達で在りたいと思った。
幸一は、有次の力になりたかった。そして、本当の意味で家族になりたいと思った。
二人の気持ちは同じだ。有次を大切に思う気持ちは。
「俺は明日、有次ともう一度話し合おうと思う。この間は、俺の伝えたいことを何にも言えてなくてな。中途半端は性分に合わん。」
「言葉にしないと、伝わりませんですから。」
お互い、自嘲混じりの笑みを零した。自分たちの感情を明かしたことで、少しは前に進めたような気がした。
「有次の言う通り、俺たちは他人だ。だからこそ、口にしないと相手には伝わらない。大丈夫。明日にはあいつをしょっぴいてこの家に連れてくるさ。」
翔は得意げにコップを高く掲げた。
幸一は笑った。何故なら、
「はい。その方が、翔さんらしいです。」
妙に納得した翔も、一緒になって笑った。
*
「もしもし。篝翔です。ご無沙汰しております。」
「やあやあ、久しぶりだね、翔くん。元気にしてたかい?」
「もちろんです。」
「それで、突然どうしたんだい?」
「実は、今日お家にお邪魔させてもらってるんですけど、遅くまでお世話になるかもしれないので、連絡させてもらいました。」
「はっはっは。相変わらず律儀で偉いね。確かご両親はまだ海外だったかな?」
「はい。年内中は帰ってこないみたいです。」
「そうか。好きにくつろいで行きなさい。今日も私は帰りそうになくてね。またいつか顔を出してくれるかな?」
「もちろんです。忙しい中ありがとうございます。」
「いいんだ。子供は大人に迷惑をかけるものさ。」
「では、お言葉に甘えさせてもらいます。」
そう言って電話を切り、リビングに戻った。
数分前。
「なあ幸一。今日もお父さんは帰ってこないのか?」
「ええ。そのように聞いてますけど……」
「よし、じゃあ……」
そう残して、突然翔はリビングを出て、そのまま玄関から外の飛び出していった。
しばらくして、再びリビングに戻ってきた。
「?」
突飛な行動に、疑問しか湧かない。質問しようかと思っていると、
「腹減ったな。」
「そうですね。もう六時ぐらいですし……」
「幸一の麻婆豆腐が食べたいなー。」
「…………どうしたんですか、急に。」
話のスピードに全く追いつけない。
「いやいや、お世辞抜きでな、幸一の作る麻婆豆腐は世界一だと思うんだよ。」
「それは、どうもですけど、今食材足りないですよ。」
「じゃあ買いに行こう。何が足りない? いや、一緒に買いに行こう。」
バッと立ち上がって、バッと連れていかれた。
考えたらすぐに行動する。誰かを巻き込んで何かをする。後先考えない。無茶を押し通す。
いつもの、篝翔だ。
幸一は、懐かしい思いに少し浸った。
前を歩く姿に、励まされた。
うじうじしてたって何も始まんない、そう言われているみたいだった。
(それにしても、いつも急なんだよね。翔さんは。)
内心、そう愚痴をこぼさずにはいられないのも、今に始まったことではなかった。
買い物をして、一緒に料理して、食べ終わったらゲームをして、おしゃべりして。
そうして、いつの間にか夜の十一時を回っていた。
「もうこんな時間か。」
「そうですね。」
机に散乱したお菓子を適当につまんでいたが、隣の幸一が小さくあくびをしたことで、
(そろそろ帰るか。)
思えば随分長居していた。
明日は二人とも学校だ。サボり癖のある翔は特に何とも思わないが、対照的に幸一は優等生。先輩とつるんで寝不足とあっては、褒められたものではない。
「片付けはいいですよ。僕がやるので。」
察した気遣いだった。
散々散らかした張本人が放置したまま帰るのは気乗りしないが、残って手伝えば余計に時間を食うだけだ。
「わかった。ありがとな。」
手ぶらでやって来たため、そのまま玄関まで向かう。
ついてこようとした幸一を、片手で制止した。
「見送りは大丈夫だ。今日は長居して悪かったな。」
「こちらこそ、楽しかったです。」
幸一は知っている。
翔が一緒に遊んでくれたのは、自分を励ますためだということを。
恐らく、玄関を開けた時の自分が酷く疲れた顔だったのを、翔は気付いていたのだ。それに加えて、有次について暗い話を聞いた。空元気なのは見透かされていた。
「今度は三人で集まろうな。」
そう笑う翔の内心は別の感情でいっぱいなのも、知っている。
「約束です。」
だから笑う。
だから、翔は安心した。
バイバイ、と手を振って、リビングを出た。
整えたはずの靴は、いつの間にかより丁寧に揃えられて端に置かれていた。
玄関を出ると、外は美しい星景色だった。
ほのかに冷たい夜風に、頭の思考が覚めていく。
目を閉じ、一度大きく深呼吸をした。
(少し歩くか。)
意味もなくぶらぶらと一人で歩きたい気持ちだった。
特に、こんなにも綺麗な、雲一つない満月の日には。
(有次も、どっかで見てるのかな。)
ポッケに手を入れて、自宅とは反対の方向へ歩き始めた。