表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

人の振り見て我が振り直さず

作者: きい




 「おまえは現実ってものが分かってるのか」

 まったく。今日一日で何回言わせればこいつは気が済むんだと思いながら、企画書を叩き付ける。ちょっと良い大学を出ているからといって、言うことは生意気、大袈裟、企画書の中身は夢見がちで抽象的な言葉ばかり。こいつのこれから先を考えると気が滅入る。

 無表情のまま企画書を手に取って、俺を見た。本人に自覚はあるのだろうか、睨みつけるような視線が余計に癇に障る。

 「なんだ、その目は。客の前でもそんな顔する気か、おまえは」

 こいつはなんと言ってくるだろうかと待っていたのだが、なにも言わずに歩き出した。一歩一歩に体重を乗せるように歩いてから、自分のデスクの椅子を荒々しく引き勢いよく座った。言いたいことがあるなら言え。若いだけが取り柄なのに若い気迫もないのか。

 最近の若手社員はこんなものばかりか。優しくすればつけあがり、厳しくすればすぐ辞める。俺のときはそんなことはなかった。罵声を浴びされようが引っぱたかれようが必死について行った。十年と少しでこんなにも変わるものだとは。正直、驚いたとしか言いようがない。一体いつも何を考えてるのかすらも不明だ。どうせ日頃から女と自分の趣味のことくらいしか考えてないんだろう。

 横を向くと壁に掛かっている丸いアナログ時計の短針が「6」の文字から半分もずれていた。こんな時間まで付き合わせやがって。今日は彼女と公開直後の映画を見に行く約束をしてるんだ。そのことだけを考えて、先週から完璧な段取りで仕事を片付けてきて、今日は定時に帰れるように仕込んだのに、なんてことだ。おまえのくだらない仕事には付き合ってはいられない。

 パソコンのメールを開いて、特に重要なものはないなと確認してからすぐに電源を落とした。手早くバッグの中から手帳と会社用の携帯電話を取り出してて引き出しの中に入れる。今日はもう完全に閉店だ、用があるなら明日にしてくれと呟きながら、手配をしておいた前売り券が入っているかを確認してからバッグを閉めた。

 「明日までにその企画書を修正しておけよ」と言ってから立ち上がる。「現実的にだからな。言っておくが、おまえの現実じゃないぞ」振り向きも頷きもせずにキーボードを叩く姿を見て、俺はこいつを思い切り引っぱたいてやりたくなった。



 地下鉄は思った以上に混んでいた。定時で帰る年配の会社員や女性社員、それと学生ばかりが乗っている。気楽なもんだ。あんたらの会社は今頃は若手と中堅社員が必死になって働いているっていうのに、考えてることは晩飯かテレビドラマか今夜のベッドの中のことくらいだろうな。

 なにやら隣がかちゃかちゃうるさい。視線を向けると、オーバーサイズ気味のスーツを着た中年男性が、携帯ゲームの液晶ディスプレイをペンで突っついている。こんなに人が乗ってるんだ、ちょっとくらい我慢もできないのか。そこそこの歳なのに人の迷惑くらいも考えられないのか、このオッサン。

 いやオッサンよりもメールだ。そういえば会社を出たら彼女にメールすると言っていたのに、まだ送ってなかった。

 俺はスーツの内ポケットに手を入れて携帯電話を取り出そうとするが、隣のオッサンの腕が邪魔で自分の腕を持ち上げられない。こっちは現実問題なんだ、そんなクリエイトされた世界のことに夢中になってるやつのことなんか気にしていられない。俺は力を込めて腕を上げると、ゲーム機を持つオッサンの腕に強く当たった。オッサンはゲーム機を下に落とした。腕をぶつけてきた俺を見ようとしたが、オッサンより先に俺は勢いよく振り向いた。オッサンは俺を見ようとしたのをやめて下を向き、ゲーム機を探し始めた。

 オッサンがしばらくもぞもぞしてゲーム機を拾い上げた時にちょうど電車がホームに入った。扉が開くと思った以上の人数が鉄砲水のように降りていく。この時間はこの駅でこんなに降りるのか。俺がいつも帰る十一時過ぎはこんなに降りないぞ。おいオバサン、俺の足を踏むなよ、こっちのオバサンもだ、そんなに肩をぶつけんなよ、だから歳のわりに老けて見られるんだよ、うわ、この子めっちゃスタイルいい、のに俺の背中をそんなに押すな、美人だけど性格悪いなこいつ、俺はそこの席に座りたいんだ、奥に行かせろよ。

