Floating
冷えた空気に頬を撫でられた。覚醒の瞬間の意識はやけにはっきりとしていて、隣に温もりがないことにはすぐに気がついた。ぼやけた視界の隅ではカーテンが風になびいている。窓は開け放たれていた。
また煙草でも吸ってるのかな。
もうすぐ四月とはいえ、まだ朝は冷える。スマホの画面を見ると時刻は六時を過ぎたところ。休日なのに早起きなんて私からしたらあり得ない。あいつは人じゃないんだろうか。
肌にまとわりつく冷気を振り払うように立ち上がると、昨夜床にばらまいた衣類を手早く身につけた。
「朝っぱらから体に悪いよ」
苦い煙を吐き出すその背中にそう言ってやるつもりだったけれど、その言葉は途中で飲み込んだ。宙に浮いているのは白い靄なんかではなく、虹色の光を帯びる透明な丸。
「シャボン玉……?」
振り返った彼が持っていたそれは、乳酸菌飲料の容器と小さなストロー。
「どうしたの、それ」
「作ったんだよ。水と食器用洗剤を混ぜただけ。でも手洗いせっけんより頑丈にできるんだ。……どう?」
差し出された容器と、恋人の顔を交互に見比べる。たまにこういう幼い遊びを気まぐれしたがる、可愛い人。それに付き合ってやるのは、たまには童心に返ってみるのも悪くないから、それだけ。
「めちゃくちゃ大きいの作ってやるもんね」
「できるもんならどうぞ?」
奪い取ったその容器は、思っていた以上にずっしりとしていた。
「多すぎない?」
「洗剤と水の黄金比に苦戦した」
「……でも、この量はさすがに飽きるでしょ」
「じゃあ先に飽きた方が負けってことで」
「そうやって何でも勝負にしたがるの、ガキっぽいよ」
そうは言いつつも内心ガキらしく浮かれていたのはこちらの方だ。くだらなくて他愛のない時間を過ごせることが、これ以上ない幸せだった。
頬が緩んでいるのを悟られたくなくて、ごまかそうとストローを口元へ運んだ、そのとき。頬に手が添えられ、「え」と言葉がこぼれた。その行為の先を予想する隙もなく、強引に引き寄せられた末にふたりの唇が重なった。
驚きはしたもののそれを抵抗する理由はない……けれど。軽い音を立てて唇が離れた瞬間、その鼻をつまんでやった。
「ン!?」
「びっくりしたじゃん!」
「コメフ……」
ごめん、と言ったのか。聞き取りにくいのも不便なので手を離した。
「下手したら洗剤飲んじゃってたかもよ」
「そんときは吸い出してあげるから。大丈夫」
「またふざけたこと言って……」
「はいはい。そんなことよりシャボン玉、早く」
お、面倒くさそうな声だ。
「もう飽きてない? 私の勝ちかな」
「飽きてないし。腹減ったから早く終わらないかな、と思っただけ」
いいからさっさとやれと促され、私は液を含ませたストローを咥えた。
「間接キスだ」
おちょくる声は気にしない。試しに勢いよく息を吹き込む。
細長い筒の中から、ぽぽぽ、と音を立てながら出てきた小さな丸たち。けれど懐かしさに心を躍らせる暇はなかった。ストローの先から旅立った丸たちは遠くまで飛ぶことなく、重力に従ってベランダの地面に吸い込まれていった。
「え、しょぼ」
そう呟くと、隣で盛大な笑い声。ムカついたので彼の右足を思いきり踏んづけた。愉快そうな声が悲鳴に代わり、足元へ落ちていく。
「ってか、水分多くない? これ本当に黄金比?」
「……黄金比に苦戦したとは言ったけど、黄金比になったとは言ってないよ」
まんまと騙された。
「こんなのしょぼい玉じゃん……」
「でもちゃんと作れるよ。ゆっくり吹いて」
頭上まで戻ってきた声の主は、またけらけらと笑う。顔面に吹きかけてやろうかとも思ったけれど、危険なのでやめておいた。大きく息を吸って、いざ吹こう、としたそのとき。
「俺、禁煙してるんだ」
唐突な話題転換に動揺し、また一気に吹きこんでしまった。威勢よく飛び出した小さな玉たちが地面に吸い込まれ、シミへと変わっていく。
「え、どうしたの、急に」
「いや……。よくお前に煙たいとか匂いが付いたって文句言われるし? いい機会かなって」
「……それって、本当に私のため?」
こんなこと、尋ねない方がいいとはわかっていた。
思っていた通り、彼はほんの一瞬だけ困った顔をしてから、笑った。
「そうだよ」
あ、嘘だな。
そう気づいてしまったから、もう踏み込まない。これ以上重い女にはなりたくない。ふわふわと浮かんで生きる彼にとって邪魔な存在になりたくない。
私は人差し指と中指でストローを支え、口元に寄せた。
「じゃあ代わりに、シャボン玉吸えばいいよ」
「それは吸っちゃ駄目でしょ、吹かないと」
いいのいいの、と適当に流して、今度は慎重にストローの中へ息を吐きだした。
