菊池の告白
黒に取引を持ちかける菊池と、カズの過去と……。
14
店のなかは静まり返っていた。
菊池が無口になって、カズも話をしなかった。
そんな沈黙のなか、黒はアイスピックの先端で氷を突きさした。アイスペールのなかに欠け落ちた氷が音をたてて重なっていく。
菊池の眼はすわっていた。
身体をひねると、隣の止まり木に置いたビジネスバッグのチャックを引っぱった。ジリジリと、ファスナーが擦れる不穏な音が響く。
バッグの口を少しだけ開けた。カウンターのなかの黒からも見えるように。
一瞬だが、黒の眼が驚きで見開かれた。
菊池を隔てて横並びにすわるカズからも、バックの中身が見えた。札束が詰まっていた。
黒に確認させると、何食わぬ顔で菊池はバッグの口を閉めた。
それまで、不信感を抱いていた黒が、中身を知ったとたん、欲望で眼を光らせた。
カズのほうは、鞄の中身を知って腰を上げようとした。このあたりで店を出るのが賢明だ。
すると、いきなり菊池の手のひらが太腿におかれた。菊池がカウンターの下で、このままいてくれと合図してきたのだ。
黒と菊池のふたりは、カウンターを挟んで眼だけで会話をした。
ふたりの間には、何らかの合意が取り交わされたようだ。
どちらからともなく口元がほころんだ。
「こちらのお客さんにはご遠慮していただいては?」
黒はカズに向けて顎をしゃくった。
すかさず、菊池が黒を制した。
「いいんだ。カズはわたしと同じムジナなんだ。これからカズを含めた三人の話し合いとなる」
黒が疑いの眼をカズに向けてきた。
「カズ。おまえ、なんのことかわかっているのか?」
バッグのなかの現ナマは、菊池がここにいることを黒に納得させる何かがあるのだろう。また、そのいっぽうで、この先起こることを第三者には見せたくない、そんな気持ちが黒にはあるのだろう。
カズは平静を装っているが、事の成り行きに驚いている。この先、なにが起こるかわかっていないのだ。
薄闇のなかで、黒はてかるカウンターを挟んで、カズが取引に邪魔にならない相手であるかをいぶかしんでいる。
カズはうかつにしゃべらないほうがいいと考え、菊池に目配せした。
菊池は黒に向かって、
「いった通りだ。カズもここにいる」
とだけ加えた。
黒は歪んだ笑みをつくると、その先を続けてくれないか、と菊池にうながした。
薄笑いを浮かべて菊池は押し黙った。
黒はそれを見て、いったん間合いを見計らおうというのか、菊池とカズのグラスを新しいものにした。
そして自分用のグラスもつくった。
喉仏を隆起させると、菊池は液体を胃袋に流した。
グラスを置くと、黒の胸元あたりに視線を置く。話が再開した。
「わたしの妻はすべてを話してくれたよ」
カズは横で話す菊池に倣って、眼を伏せがちんしていた。そのとき、黒がどんな表情をしていたかは、はっきりとはしない。たいてい、陰気な笑みを浮かべていたのだろう。
菊池の話は時として途切れる。
「妻は言った……。あなたに女が必要なように……」
店のなかは夜のしじまのように静まり返っている。
黒とカズは次の言葉を待った。
菊池はまるで詩を朗読しているかのようだった。ひとつひとつの言葉に悲しみがこもっていた。
「自分には薬が必要だって」
薄暗い店内に。何度目の沈黙が流れた。
菊池はひとつ大きく息を吐くと、今度は顔を上げて、衿をはだけた黒の胸元を見た。
今度は一転して、堰を切ったように話し出した。
「わたしが仕事と女で、ほとんど家にいないことも原因だった……。妻が薬をはじめたきっかけは、時間がありすぎたからだろう。何にも拘束されもせず、自分だけの時間を持て余していた。そのことで生活にハリが持てなかったのだろう。わたしが家に帰ったときは、議員の妻を装うが、それ以外の生活は乱れていた。哀れなことに……、知り合いから勧められるままに手を染めてしまった。……家のなかからビニール袋と注射器も出てきた」
カウンターの向こう側で、黒はベストのポケットに手を入れると、煙草をとりだした。きざな手つきで箱を揺すると、煙草の先端を箱から覗かせた。
菊池の前に差し出した。
黒の眼を見ようとしない。
差し出された煙草を一本抜き取ると、
「わたしは普段吸わないのだが……」
そう答えて、黒が差し出すライターから火をもらった。
黒がカズのほうにも煙草を差し出した。
「おれは愛用のものがある」
カズはカウンターにおいたラッキーストライクを口にくわえた。
「おれも失礼させていただくぜ」
黒の顔つきは変わっていた。素に戻っていたとでもいおうか。眉間に皺をよせ、目つきも鋭かった。面の皮を何枚も重ねたように顔の表情がふてぶてしくなり、マスターからすっかり薬の売人に変わっていた。
三人の煙で、店内は紫煙で薄雲に包まれた。
カズはふたりに視線を合わせないように、棚に並べられた洋酒のボトルをながめた。菊池のことを考えた。
いまの一言で、菊池は、普段、煙草を吸っていなことがわかった。
では、二人、会う約束をしたとき、電話の向こうで菊池が鳴らしていた金属音とは? ジッポーのライターではないかもしれない……。菊池は嘘をついた……。
疲れたのだろうか?