 扉が閉まった。深く息を吸って溜めてから、思い切り息を吐いた。どうにか座れたぞ、俺はこれからのために少しでも休まなくちゃならないんだ。満員電車のせいで疲れきった姿を彼女の前に晒すわけにはいかないんだ。

 この地下鉄の駅間隔は短い。電車が走り出し、すぐに次の駅に着いた。携帯電話を見てみるが彼女からのメールは着ていなかった。まだ送ったばかりだから着ていなくてもおかしくはない。線路表を見ると目的地まではまだ何駅もある。俺は目を閉じた



 落ちた、と思った。ぱっと目を開くと、隣に座る女性が肩を引いていた。俺は寝てしまって寄りかかってたんだろうか。顔を見てみると学生らしい女の子で、なかなかかわいい。もう一度目を瞑ろうかなと思ったが、割合に寝ていたらしく、目的の駅まであと二駅しかないようだ。残念な気持ちになりながら目を瞑らずに、擦った。

 ホームへ降りてエスカレーターに乗り地上へと上がる。エスカレーターのベルトコンベアはのろのろと回転していて、一向に進んでる気がしない。エスカレーターを歩こうかと思ったが、若い女の子が二列に並んでいるので昇ることもできない。こいつらは田舎者かと脳裏をかすめたが、すぐに思い直した。この子たちが悪いんじゃない、この子たちは無知なだけだ。それより元々こんなに深く作るのが悪いんだ。地下鉄だからといって深く作れば威厳が上がるというものじゃない。立派な壁に立派な絵やら文字やら書いてあるが、そんなもので偉そうにするよりも、深く作りすぎてごめんなさいって一言書いておくべきだ。

 そんなことを考えていると、ようやく改札が見えてきた。俺は必要以上の力を込めて定期入れを叩き付けて改札を開いた。これですぐに外だな、そうだとばかり思ってたのに、またうんざりするほど長いエスカレーターが現れた。

 こんなエスカレーターに乗るくらいなら死んだほうがマシだと辟易としたが、死んだら彼女に会えなくなるのだから死ぬのはやめだ。俺はエスカレーターに負けたわけじゃない、彼女のために乗るんだからな。

 地上に出ると、すぐに映画館の入っている高層ビルがそびえ立っていた。このビルの上の方のフロアはオフィスだと聞いたことがある。ビルの入り口も周りも間接照明だらけで、いかにも、幻想的な雰囲気ですよ、いかがですか。そう言わんばかりだ。どいつもこいつも現実から逃げたくなるのは、商業施設も同じなのか。苦しい時代だからこそ現実を直視して進もうって気兼ねはどこにもないのか。むしろ、こういうビルや観光スポットのせいで現実逃避するようなやつらが増えてるんじゃないのか。

 向こう側に大きな昆虫みたいなオブジェが見えて、そこの近くに人だかりが出来ていた。あそこに彼女がいそうだ。

 大抵の男は自分の彼女をなかなか見つけられないと言うけれど、俺は彼女をすぐに見つけることができる。それが自慢の一つだ。

 なにせ俺の彼女は胸がでかくて足が細い。顔を見なくても間違えることはない。もちろんスタイルだけじゃない。くりくりした目に小降りで形の良い鼻、薄い唇。体を見なくて顔だけを見ても一発で分かる。男のほとんどがそうであるように、俺もでかい胸も好きで細い足も大好きだ。あの目で上目使いされて頭の後ろが痺れてしまわない男はいないだろう。

 今日こそはあの胸を触らせてくれるだろうか。足でもいい。むしろキスだけでも構わない。いつも、焦らされたほうが燃えるでしょ、というようなことを言ってきて、なにもさせてはくれない。そう言われるてみると俺もそうだなと思える。確かにそのほうが燃える。

 だけれどもう、そろそろいいだろという気持ちでいっぱいになっている。いくらこんな優しく辛抱強い俺だって、もう燃え尽きてしまいそうだ。

 当然、俺の彼女に対する愛は永遠であり、彼女にも会う度にそう言っているし、真実だ。ただカードの限度額が燃え尽きてしまいそうだ。すでに火を噴いていて、いや噴きすぎていて、そろそろ灰になる。