まぶたが重くて、目を瞑ったまま腕を伸ばし、隣の温もりを探す。それでも、そこには何もなく。夕日の色に染まったシーツが波立つだけだった。
――そっか、行っちゃったか。
腕を布団の中へ引き戻す。ごろんと寝返りを打って、もうひと眠りの体勢へ。
次はいつだろうか。この掛け布団がタオルケットになって、それからまたこの掛け布団に戻って。もしかしたら、湯たんぽを使う頃かもしれない。彼はまた何の前触れもなく、ふらりと現れるんだろう。
一人分の温もりの中で、私は再び意識を手放した。
***
仕事を終えた日の朝。たまに直属の後輩と訪れる喫茶店は、俺にとって蠱惑的だ。コーヒーの匂いに混じり、漂う煙たい空気。この鬱蒼とした気持ちが向かいの後輩に気づかれないよう、目線をそらして水を口に含む。
――あー、吸いたい。
「先輩、ガキでもできたんですか?」
その問いに噎せかけたもののなんとか水を飲み込んで、醜態をさらすことだけは回避した。
尋ねた本人はなんとなく程度の好奇心だったらしい。視線の先は俺ではなくモーニングのセットメニュー表へ向いている。
「いや、できてないけど」
「そうなんですか? 最近はヤニ吸ってるとこ見ないんで、てっきり」
「ボスにやめろって言われたから、仕方なく禁煙してるんだよ」
立派に卒業できたわけではない。匂いを場に残したり、相手に覚えられたりすると厄介だと言われたからそれに従っているまで。心は今でもニコチンを欲している。
「俺、アイスコーヒーとAセット」
それにしても。俺たちの職業上、子どもどころか結婚すらできないことをこいつはわかってんのか……なんて言うのは野暮だろう。それは愛する人ができてから、こいつが身をもって知ることだ。
「オレもおんなじのにしよーっと」
後輩が注文をしている間に、スマホでニュースサイトをスクロールする。目当ての記事を見つけ終える頃には、注文は完了していた。俺は後輩に向けてスマホを差し出す。
「え、もうニュースになってるんですか?」
かじりつくようにスマホをのぞき込むが、その記事を読み終えると、ホッとした表情をこちらへ見せた。
「オレら、この記者より詳しいこと書けちゃいますね」
夜中のコンビニに押し入った強盗についての短い記事。コンビニの場所、防犯カメラのボケた画像、被害額、店員は無傷であること、そして犯人は逃走中であるということ。
「一瞬めちゃくちゃ焦りましたけど。ゆっくり食べてから戻っても問題なさそうですね」
ほどなくして、ホットコーヒーとアイスコーヒー、それからジャムパンとゆで卵、サラダが二セット到着した。
「こんな暑いのにホットコーヒー飲むんだな」
砂糖をたっぷりといれた後輩は、へらりと笑った。
「仕事の後って腹下しやすいんですよね。だからオレ、暑くてもホット飲むんですよ」
そう告白する手がわずかに震えていることに気が付いた。
こいつはまだ、新品のような匂いを纏っている。
「……煙草」
「え?」
「煙草吸えば自分の匂いが消えて、バレることなく何もかも何とかなる気がした。俺は、そうだった」
「……お守り的な、ジンクス的なやつですか?」
「強いて言うならルーティン的なやつだな」
後輩は、それが言いたかったんです、と膝を叩いた。
「でも先輩。煙草は駄目なんですよね?」
「そうなんだよなあ」
どうするかねえ、とつぶやきながら包装されたストローを取り出すと、ふと数ヵ月前の彼女の姿が浮かんだ。白く細長い筒を人差し指と中指で挟み、口元へ運ぶ。
「代わりに、シャボン玉を吸えばいいんじゃないか」
「何言ってるんですか、先輩」
「何言ってるんだろうな、俺」
慎重に飛んだって、愛した人と共に飛び続けることなんてできやしない。くっつけば、はじけて消える。風が吹けば、あっけなく飛ばされる。もう彼女に会うべきじゃない。彼女を愛し続けるべきじゃない。
そう理解しきっているはずなのに、俺はずっと彼女の元へ飛んで行きたくて仕方がない。
数年前、部誌に掲載させていただいたものを一部加筆修正しました。
Floatingとは浮かんでいる、固定されないという意味なので、登場人物全員にその言葉が当てはまるように書いたつもりです。
蛇足ですが、以下、タイトルと登場人物がリンクするポイントを解説していきます。
彼(先輩)は、彼女の元へ留まらずふらふらとしていること。強盗の常習犯だが警察に捕まらないこと。
後輩は、犯罪に慣れることのできない新人気分であること。
そして『彼女』は、日常に固定された一般人だけれど、いつ来るかもわからない彼を待つ不安定な状況であること。
彼らに名前がないのも、固定されない、あやふやな存在にするため……なんて深い理由ではありません。単に名前を考えるのが面倒だっただけです。
ここまでお付き合いいただき、心から感謝申し上げます。