菊池からは一瞬の勢いは消えていた。今度は途切れ途切れに、思い出したように話す。
「わたしは薬のことを知って、妻を責めた。幾度も手をあげた。そして、暴力、虐待のすえ、妻からその入手先を吐かせた」
ここにきて、菊池は一旦押し黙った。いやな沈黙が店内を支配する。菊池はひとつ重苦しい息を吐いた。
「……それをいったあと……、妻はビルから飛び降りて自殺した。遺書には市会議員である、わたしに対して泥を塗った、取り返しのつかない迷惑をかけた、と書かれていた」
黒はひとつ鼻で溜息をついた。
「それはお気の毒なことをしたね。入手先のほうは聞いたのですか?」
丁寧な言葉で、菊池を睨みつけた。
カズはふたりのやり取りを聞き、いたたまれなくなった。グラスをいっきに空け、音を立ててカウンターに置いた。
乾いた音が店中に響いた。まるで池にはった氷を割ったときのようだった。
黒は菊池から目をそらさずに、機械的にカズのグラスにワイルドターキーを注いだ。
ふたりのやり取りのかたわらでカズは辛い記憶を蘇らせていた。五年前に離婚した妻より、もうひとつ前の女の話だ。
大学からつき合いのあった裕子という女がいた。
大学を卒業したカズは警察官になり、仕事は順調で、交番勤務から始まり、四年後には県警の刑事となった。いっぽうの裕子は中堅商社の事務員として働いていた。
二十八歳になると、ふたりは婚約し、半年後には結婚式と、家庭を持つことに希望を抱いた。
昼夜かまわず仕事が入る警察官のカズを支えるため、裕子は商社を辞めた。
結婚式の準備も進み、カズの職場である県警からの出席者も固まり、あとは挙式を迎えるだけとなっていた。
そのやさきに悲劇が起こった。
裕子がビルから投身自殺をしたのだ。
カズあてに遺書も残されていた。
裕子は商社時代に遊び仲間に誘われ、薬の味を覚えていたのだ。辞めようと思っても、薬から逃れられない。そんな自分は警察官であるカズにとっては害虫でしかない。迷惑がかかるから自ら命を絶つと記されていた。
カズは裕子を失った悲しみに絶望した。
それとともに、自分が警察官である立場をも考えた。すでに家族同然の婚約者が麻薬中毒者であったことは、警察官であるカズにも責任がある。
もはや警察官ではいられないと考え、年齢的に受験資格のある郵便配達員の試験を受けて仕事を変えた。そして今にいたるのだ。
カズは二度と裕子のような悲劇が起こらないことを願い続けている。それなのに、いま眼の前で同じことが繰り返されている。菊池の女房も薬で自殺した。
黒の店に入った当初は菊池のようすから、自分は店を出たようがよいのかとも考えていたが、そんな気持ちはとっくに失せていた。
カズは、裕子のこと、菊池の妻と、ふたりの女の悲劇を考えると、怒りで自分を抑えつけられなくなった。
「くそっ!」
カウンターの間仕切り板を靴先で思いっきり蹴りつけた!
店内に乾いた衝突音が響き渡った。
( 続く )




