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第8話「デルポイの神殿へ」

 シシュポスが神聖隊に入ってから二週間ほど経過した時の事である。


 テーバイに残留する神聖隊の新人兵士達が集められた。


 集まった兵士達を前に、残留兵士の指揮官であるディオスドトスが訓辞を述べていた。ディオスドトスはテーバイの名士層出身であるが、幼い頃から愛を誓い合った恋人と共に神聖隊に入隊して活躍していた。しかし、その恋人は戦いに倒れ、残されたディオスドトスは神聖隊の第一線から退くことになった。だが、彼は今でもテーバイの有力者として神聖隊を後援しており、最近は神聖隊の残留者達の指揮をとっている。


 神聖隊は愛し合う男達だけで構成された軍隊だ。神聖隊はテーバイ軍の一部でありその従属関係にあるのだが、その特殊性から扱いは非常に難しい。なので、ディオスドトスの様に元神聖隊で戦っていた男は、この様な役目にうってつけなのだ。


 まだ二十代後半のディオスドトスは、鍛え上げられた肉体と彫の深い美貌をもっており、更にはテーバイのポリスの有力者なのだ。しかもまだ独身である。テーバイの女性たちの関心に上らない訳がない。


 だが、彼は戦死した恋人の事を今でも想っているため、決して女性を近づける事が無い。彼の恋人が戦死した戦いでは、その怒りから敵対するスパルタ兵を一人で十人も切り捨てたと言い伝えられている。


 愛の力を戦力の源とする神聖隊であるが、ここまでそれを体現した人物は珍しい。なので、曲者ぞろいの神聖隊の兵士達も、ディオスドトスの言う事は大人しく聞くのである。


「これまで述べてきた通り、君たちの訓練の成果は素晴らしいものであり、私も元神聖隊の一員として非常に鼻が高い。これなら、もうすぐ戦闘訓練に入っても問題が無いと考えている」


「おお~!」


 ディオスドトスの訓示に、神聖隊の兵士達から歓声が上がる。これまで彼らは地味な筋力トレーニングや駆け足しかしてこなかった。兵士を志したのなら、やはり武器を扱った戦闘訓練をやってみたかったのである。恋人と共に寝泊まりし、共に汗を流す生活も悪くは無いのだが、男の本能としてそれだけでは満たされないものもあるのだ。


「そして、これまでの訓練の集大成として、長距離走大会を開催したいと思う。目的地までペアで走り、二人とも到着した時点でゴールとなる」


「それだと、ドリコス走で代表候補のテセウスが有利じゃないですか?」


「最後まで聞け」


 明らかに有利な者がいるために不満の声が上がるが、ディオスドトスは静かにその声を抑えた。


「コースはこのテーバイからデルポイの神殿までだ。ドリコス走とは訳が違うぞ」


「デルポイの神殿までだって?」


「一体どれだけ遠いんだ?」


 テーバイからデルポイの神殿まで普通に歩けば数日かかる。それを知っている神聖隊の兵士達は不安げな表情を浮かべ、ひそひそと話し始めた。それを見ていたディオスドトスはいたずらっぽく笑い、高らかに述べた。


「教えてやろう。デルポイの神殿まではここからおおよそ470スタディオンだ。20スタディオンのドリコス走とは勝手が違うぞ」


「よ、470?」


「そんなに走れるのか?」


 彼らが驚くのも無理も無い。470スタディオンを現代の距離に換算したならば、約90kmである。長距離走の種目として知られるマラソンの2倍近い。そして、彼ら古代ギリシア人が長距離走としてオリュンピア祭で実施するドリコス走は、約3.8kmなのだ。これだけの長距離を走る競技など、彼らの常識を超えているのだ。


「そんなに長く走る事に意味があるんですか?」


「そうですよ、戦場でそんなに走る事なんてまずありませんよ」


 常識外れの長距離走の開催に、流石の神聖隊の兵士達からも不満が口々に上る。確かに、戦場において何十kmも走る事は無い。古代ギリシアにおける主な戦法である重装歩兵による密集隊形は、その密集隊形という特徴によりそれほど素早く機動する事はない。密着した隊形を組んだまま走る事は難しいのだ。そのため戦場に到着して隊形を組んだ後は、じりじりと敵の陣形にゆっくり前進していくのが基本だ。


 過去にはペルシアの様に弓を多用する軍隊と戦う事もあり、その時は弓の間合いを一気に潰すために走って近づいた例もあるのだが、それは本の数百メートルに過ぎない。


「黙れ!」


 不満を口にする兵士達を、ディオスドトスは雷霆の如き一喝で静まりかえらせた。


「およそ百年前、マラトンの戦いでアテナイがペルシアに勝利した時、その勝利をアテナイの兵士が200スタディオン以上走ってアテナイ市民に伝え、その直後に死んだと言う。これだけ走る事は十分にありえる」


「しかし、それは戦闘以外の場面で、馬を使うとか他のやり方もあるのでは?」


 ディオスドトスの主張に反論もあった。指揮官の言う事に対しても、論理的に疑問があるのならそれを指摘するのは、民主制の祖たるギリシアらしい行動と言えるだろう。


「それはそうかもしれない。しかし、馬の数は限られている。もしも仲間が遠く離れた戦場で戦っているのを知った時、それを救援しに行くとしたらどうする? 数少ない馬で行けるだけの者しか助けに行かず、残りの者はのんびりと向かうのか?」


「それは……」


「覚えておけ、本当に重要な場面において、頼みになるのは自分の肉体だけであると言う事を。そして、それが頼りにならなかった時、それを贖うのは自分の大切な者なのかもしれないと言う事もな」


 そこまで言ったディオスドトスは黙り込んだ。


 ここまで聞いていた神聖隊の兵士達は、ディオスドトスは恋人を守れなかったのだろうと察した。おそらく、離れた場所で行動している時に戦いが起き、ディオスドトスは恋人が戦死するまでにたどり着く事が出来なかったのだ。


 愛する者と肩を並べて戦う事に喜びを見出す神聖隊の兵士達だが、一緒に戦うことすら出来なかったのは、どれだけ悲しい事なのだろう。


 恋人が自分と離れている時に殺されてしまう事を想像した彼らは、皆一様に黙り込んだ。中には涙を流している者もいる。


「皆、分かってくれたようだな。それでは明日、日の出とともに競技を開始する。今日は統制の訓練は実施しない。ゆっくり休むなり、作戦を立てるなり、思う存分準備してくれ」


 そう言い終えるとディオスドトスはその場を立ち去った。ディオスドトスが姿を消して暫くすると、辺りが騒がしくなる。作戦を考えているのか地面に枝で何かを描いている者や、気が早く駆け足出発する者などであふれかえる。


 そんな中、シシュポスとデミトリアスはすぐに自分たちの部屋に戻った。


「さて、この戦い、俺とお前で優勝してやろう。皆の度肝を抜いてやるぞ」


「うん。そうだね!」


 この二週間、シシュポスはデミトリアスと長距離走の対策を練って来た。その成果を発揮する時が来たのだった。

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