第3話「全裸でトレーニング」
「はあっ。あぁっ。うっ!」
苦し気な喘ぎ声が、辺りに響いている。
それはいずれも若い男の声で、一人だけでなく複数であり、時に激しく、時に密やかに聞こえる。
一体何が行われているのであろうか?
それは、筋力トレーニングであった。ある者は腕立て伏せを、ある者は腹筋などをしており、激しいトレーニングにより流される汗は滝のようだ。屋外のトレーニング場なので降り注ぐ日光で汗は乾いていくが、もしも屋内のトレーニング場だったのなら雲が出来るのではないかと思えるほどである。
ナニを想像しましたか? この小説は健全な作品ですよ。猥褻なところは何もありません。
さて、この時代のギリシアにおけるトレーニングについて説明する。
古代ギリシア人の文化として、その哲学は良く知られており、現代日本の学校でも歴史や倫理等の教育で教えられている通りである。そして、ギリシア人は哲学に代表される精神面の向上を重要視していたが、それと同様に肉体的な向上もまた重要視していた。
これは、現代におけるスポーツの祭典であるオリンピックの原型が、古代ギリシアで行われていた事からも分かるだろう。
単に軍事的な訓練としての運動なら、他の民族においても珍しくない。だが、ギリシア人は単に実用的な事を求めて運動をしていたのではなく、文化的な側面からもスポーツを行っていたのだ。これは現代のスポーツにもつながる精神とも言えるだろう。
と言う訳で、ギリシア各地のポリスでは、運動場――ギムナシオンが建設される事が多く、そこでは青少年を中心に肉体の鍛錬に勤しむ事が日常風景であった。
そして、ギリシア人がスポーツをする時の服装……というか格好は、全裸であった。
やっぱりそっち方向に話がいくじゃないかと思われるかもしれませんが、古代ギリシア人が全裸でスポーツを楽しんでいたのは本当の事です。
信じて下さい。
そもそもギムナシオンの単語は、ギリシア語における「裸」を意味する「ギュムノス」に由来している。ならばここで体を鍛えている男達が真っ裸なのは当然の帰結なのである。
なお、読者の諸姉諸兄の方々は既にお気づきかと思いますが、ギムナシオンは現代における「ジム」の語源である。こんどスポーツジムに通われた時には、古代ギリシア文化に敬意を表して、全裸でトレーニングに励まれるのも良いでしょう。
まあ、捕まるでしょうが。
と言う事なので、シシュポスもペアを組むデミトリアスと一緒に、腕立て伏せに取り組んでいた。
全裸で。
「どうした? まだ二十回程度だぞ。このくらいでへばってどうする?」
「ひぃ。ひゃぁ。」
デミトリアスが発破をかけるが、シシュポスは情けない返事とも悲鳴ともつかない声を出すだけだった。
既にシシュポスがぷるぷる腕を震わせて、まともに姿勢をとる事が出来ないのと対照的に、デミトリアスは淡々と腕立て伏せの回数をこなしている。ただの腕立て伏せではない。親指のみを地面に接地したやり方だ。鍛えていない者には一回すら出来ないだろう。私は指三本までがフォームを保てる限界です。
デミトリアスの鍛錬ぶりが現れているというものだ。
「もう出来ないのか? なら、こうだ」
「わっ?」
腕を折りたたんだ状態から全く伸ばすことが出来ないシシュポスの肩を、デミトリアスががっしと掴んだ。急に肌に直接触れられて、シシュポスはビクンとする。まあ、ビクンとするだけで、既に大きく身じろぎすることすらする体力はないのだが。
「な、何を?」
「手伝ってやるのさ。さあ、力を込めて」
デミトリアスがシシュポスの体重を支える事により、腕立て伏せの負荷が減った。これにより、限界に達していたシシュポスも運動を再開できるようになる。
デミトリアスの気遣いに、シシュポスは心に温かいものを感じた。
と思ったが、すぐその様な思いは雲散霧消する。
肉体の限界を迎えて動けなくなっていたところに、補助を得たのならどうなるのか?
