酒場での黒と菊池
酔った菊池は、次第に黒に話しかけるようになる。
13
黒がちょうどグラスを洗っているときだった。
菊池は頃合いを見計らったように、まじまじと黒を見た。
暗い店の照明のもとで、黒のその姿は、隠された人物像を浮かび上がらせるようだった。
「マスター」
菊池が話しかけると、黒は水洗いをする手を止めた。
「先月、わたしの妻がビルから飛び降り自殺したことは知っているね」
黒は手元を見たままこたえた。
「お気の毒なことをしましたね。わたしは天涯孤独の身で女房も持ったことはありませんが、菊池さんの気持ちを思うと何と言ってよいかわかりません」
当たり障りのないようにと、選んだ言葉なのだろう。
「聞いてよいものかどうか……、何かご事情でもあったのでしょうか?」
黒の問いかけに菊池はこたえた。
「わたしが殺したようなものだ」
苦しそうな声だった。
カズは肩をすぼめながら、隣にいる同級生の横顔を覗いた。ほんの数か月前までは、市役所が配布する市議会ニュースで、すました紳士として映っていた菊池だが、いまは憔悴を隠し切れないでいた。
いっぽうの黒は、隠そうとしても隠し切れない、裏稼業で生きる人間特有の匂いを醸し出していた。警察も務めたことのある、カズにはその素顔が分かった。
何気ない素振りのなかに、時として、人を破滅させることを悦ぶような嗜虐さを見せる。
カウンターに乾いた音が響いた。ふたりぶんのワイルドターキーの入ったグラスを黒は並べた。
「どうぞ。美味いウィスキーでも飲んでください」
菊池は黙ってグラスを手に取ると、眼を伏せたままいっきに飲みほした。黒への当てつけのように、非礼とも思われる音を立てて、氷だけになったグラスをカウンターに置いた。
「おかわりですね」
黒は慣れた手つきで菊池のグラスを変え、ワイルドターキーを注いだ。いっぽうの、カズはグラスをゆっくり傾けた。
「ボトルを入れていただいたほうがお得ですが」
菊池の飲みかたを見た黒が勧めた。
すると、いきなり店にドスをきかせたような声が響いた。
「余計なことをいうな!」
菊池の声音が一変した。
好きでこの酒場に入ったくせに、この酒場にいることへの嫌悪感が出ていた。
育ちのよい菊池が声音を変えたとしても、黒からしたら子ども騙しのようなものだろう。
「失礼しました。ゆっくりとお味わいください」
軽く頭を下げていなした。
「妻は、『わたしが殺したようなものだ』、先ほどわたしはこういった。マスター、あんたにはその意味がわかるだろう?」
黒めがけて、菊池が言葉の攻撃をしかけているのは明らかだ。
「なんのことだか……。わかりかねますが」
菊池から目をそらしたまま、黒は水場の作業を進めた。
平静をよそおいながらも、その頬は防衛本能でこわばっていた。
カズからしたら、菊池が黒にからみはじめた理由がわからない。
ただ、万が一、この場で乱闘騒ぎになったら、菊池からは見ていろとだけいわれているが、そこは無視して止めに入るつもりだ。
菊池がひと呼吸おいた。
今度は一転して身の上を話しだした。
「自殺する少し前から、妻のようすがおかしくなってねぇ。行き場所もいわずに、無断で昼も夜も外出するようになったんだ。そんな妻を見るにつけ、わたしのほうも、たまの休みのときに、家にいても落ち着かなくなってねぇ……。ふたりの距離は離れるいっぽうだった。そんなことが起こるとは週刊誌の世界だけだと思っていたんだよ……」
黒は先ほどまでは横を見ていたが、今は、カウンターを挟んで、菊池の前に立っていた。
カズから見たら、黒のベストを着たその立ち姿は、まるで悪意に満ちた神父が立っているようなものだ。
菊池に向ける眼は冷ややかだ。
「菊池さん。よかったら、もう少しわかるように話していただけませんか? こんなことを聞いてはなんですが、奥さんは浮気でもしていたのですか?」
その唇にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
菊池は、自嘲するような笑いを浮かべると、
「わたしにも女がいたから、妻との関係が疎遠となっていたのは確かだ。だが、妻とは別れる気などいっさいなかったんだ。いま思い返すと、わたしは妻に言いすぎた……。自殺する少し前に、妻のようすがおかしく、そのうえ外出したいというので、わたしは妻を罵倒しながら、無理に引きとめたんだよ。そしたら、妻は狂ったように、わたしが握った腕をふりほどこうともがき、こう言った。あなたは女と遊んでいてもいいから、わたしを自由にさせて、と」
黒はしばらく黙り込んだのち、菊池に話を合わせた。
「男と女がこじれたときには色々ありますよ。うちに来るお客さんでも、この場では話せないほどのひどい話がありますよ」
黒は菊池の意図をさぐるように、ゆっくりとグラスにワイルドターキーを注いだ。
「今日はぞんぶんに飲んでくださいよ。これからはうちの常連になってもらいたいですしね」
「わたしもそのつもりで来たんだよ」
菊池は足元に置いていたビジネスバッグを持ち上げると、カズとは反対側の、隣の空いた止まり木にのせた。
黒のほうは、菊池が早々と店から出ようとしている、と思ったようで
「菊池さん。もう少しお話をしていったらどうですか……」
と話を促した。
もっと店でゆっくりして、金を落としていけと。
( 続く )




