七
「失礼します」
そう言った依田原の顔は優れなかった。
霜村は椅子にかけたまま中に入ってきた依田原を見上げていた。彼女の視線は一度霜村に向いたあとはずっと俯いたままだ。
扉は依田原が後ろ手に閉めた。金管楽器の音が小さくなった。窓から吹き込んだ柔らかい風に依田原の髪が攫われる。肩まで伸びた黒髪である。
ほつれた鬢が頬にかかり、依田原はそれを耳にかけた。
まだ何も言わない。
「どうしたの?何か言わなきゃ、今のところ君の今の態度から汲み取れる情報がないよ。それとも見て取れる情報があるのかな?」
霜村はほとんど無表情だった。
依田原は顔を上げて口元を僅かに引きつらせた。霜村の冷徹なジョークは全く通じていないようだった。
「あ、すみません。……あの、相談があって」
「その話は長くなりそう?」
「あ、お仕事中ですか?」
「面白いことを言うね。僕が職場である学校にいて、仕事中でなければどういう状態なんだろう」
霜村は再び冷徹ジョークを飛ばしたが、それが通じる人間はほとんどいなかった。霜村自身はそれに気がついていない。
「あ、いえ、お忙しいければ出直そうかと思って」
「幸い学校内で僕が忙しいことはほとんどないから大丈夫。そうじゃなくて長くなりそうなら椅子にかけなさい、ってこと」
霜村は依田原の目の前の椅子を顎で示した。
「あ、失礼します」
依田原は明るい社交的な性格だった。先輩として吹奏楽部の後輩達にも指導しながらも場を和ませるような雰囲気作りができる人物である。吹奏楽部の顧問である藤川も彼女のことは気に入っているらしかった。
それが今は落ち込んでいるようにも見える。他人にそこまで興味がない霜村から見てもそれは一目瞭然だった。
「さて、改めてどうしたの?」
「あの、私が一年生のときに吹奏楽部の先輩だった佐古下先輩のことなんですがご存じですか?」
その名前には聞き覚えがあった。佐古下悠理。霜村の記憶に残る人物である。
「覚えてるよ」
霜村は素直に頷いた。
「佐古下先輩のことなんです」
「佐古下君のこと?」
吹奏楽部という繋がりがあるのは、霜村自身思い返せば直結する。二人には何らかの交友関係が有りうると。しかし、その相談が霜村に及ぶのはどういうことなのか。
「はい。佐古下先輩なんですが、あの人は今埼進の二年生なんです。知ってました?」
本題を差し置いて依田原は霜村に投げかけた。こういったときは本題に難があるときだ。
霜村は佐古下の進学先をもちろん知っていた。
「それが相談ごと?」
違うことを分かっていた上で霜村は問い返した。依田原の会話の導入が焦れったく感じたのもあるが、他人から佐古下の話を広げられるのが霜村からすれば快くなかった。
「えっと、遠からず、です。佐古下先輩は埼進で人間文化学部を専攻しています。その中で地方の文化や風習をレポートする為によくフィールドワークに出掛けてるって言ってました」