 人工的に幻想的な商業施設を見る。この中に入っているテナントはどこの店も高級だろうなと思った。しかし俺は仕事と同じようにプライベートの問題解決能力にも優れている。新しいクレジットカードを作っておいた俺に死角は無い。彼女は気も使える女だ。会計のときには、きちんと席を外してくれる。それもナチュラルに。

 俺のように先見性があるがゆえに、四八回払いをする男の気持ちを彼女は分かってくれているのだろう。本命の女の前では四八回なんて、なかなか言えないものだ。今までの人生で、これだけ顔もスタイルも性格も申し分ない女には出会ったことがない。もしこれだけ打てて守れて、しかも走れる選手がいたらメジャーだって放っておかないだろう。

 そういったことを考えながら昆虫のようなオブジェに向かって歩いていると、ふと妙な気がした。

 どこにも彼女の姿が見当たらない。

 俺の彼女は時間にもルーズではない。ほとんどの場合、彼女が先にいる。遅れるときは必ず連絡をよこす。連絡? そうだ、つい電車の中で熟睡してしまって携帯電話を見ていなかった。取り出した携帯電話の画面には、着信履歴有と表示されている。電話をくれていたんだなと悪い気になりながら履歴表示のボタンを押した瞬間、電話が鳴り間髪入れずに取ってしまった。こういうタイミングすら合うなんて最高だ。俺と彼女はやはり、繋がっている。

「ごめんごめん、電話気付かなかったよ」と出来るだけ優しい声で言った。けれど相手は何も言ってこない。なにかトラブルでもあったのだろうか。少しの間を置いてから、

「いえ、僕も何度もかけてしまって…。もの凄く怒られると思ってたんですが、あの、電話かけちゃってすいません」と男の声がした。後輩かと分かった瞬間、かっとなりそうになったが、俺の頭はハイスピードで回転して答えを出した。ここで怒鳴ったら格好が悪い、と。

「ああ、いいよ。俺が帰ってから電話するなんて、余程のことがあったんだったんだろ。どうした、言ってみろ」どこからどうみても後輩に優しい先輩だ。隣に彼女がいないのが残念で仕方が無い。

「あの、先程の企画書なんですが、先方から電話がありましてどうしても今すぐ見たいと。ざっくりでも構わないからと言ってるんですが、このまま出し…」

 俺は、かっとなった。

 「自分の仕事くらい自分で決めろ」

 怒鳴り散らしてからすぐに電話を切った。やはり彼女が隣にいなくてよかった。

 気を取り直し、あらためて携帯電話を見た。着信履歴は後輩からのものばかりで、彼女からの着信は無かった。

 彼女の身になにかあったのだろうか。あれだけの女だ、なにかに巻き込まれてもおかしくはない、そう考えがよぎると急に不安になってきた。やはりこの妙な予感は的中してしまうのだろうか。口が渇いて行くのを感じながら彼女の携帯電話に繋げる。

 繋がるか。まずはそれだ。

 目を閉じて携帯電話を当てた耳に神経を集中させる。この数秒の時間が限りなく長く感じる。携帯電話の向こう側はまだ静寂に包まれている。繋がらなかったらどうすればいいのか、もしかしたら地下鉄の中なのかもしれない。しかし大事をとって警察に連絡するべきか、彼女の家に行くべきか。まてよ、そういえば俺は彼女の家を知らない。いつも散らかっているからと遠慮をしているけれど、このようなときのために無理にでも住所くらいは聞いておくべきだった。

 鳴った。リズミカルな呼出音が聞こえる。

 呼出音が耳に入る度に自分の肩の力が抜けていくのを感じた。

 しかし何度もコール音は鳴っても彼女は電話には出ずに、留守電に繋がった。俺は留守電に、待ち合わせ場所にいるけどなにかあったの? 心配だから連絡だけちょうだい、とだけ入れた。

 まずは待とう。俺は近くにあった喫茶店に入ることにした。入り口前にあるイーゼルの上の黒板には、白やピンクや黄色のチョークでカラフルに「本日のコーヒー」と書いてある。その横の文字を見て驚いた。まさか一杯のコーヒーが五百円玉一つでも足りないとは。辺りを見回しても他に喫茶店のようなものはなく、俺は入り口のドアを開ざるをえなかった。



