黒と菊池の交渉
カズの眼の前で、菊池と黒は取引をはじめた。
15
黒はさほど驚いてはいない。冷ややかな視線をカズに送った。
「なんだ? カズ。カウンターを蹴り飛ばして。不満か?」
菊池が何を考えているかはわからないが、この場を自分の手でぶち壊すことはない。カズは自制した。
「いや……。話の腰を折ったかな……。足を組みなおそうとしたら、靴先がカンターに当たった。すまなかった」
そう言って、グラスを口もとに運んだ。
黒は小ばかにしたような笑みを浮かべ、鼻から煙を吐き出した。
「で、菊池さん。話の続きはあるのかい?」
黒は菊池のほうへ話を振る。
急に口が重たくなったようだ。菊池は黙って煙草をふかしていた。
かび臭く薄暗い小さな酒場のなかは、三者三様の思いが交錯した。しばらくは誰も動かなかった。
そのうち意を決したように、菊池は止まり木に置いたビジネスバッグに手をかけた。紙の擦れる音がした。
札束を一束取り出すと、黒の目の前に置いた。百万円の札束だった。
「どうだ?」
押し殺した声で聞いた。
黒の視線が一瞬泳いだ。が、すぐにも仕切り直し、腹黒そうな目を光らせて菊池を見た。
札束を真ん中にして、ふたりの視線が激しく絡み合った。
黒にも迷いがあるようだ。
ここで菊池を信じて、商談を成立させてよいものか判断しかねている。
「もうひとつか」
菊池は札束を追加して、カウンターに二束を重ねた。
黒の喉仏がゴクリと動いた。
「あんたも奥さんと同じように天国に舞い上がりたいってことでいいのだな」
すかさず、菊池はこたえた。
「妻が自殺して、議員の職はダメになった。そのうえ、肩書のない男など用無しと、ちょっと前までいた女にも逃げられた。やってられないよ」
黒が顔をくずして笑った。
「ほう、女にも逃げられたか。それじゃあ、薬でもやらなきゃ、やりきれねぇってもんだ」
「で、どうする?」
菊池はじれたように札束に手を置いた。
「金を引っ込めようか?」
「おっと、待った。いい出物があるんだ」
すばやかった。黒の手が菊池の手の甲をおさえた。その下には札束がある。
黒はカズに向けて顎をしゃくった。
「カズ。席を外してくれんか」
カズも、ここにいるはさすがにマズイだろうと考えていた。
腰を上げようとするカズを菊池が制した。
「いいや。わたしもひとりになるのは不安だ。だから、こいつにも一緒にいてもらいたい」
いきなりこいつ呼ばわりしだした。
「それに、こいつも悪いこと続きでね。ひとつ、気分転換が必要なのさ。だから、一緒に楽しんだらいい。おれがこいつのスポンサーになるさ」
何年ぶりかで会っただけの同級生だ。菊池の腹づもりなどわかったもんじゃない。
――はてさて、どうなることか……。
カズは小さく息を吐くと、スツールにすわり直した。
向けられた黒の刺すような視線を無視すると、新しい煙草を口にくわえた。
「ふふふ、カズも天国に行けるぜ」
黒は店の奥に行くと、一等、照度の低い棚の前に立った。
「それだけの金を出すのなら。百回は楽しめるぜ」
棚に並んだボトルを五、六本抜きとると、その奥から金属製の小箱を取り出した。
蓋を開けたそのなかから白い粉が入った袋を取り出すのが見えた。
背中を丸めるとさらに作業を続けた。粉を小さな袋に小分けしだしたのだ。
「あんたら、見つからないようにするんだな。子どもじゃないんだからわかっていると思うが……、万が一、警察にパクられても、おれの名前を決して出さないことだな。口を滑らしたら、命の保証はない。おれさえも危ねぇんだから……」
辛気臭い黒の背中に向かって、菊池が言った。
「あんた、おれの妻を抱いたのか?」
「ああ……、薬使っているときは、みな浮かれているからな。最初は抵抗したが、あとは自由にやらせてくれた。よかったぜ。あんたの奥さん。外見に似合わず、ずいぶん乱れるぜ。肌が柔らかで出るところは出ていたし……」
黒は軽口をたたいた。大口の薬の売買で気分が高揚していた。
隣にいる菊池の横顔が鉛色になるのがわかった。額から黒く濁った汗が吹き出していた。
菊池は薄い唇を動かせた。
「それまでだ」
( 続く )




