第4話「みんなでお風呂」
古代西洋文明の風呂と言えばローマの大衆浴場が有名である。
しかし、古代ギリシアにも風呂は存在する。ローマの風呂文化は、ギリシア文明の影響を受けたものだとも言われている。流石ローマ文化の先輩格であると言うところだ。
ただ、違う点もある。ローマの風呂が温浴なのに対し、ギリシアの風呂は冷浴なのだ。これには、ギリシアにおける風呂に求められる役割が影響している。
古代ギリシアの風呂は、運動の後の汗を流すためのものなのだ。実際設置されているのは運動場が多い。と言う訳で火照った体を冷やすために、水が浴槽に張られているのである。
全裸で運動していたため、神聖隊の男達の体のあちこちには砂や埃が付着している。桶に水を汲んで頭から被り、ヘラで汚れをこそぎ落として身を清めていく。
苦しい訓練の後に待つ楽しいひと時である。彼らはわいわいと騒ぎ、体の疲れを心からも癒している。恋人に見られながらの訓練なので、どれだけきつくても弱音を吐かず、笑顔で威勢よくトレーニングに励んだ彼らだが、決して苦しくない訳ではないのだ。
そして、シシュポスは彼らからかなり遅れて浴場に到着した。デミトリアスに体力の全てを搾り取られるようにしてトレーニングに励んだため、その歩みはカメの様に遅い。
「おやおや、特例で入隊させてもらったシシュポス閣下殿は、随分と余裕の登場ですなあ」
シシュポスの行く手を阻むようにテセウスが立ちふさがり、皮肉の効いた言葉を投げかけた。
カップル以外の者であっても、同じ神聖隊に所属する者は命を預け合って戦う仲間である。本来、その団結を乱すような態度をとるのはご法度である。だが、テセウス以外の者達も、自分達のように男同士の恋人でもないのにも関わらず、入隊して来たシシュポスを快く思っていないのだろう。テセウスを咎める者は誰もいなかった。
シシュポスの目の前に立ちふさがるテセウスは、涼やかな顔立ちをしているが、その肉体はよく鍛え上げられている。分厚さはさほどでもないが、その分高密度で青銅の様な筋肉に覆われている。その様な者が前方を塞いでいるのだから、相当な圧迫感だ。普通なら気おされてしまうだろう。
まあ鍛えていなかったとしても、前方に全裸の男が立っていたら圧迫感を受けるだろうけどね。
「……どいてくれないか? 体が洗えない」
この言葉にテセウスは、ほうっ、と少し感心した様な表情を見せた。ほんのうっすらとなので、シシュポスも、他の者達もほとんどが気がつかなかった。
明確に察したのは、テセウスの恋人であるクレイトスとほんの一握りの勘のいい者ばかりだ。
シシュポスは訓練を始めたばかりで脆弱な肉体しか持っていない。しかもその前に立ちふさがるのは、鍛え抜かれた体をもつテセウスだ。普通なら委縮してしまうだろう。声に出して意思を伝える事すら難しいはずだ。更には今シシュポスは疲労困憊の状態であり、こんな時は心も弱くなるものだ。
それにもかかわらず、シシュポスは堂々と、どけと言ったのだ。並みの胆力ではない。肉体は鍛えられても、精神は中々鍛えられるものではない。そう言った意味では、戦士としての資質は十分だと言えるかもしれない。
テセウスはシシュポスの肉体的な未熟さも、神聖隊に相応しくない理由として考えていたのだが、その判断は軽率だったかもしれないと、一部評価を上方修正した。
もっとも、テセウスがシシュポスを認めない一番の理由は、シシュポスが同性愛者では無い事なので、神聖隊に相応しくないとの結論は変わっていないのだが。
なお、テセウスがシシュポスが全く気圧されていないと判断したのは、その目の力や、立ち振る舞いなどからだ。シシュポスは全身を痛めつけた結果、足元はふらついているし、目は虚ろである。
それでも、その奥底には力が籠っている事に、テセウスは気付いたのだ。
また、男が全裸の場合、その精神状態を最も表すモノが、下半身にぶら下がっている。
精神が縮こまっている時は、アレも縮こまっているものなのだ。
シシュポスのモノは、縮こまるどころか、ぬどーんとした感じで、堂々とぶらぶらしている。
男の価値は、権力、地位、名誉、筋肉、美貌など様々な指標で計られるが、モノも重要な指標である。他の指標は後天的に鍛えたり努力で獲得できるものだが、モノだけは生まれもって備えたもので勝負するしかないのであり、ある意味これが神に生まれた時点で与えられた男としての価値かもしれない。
なお、古代ギリシアにおいては、男を象徴するモノは、小さく皮の中に納まっている事が良しとされている。もし皮に納まらない様なサイズである場合、紐で皮の入り口を結んで外に出ないようにするのが文明的とされている。
文明的って何でしょうね?