 店内はあまり広くはなかったが、客の入りは多かった。

 窓際に面して一列に並んでいるカウンターがあり、奥にはL字型の平べったいソファ席、真ん中に椅子が四つの丸いテーブル席が三つだ。

 ちらちらと見てみると奥のソファ席しか空いていなかったので、俺はコーヒーの乗った小さなトレイを持ちながらそこへ向かって歩いた。その席の隣にはヒゲを生やしてニット帽を被った二十代後半ほどの男性が一人いる。この歳でヒゲを生やしているなんて、これが最近話題になっているニートというやつか。この不景気の中、ヒゲを生やして就職できる企業なんかあるわけがない。その割には高そうな時計をしているが、偽物に違いない。

 このニートはまず、高価な時計の価値というものを分かっていて付けているのだろうか。俺は左腕をめくって時計を出した。彼女がくれたこの時計はフランクミュウラアというブランドで、ものによっては百万円するものもあるらしい。彼女の話だと、全てが職人の手作りで、中にあるネジ一つをとってみても同じものは二つとはないということだ。

 文字盤を見ると、滑らかにカーブした短針と長針が、くにゃりと歪んだ柄の数字を差し、今という時を示している。

 この、くにゃりとした数字が俺は好きだ。時間というものは、そのときそのときで長さが違う。仕事をしているときと彼女といるときではウサギとカメだ。…ウサギとカメで良かったんだよな?

 ともかく用意された時間は同じだとしても、感じる時間の長さは個人個人のものだろう。まさしくこの、くにゃりとした数字は、そのシンボルそのものを現している。その時計を身に付けるということ、そういうことを分かってこそ意味があるんだよと、このニートに教えてやりたい。

 ただ、このお気に入りのこの数字も、最近は色が抜けて薄くなってしまっている。紫外線の影響だろうか。それに職人の手作りだからなのか、たまに止まってしまう。機械なのに気分屋だなんて、かわいい時計だ。色落ちを楽しむのも贅沢なことなのだろうが、気に入っている文字柄だけに、俺としては残念な気分になってしまう。

 映画の上映まではあと三十分ある。いまさら映画なんてどうでもいいのだが、チケットが無駄になってしまうのはもったいない。それでも彼女に一目でも会えれば俺は満足だ。

 目につくように携帯電話をテーブルの上に置いてから、コーヒーを口に運んだ。

 やけに苦いな。

 俺はコーヒーが苦手なんだ。

 もうちょっとあっさりした味のコーヒーならなんとか飲めるが、これは無理だ。

 テーブルの脇にあるガラスの容器にはブラウンシュガーが入っている。トレイには小さな銀の容器に濃そうなミルクが入っている。これを入れれば飲むことができそうだが、男はブラックコーヒーを飲んでこそ格好がつく。

 確か、これから見る映画は恋愛の話だったはずだ。俺がいつも見るのはアクション映画だ。それもできれば毎回ストーリに変化がないシリーズ物が好みだ。近頃の映画はアクションものですら妙に特殊な世界観だったり深そうな意味が入っているような気がするが、そんなものはもはやアクション映画ではない。やはりアクション映画の決定的な要因は火薬の量だ。

 この恋愛映画は爆破シーンがあるだろうか、なければ眠くなってしまいそうだ。待てよ、もし彼女が涙を流すようなシーンで俺が寝ていたら? 俺は意を決して濃いミルクをなみなみと注ぎ、褐色に渦巻くコーヒーへブラウンシュガーを四つ投下した。

 ちびちびとコーヒーを飲みつづけ、半分ほどの量になったときだ。携帯電話が鳴った。

 瞬間、胸が高鳴ったが、また後輩という可能性もある。

 ゆっくり、一、二、三、と数えてから携帯電話を手に取った。

 電話ではなくてメールだった。俺は開封ボタンを押した。正真正銘、彼女からのメールで俺の胸は高鳴る。

 内容が画面に映し出されるとそこには、「今日は行けないから見たいなら一人で見てね。」と書かれていた。

 いつの間にか店員が隣のテーブルを拭いている。ヒゲのニートはもういなくなっていた。

 彼女に急な用事ができてしまったのだろうか。今日は行けないとだけ言われてもなぜ来れなくなったのかまでは分からない。俺は彼女になにがあったのか想像もつかない分、気になる。しかし、ここで内容を詮索するような男は小さい男だ。何があったのと、聞きたい気持ちをねじ伏せて、大変だね。映画は一人で見てくるから、今度どうだったか話そう。と送った。