答えは、限界の訪れが遠ざかるのである。となると、補助が無ければ力尽きて動けなくなる代わりにやすらぎが訪れたのだが、そのような事は許されずに動き続けなければならないのだ。
限界を超えて運動を続けると言うのは中々に厳しいものだ。本当だろうかと疑問に思われる読者の方は、全速力で腕立て伏せをしてみればすぐに理解できるはずだ。一分程度で苦しくなり、二分も経てば早く終わる事を願うだろう。
それほど、本格的なトレーニングというのは苦しいものなのだ。計画的に段階を踏むことで、苦痛を軽減しつつ効果を上げることも可能ではあるのだが、シシュポスが所属した神聖隊は、軍隊である。場合によっては明日にでも命をかけた戦いに赴かなくてはならないのだ。どうしても促成栽培になるので、苦しい訓練にならざるを得ない。
ましてや敵となるのは、ギリシア世界最強と謳われるスパルタ軍なのだ。
彼らは生まれた瞬間に、素質がないと判断されたら奴隷に落とされ、そうでない者は子供のころから軍事教練を叩き込まれる。この様に、長年の訓練を重ねてきた相手に短期間の訓練で打ち勝つためには、それを上回る訓練をして行くしかない。
そして、その様な訓練に耐えられるのが、神聖隊の兵士達なのだ。
何しろ、かれらは全員がカップルである。であれば、どんなに苦しい訓練を課されたとしても、目の前に恋人がいる。
恋人に対して、苦しいトレーニングだからといってへたばるような、情けない姿を晒して平気な者がいるだろうか?
答えはノーだ。
断じてノーである。
それどころか、苦痛に打ち勝つ格好良い姿を見せようと、自ら進んで激しい訓練に臨んでいくのだ。もちろん普通なら限界に達しているはずなのだが、それを乗り越えているのだ。
と言う訳なので、筋力トレーニングに励む神聖隊のカップル達は、激しい運動をしながらも、決して苦しい様子など見せていない。むしろ笑顔を絶やさないぐらいだ。
これこそが愛の成せる業である。
であるが、残念な事に、一組だけ愛の無いペアがここに居る。
言わずと知れた、シシュポスとデミトリアスだ。
シシュポスには元々同性愛の嗜好は無いし、デミトリアスも口では一目惚れをしたと言っているが、それはシシュポスを神聖隊に入れるための名目である。
愛の無い二人ではあるが、それを補うのがデミトリアスの補助である。デミトリアスは元々運動のコーチであった。その知識と技術を活かしてシシュポスの筋力トレーニングをサポートしていく。
もちろん、愛による苦痛の緩和の出来ないシシュポスには、激痛が蓄積されていく。
(この、サディストめ!)
笑顔でシシュポスの運動を補助するデミトリアスを見ながら、心の中でそう毒づいた。本来なら未熟な自分を支えてくれている事を感謝すべきなのであるが、人間苦しい時にはその様な殊勝な考えは出来ないものなのだ。
あと、デミトリアスはシシュポスの頭の近くでしゃがみながら体を支えている。そうなると自ずとシシュポスの顔とデミトリアスの股間が近くなる。
繰り返すが、古代ギリシアにおける体操時の服装は全裸である。
ぶら下がったモノがこうも近い間合いで視界に入ってくると、同性愛の嗜好が無かったとしてもどうしても気になってくるものだ。
「ん? どうした。何か気になるものでもあるのか?」
「何でもないよ!」
「おっ? まだ余裕がありそうだな。最後の最後まで、力を出し切るまでやるからな」
まさか、「あなたのぶらさがったモノが気になります」とは言えないので、誤魔化す様に大きな声で否定したシシュポスだったが、それは藪蛇だったようだ。デミトリアスはまだまだ余裕があると判断した。
実はデミトリアスはシシュポスがナニを気にしているのか気付いているのだが、それをわざわざ口にしないだけの心遣いはあるのだ。場合によっては「しゃぶれよ」位の冗談は言っても良いのだが、シシュポスの性格上そういう発言は通じないだろうとの配慮だ。
この後、更に長い時間を腕立て伏せに費やすことになる。そして、それが終わったのもつかの間、今度はスクワットや腹筋など、別の部位を鍛えるトレーニング種目を続けて行うことになった。もちろんデミトリアスの補助により、限界を更に超えてだ。
そんなシシュポスを見る、周囲の視線は冷たいものだった。
それはそうだろう。
本来、神聖隊に入る資格が無いのにも関わらず、無理に入隊したのにも関わらず、このざまである。情けない事この上ない。
自分に対する周囲の感情は、シシュポスも理解している。普通なら訓練の厳しさと合わせて、辞めたくなったとしても不思議ではない。
しかし、シシュポスはその様な事は口にせず、情けない悲鳴を上げながらもその日の訓練をやり遂げたのであった。