第6話「古代ギリシアの腐女子」
デミトリアスのマッサージやストレッチのおかげか、昨日の激しいトレーニングにも関わらず、シシュポスの目覚めは爽快だった。
以前長旅で長距離歩いたりした時は、昨日のトレーニングと比較したならば遥かに低強度のものであったが全身に激しい疲労が残り、朝に起きて来る気力さえ失われていた。
その経験と比べれば、確かに筋肉痛は残っているのだがそれは気にならず、かえって良い刺激とさえ感じる事が出来た。
全裸にされた挙句全身に香油を塗られ、あちこちを揉みしだかれたり、股などを広げられて恥ずかしい思いをした甲斐はあったというものだ。
痛みは残っているが、破壊された筋肉は更なる力を得て復活したようだ。ストレッチによる柔軟性の向上と合わせて体が軽い。これなら本日のトレーニングは昨日に比べて、激しいものに耐えられるに違いない。昨日は早々にへばってしまったのだ。その様な情けない振る舞いをしては、偽装カップルとしてこの神聖隊に入隊する事に協力してくれたデミトリアスに申し訳ない。
シシュポスは他の神聖隊の兵士達と違って同性愛者ではないために、パートナーであるデミトリアスに愛情を抱いている訳ではないのだが、それでも彼の面目を潰すような事はしたくないと思い始めていた。
そして、デミトリアスの面目を潰さない様にするための第一歩は、シシュポスが神聖隊の訓練に耐えられる事である。そのためには栄養補給が極めて重要であるため、本来小食のシシュポスではあったが、朝食をたくさん平らげる事を決意して、食堂の列に並んだ。
順番がきたシシュポスは、大釜から麦粥をよそう給仕の若い女性に椀を渡すと、大盛りにしてくれることを頼み、オリンポス山の如く高々と盛られた椀を受け取って席に着いた。
「よお。気合が入ってるじゃないか。昨日までは小食だったのに」
シシュポスが席についた直後、対面の席にデミトリアスが座って声をかけてきた。彼もシシュポスと同じくらい山と盛られた椀を手にしている。
「しっかり食べないと、激しい訓練についていけないからね」
「感心感心、その期待に応えて昨日よりもハードにいくから覚悟しろよ」
「うん。なるべく早く皆に追いついてみせるよ」
「そうだな……今日の訓練でまた体中が痛くなるだろうが、その時はまたマッサージしてやるさ」
「……」
「どうした?」
「な、なんでもないよ!」
訝し気に問いかけるデミトリアスを誤魔化す様に、シシュポスは麦粥をがっつき始めた。昨日風呂場で体を洗われたり、ベットの上であられもない姿でマッサージやストレッチをした事を思い出し、それをかき消すためだ。
その後淡々と食事を進め、朝食のほとんどを平らげたシシュポスはある事に気付き、デミトリアスに尋ねた。
「そういえば、あの給仕の人、若い女性だけど良いのかな?」
「良いのかなってのは、どういう事だ?」
答えるデミトリアスは既に食べ終わり、ゆっくりと水をすすっている。
「ほら、こういう若い男ばかりの集団の中に、女性がいるってのは……」
「ああ、なるほどね。普通だと問題があるだろうな」
シシュポスの言わんとしている事に気付いたデミトリアスは、ポンと手を打った。
若い男、それも激しく体を動かして肉体的・精神的に披露して来ると、性欲の発散の場を求めてしまうものだ。この時にそれを己の理性で鎮めるか、右手で鎮めるかは人それぞれだが、若い女性に向く者も少なくはない。特に兵士達というのは戦闘訓練で蛮性・獣性を剝き出しにされるものだ。一般の職業の男性に比べてその様な傾向にあるといってもおかしくは無い。
となれば、この神聖隊の敷地内で若い女性が働いていたとして、何か問題が起きるのではないかというシシュポスの疑問は当然の事である。
「シシュポス、考えてみろ。この神聖隊は全員が同性愛者、しかもカップルなんだぞ」
「あ……」
「ほとんどの者にとっては女性は恋愛の対象じゃない。まあ中には男も女も両方に興味がある奴もいるだろうが、恋人の目の前で浮気する奴がいるか? 確かに世の中にはそういう例もあるかもしれないが、俺達は戦場に出るのが仕事だ。仲間を信頼し、命を預けて戦わなければならないのに、その仲間を自分が裏切っていたとしたら?」
「怖くて戦えないね」
「そうだな。痴情のもつれのせいで戦場で仲間に裏切られ、それで死ぬなんて誰もしたくないだろうさ」
このことは、神聖隊の戦場における規律の正しさにも繋がって来る。この時代のギリシアの各ポリスの軍隊は、市民によって成り立っている。これは自らのポリスは自らの手で守るという誇りによるもので、これがペルシアの様な大国に勝利する要因の一つになっている。
しかし、「自らのポリスを自らの手で守るために集まった市民兵」と言う事は、報酬も特にないということになる。武装は自弁で揃えなければならないし、報酬は故郷や生活基盤が守られたと言う事と、誇りだけである。
誇りだけが報酬と言うのは美しい姿だが、これが実際に戦場に出るとなると、ややもすると略奪行為にはしってしまう事になりかねない。というかなってしまうのだ。
金目の貴重品を手土産に持ち去ったり、若い女性に暴行を加えたりすることは数知れない。
この様な行為をすると、その統制の乱れの隙を突かれて敗北してしまったり、戦争終結後の外交関係修復が困難になる。だから軍を率いる上層部は本当は略奪などさせたくは無いのだが、これは上層部が豊かな農地を所有していたり、他のポリスと交易をして儲けているからの事である。要は、略奪しなくても困っていないし、交易で富を得ている者は今後の商売に差し障りが出ない様にしたいのだ。
だが、中流階級以下はそうはいかない事情があるのは理解しているし、彼らにへそを曲げられては戦場においても、また、選挙においても困るため、結果として略奪は見過ごされるのである。
その点、神聖隊は違う。
武装は支給され、給金も出ているので特に略奪の必要性が感じていない。
更に、先程記述した様に、神聖隊の兵士は女性に興味が無いので暴行にはしる危険性が無い。もしも女に興味がある者がいたとしても、その様な行為をした場合、恋人の兵士に嫉妬心から刺し殺されるであろうことは疑いが無い。
「てなわけで、給金は良いし、身の危険も無いからこの神聖隊でのまかないや清掃作業は、このテーバイの女性に人気の職業なんだとさ」
「へえ~」
「あと、それに……」
そこまで言ったデミトリアスは、声を潜めて顔をシシュポスに近づけた。
「女性の中には、男同士の恋人たちを見るのが好きな、そんな嗜好の娘達がいるそうだ。そういう娘達に特に人気なんだってさ」
「へ、へえ……」
デミトリアスにそう囁かれたシシュポスは、ふと給仕の女性の方を目にした。
その女性はちょうどシシュポスの方を見ており、目が合ってしまう。ほんの一瞬だけ目を合わせると、その若い娘は顔を赤らめ、目をそらしてしまった。
シシュポスはどこか女性的だが良く整った顔立ちであり、若い女性にモテそうな雰囲気がある。しかし、今の娘の雰囲気はシシュポスに好意があるとかそういう事ではなく、シシュポスとデミトリアスが顔を近づけたのを見ての反応だろう。
古代ギリシアにも腐女子は存在したのだ。
変わった嗜好の人間もいるものだと思ったシシュポスだったが、すぐに本日の訓練に気持ちを切り替えた。余計な事を考えていては耐えきる事は出来ないだろう。
麦粥の残りを胃袋に流し込むと席を立ち、訓練の準備に向かった。