そんな深遠な疑問を一瞬抱いてしまう価値観であるが、実際そうなのだからしょうがない。古代ギリシアの美しい肉体美を現した彫刻が、現代でも残っているのだが、その一部分をよく観察してみれば、ここでの記述が嘘を述べているのではないことが分かるだろう。
本当です。信じて下さい。
話を戻すが、シシュポスのモノはどちらかというと大きいサイズなので、紐で縛っている。華奢な体や女性の様な顔立ちとは似つかわしくない一面である。
「はっ! 優男のくせに股間だけは蛮族だな」
テセウスは悪態をつくと、シシュポスに道を譲った。意外と骨があるのを感じ取ったためだ。
別にサイズ競争で負けたからではない。
限界に達した足を引きずるようにして、シシュポスは浴槽に辿り着いた。
「お? よく辿り着いたな。予想よりも早かったぞ。頑張ったな」
大量の水を湛えた浴槽の前では、デミトリアスが待っていた。その顔には笑顔が浮かんでいる。その笑顔は実に無邪気であり、シシュポスが辿り着けた事を心から喜んでいるのが一目でわかる。
こうも直球でプラスの感情をぶつけられると、男性に興味の無いシシュポスであっても、その心に響いてくるものがある。こうまでも自分の事を想ってくれていたのかと。
「まだ余裕があったか。明日からもう少しトレーニングをきつくできるな」
(この、サディストめ!)
即座にシシュポスの中のデミトリアスへの評価は急転直下した。地上に降り注ぐゼウスの雷霆の如きスピードである。
「さあ。垢を落として、汗を洗い流せ。そうやって疲れを癒さないと明日からの訓練に耐えられないぞ」
そう言ったデミトリアスは、シシュポスの背中に回ると、手にしていたヘラでシシュポスの背中を搔き始めた。
「うわ! ちょっと?」
「なんだ? ちょっと強すぎたか? 優しくやってるつもりだが?」
別に痛いわけではない。強すぎもせず、弱すぎもせず、丁度良い下限でとても気持ちが良い。どことなく手慣れた感じがする。
ふと周りを見ると、男達が仲良く体を洗い合っている。恋人同士なのだから当たり前なのかもしれない。
しかし、シシュポスとデミトリアスは恋人では無いし、他人に体を洗われるのは初めての経験であるため、抵抗感があったのだが、疲労困憊な事もあり、すぐに体をその快感に委ねた。
地獄の様な訓練の後で、全身が悲鳴を上げていた状態からの快感である。その落差もあって、まるで神々の住まう天上にいるかの様な心地であった。
こうなると、デミトリアスの事が神の様に尊い存在に思えてくる。
「おい。前はお前がやるんだぞ。それともそのバルバロイみたいにデカいもんまで洗って欲しいか?」
デミトリアスのからかうような言葉に、シシュポスの感情は硬化する。やはりこの男はサディストである。シシュポスにとって神聖隊に入隊出来るように取り計らってくれたのは感謝の対象だが、それ以外はどうも好きになれない。
そんな気持ちを抱いたシシュポスだったが、しばらくの間はデミトリアスの洗体に身を委ねるしかなかったのだった。