 送ってから気が付いた。俺はこれから一人で映画を見なければならない。しかも興味の無い恋愛ものを。けれど言ってしまったものは守らなければ。もう上映時間間近だ。半分に減ったコーヒーを一気に流し込むと思い切り吹き出しそうになったが、こらえて、ごくりと胃に落とす。俺は喫茶店を後にした。



 眠い。昨日はコーヒーのおかげで退屈な恋愛映画を寝ることなく見ることができたが、内容はよく分からなかった。

 女が主人公で、ラスト近くで連れ添った恋人が死んでしまうけれど、爆破シーンで死ぬわけではなかった。その映画を見てたのはカップルばかりで、二人して泣いているものもいたが、俺には理解不能だ。むしろ家に帰ってからも眠気が全く降りてこなくて、寝付いたのは四時を過ぎたころだった。結局、彼女からもメールが返ってはこなかった。余程のことがあったのだろう。

 ぎりぎりにはなってしまったが出社時刻には間に合った。

 早足でオフィスに入ると、なにやら様子が変だ。朝といえば全員がデスクに座り、各々コーヒーを飲みながら新聞やインターネット見ていて、オフィス全体のテンションがまだ低いはずなのに、今は全員がデスクから立ち上がって輪になっている。そこからはなにやら、たいしたもんだ、がんばってたもんな、のような声が聞こえていて、もう活気づいている。

 俺は、おはようございますと言って入っていくが誰も気が付かない。自分のデスクにバッグを置いてから輪へ向かうと、中心にはあの後輩が立っていた。

「なにかあったの」俺は同僚に尋ねた。同僚は、おはようと言ってから、

「こいつさ、新規の契約取って来たんだよ。それも大口の。うまくいけばうちの課でも上から三番目の売上になるぞ」

 俺はその言葉を聞いてから後輩を見る。満面の笑みをてかてかとさせながら課長に、ありがとうございます、がんばります、と言っている。課長は、わたしももちろん、みんながおまえに期待しているからな、細かいことでもどんどん聞いてこの案件を成功させてみろ、そう頷きながら後輩の背中をぱしぱしと叩いている。後輩が俺がいることに気がついた。

「先輩、昨日の企画書なのですが、あのまま提出したら向こうの社長が企画書を買ってくれまして。しかも良く出来てるからって、他の事業に回してくれたんです。そしたら…」

 部長が補足するように、「あそこの社長が大口の案件に突っ込んでくれてな。朝一番でわたしのところにも電話がきたよ。まだ企画自体は荒削りだけれど、これを軸に行きたいと言ってくれてな」と言った。

 俺は「課長は、あそこの社長と懇意でしたもんね。そうか、よかったな」と言って課長と後輩を交互に見る。ひきつらずに笑えているかが気になった。課長は俺を見て、

「それはそうと、朝礼が終わったらちょっといいか」と言うと同時に、始業のチャイムが鳴り響いた。

 支店長が書類を片手に前に出てきて、昨日までの報告を話しだしたが、俺の耳には入ってこない。そうか、俺もようやく昇進か。俺が手塩に育てた後輩が、あれだけの実力を身につけたのは、まさに俺の管理能力の賜物だろう。それを認められてもおかしくない。いけない、そんなことを考えていると顔がにやけてしまう。支店長が書類を読み上げている最中ににやけていたら、変に勘違いされてしまう。

 どのくらい給料が上がるのかな、月に十万も上がれば年収百二十万も上がるのか。まてまて、こういうのは高く考えていると少なかったときにがっかりしてしまう。月に五万くらいだろう、でもそうすれば年収で六十万か。部下が付けば残業時間も減るだろうか。

 そうすれば彼女とも会える時間も増える。結婚か。年齢を考えればそれを考えだしてもいいのかもしれない。全員がぞろぞろとデスクに向かって歩き出した。あっという間に朝礼が終わったと思った。俺も一緒に歩き出すと肩を叩かれた。

「会議室で待ってるから、用意ができたらすぐに来てくれ」



 とにかくまずは彼女に報告だ。俺は彼女さえいればどんなところでも頑張ることができる。

 転勤か。

 転勤と聞いて、業績の伸びているシンガポールか本社のある大阪だろうと思ったが東北地方だった。

 うちの会社は東北が最も厳しい。赤字を垂れ流していて、そろそろ閉鎖するという噂もある。だから、そこの立て直しとして支店長か課長としての大抜擢なのだろうと思ったがそれも違った。むしろ営業ですらもなかった。

 十年以上営業をやってきたのに、これからは配達要員をやってくれと言われた。配達も大事な仕事だ。これを誰かがしなければ、仕事が流れない。けれども配達要員のほとんどがバイトかパートだ。俺は、それの管理ですか? と聞いたが、課長は、いや配達要員だ、と一言だけ答えた。俺も負けずに、そんなんじゃこの会社で働けないと挑戦的に言ったが、自分のことなんだから自分で決めてくれ、来週末まで時間をやるからよく考えてくれ、課長はそう言って席を立った。そういうことかよ。

 上着の内ポケットから携帯電話を取り出した。携帯電話を持つ手が少しだけ手が震えている。

 彼女は東北に一緒に行ってくれるだろうか。彼女の出身地が東北だったら都合が良いのかもしれないし、悪いのかもしれない。兄弟はいるのだろうか。あれだけの美人だから兄弟も親もきっと親戚も、みんな顔立ちが端正なのだろう。

 秋田美人という言葉があるくらいだから秋田なのかもしれないが、秋田には支店はない。両親は健在なのだろうか、それとも片親なのだろうか、幼い頃は何をして遊んでいたのだろう。高校では部活をしていたのだろうか、それともバイトに明け暮れていたのだろうか、確か大学へは行ったとは言っていたがどこの大学の名前が思い出せない。

 今までの恋人とは何をして過ごしてきたのだろう。それは言いたがらない人もいるから知らなくても不自然じゃない。彼女のいまの仕事はなんだろうか。それも思い出せない。

 もしかしたら思い出せないのではなくて俺は知らないだけなのではないだろうか。

 よくよく考えると俺は彼女の何を知っていたのだろうか。今まで彼女と、どんな話をして過ごしたのだろう。テレビの話と、お笑い芸人の話、彼女が好きなバッグのブランドや、トップブランドの成り立ちの話、芸能人や、セレブの生活の話。

 なんだろうか、まだ昨日のコーヒーが残っているのか、気分が悪くなってきた。地面に足を置いて立っているのに、ふわりと宙に浮いてしまっている感じがする。目の上のあたりと胃の当たりに、ねっとりとした気持ち悪さがまとわりつく。いつのまにか手に汗を掻いていて、携帯電話が滑り落ちそうだ。

 俺はポケットに携帯電話を入れてからシャツの腰のあたりで手を拭き、また携帯電話を取り出したが、もう手には汗がにじみ出ている。

 電話帳を開き、カーソルを彼女の名前の位置に止めて、通話ボタンを押す。俺はなぜか携帯電話を耳まで持ってこれず、発信中となっている文字が呼出中に変わるのをじっと眺めている。もう呼出中に変わってもいいころなのに表示はまだ発信中のままだ。心の中で一、二、三、と数えてから、おもむろに耳まで持って行く。リズミカルな音が聞こえた。いつもの細かくリズミカルな音ではなく、ゆっくりと鳴るほうの音だった。俺は何度も彼女に再発信したが、一度も繋がらなかった。

 窓ガラスには、薄く自分の姿が映っている。薄い影の俺はなにかを言いたそうな表情をしている。いったいこいつはなにが言いたいんだ。俺は窓ガラスの俺に目を向けると視線が合わさった。窓ガラスの俺は、ゆっくりと首を傾げてから横を向いて、また俺に視線を合わせた。そして、にやりとしてから呟いた。

 「おまえは現実ってものが分かってるのか」





読んで頂いてありがとうございました。


彼は現実を見るまでは幸せだったのでしょうね。

きっとわたしもそうですし、誰にもこういう一面が有ると思います。

それにしても現実ってなんでしょう。

彼には人柱になってもらったのに、まだ分かりません。


わたしもせめて、彼の振り見て省みなければ・・・。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