第1話「同性愛者だけの軍隊」
――国家あるいは軍隊が恋する者と少年たちとで構成されることになるとしたら、彼らは恥ずべきことからいっさい手を切り、互いの目を意識して名誉を競い合うのであるから、自分たちの国家をこれ以上によく治めうる方法はほかにありえないだろうし、このような人たちが互いに手を携えて戦う場合には、たとえ人数が少なくとも、言ってみれば人類全体を相手にしてこれに打ち勝つことであろう。――プラトン著『饗宴』より
晴れ渡る青空の下、石造りの建物の前で二人の男が言い争っていた。
片方は二十を過ぎたばかりに見える青年で、建物を守るようにして扉の入り口を守るようにして立っている。彫の深い精悍な顔立ちで、その肉体は彼が守る建物の様に頑丈で、鍛え上げられている。その身に纏うのは簡素な短衣であり、惜しげも無くさらけ出した腕や太ももは陽光を反射してきらめきを放っている。
もう片方の男は、まだ成人していないだろう少年で、あどけなさの残る顔立ちは十人中七人は振り返るくらい整っている。そして、その七人の中には男も含まれる。少年愛の性向がある者なら当然その様な反応を示すし、そうでない者も惹かれてしまうだろう。そして、アテナイやスパルタ等の都市国家が勢力を競い合う、このギリシア世界においては少年愛はごく普通の事なのだ。
ただ、その美貌を損ねているのは、肌に艶が無く、髪もぼさぼさで艶が無い事だ。栄養が足りていないらしい。体つきも同年代の少年達よりも貧弱さを感じさせる。
もし、彼が満ち足りた食生活をしていれば、振り返るのは十人中九人は固くなるであろうに。
「頼みます。僕をここの兵士にしてください。この……『神聖隊』に入隊したいんです。お願いします!」
「だめだ……シシュポス君と言ったね? 君はこの神聖隊に相応しくない。帰りたまえ」
少年――シシュポスの懇願に対し、神聖隊の男は丁寧だが断固とした雰囲気の口調で断った。
「どうしてなんですか? 神聖隊は今、スパルタとの戦いに備えて兵を募集しているのでしょう? どうして駄目なんですか?」
「どうしてって……君は、神聖隊がどういう組織なのか知っているのか?」
呆れ顔の男は、シシュポスに神聖隊がどういう存在なのかを語り始めた。
神聖隊は、ボイオティア地方における有力なポリスである、テーベの軍隊の一つである。
この時代、テーベは軍事国家スパルタの圧力を受けており、数年前まで支配されていて独立を回復したばかりだ。そして、その独立を保っていくためには武力が必要であり、その武力の要が神聖隊なのだ。
神聖隊は、テーベの有力者であるゴルギダス将軍が編成させたもので、現在はペロピダスという将軍が指揮している。ペロピダス将軍の率いる神聖隊の実力は凄まじく、少し前にはテギュラの戦いにおいて数倍のスパルタ軍を散々に打ち破った。この時代のギリシア世界においてスパルタ軍は最強と謳われている。そのスパルタ軍に勝った神聖隊は世界最強と言えるかもしれない。
そして、神聖隊の一番の特徴はその強さではない。
神聖隊は、その兵士全てが同性愛者から構成されているのだ。同性愛が珍しくないギリシア世界であるが、この様な極端な存在は珍しく、他のポリスには存在しない、テーベ特有の軍隊だ。
「ということだ。君が神聖隊に入る資格が無いと言う事が理解出来ただろう? 君はそういう嗜好は持ってないのは分かる」
「確かにそうですが……入隊できるなら、僕はこの身がどうなっても構いません!」
「ふざけるな! 俺たちが仲間として求めているのは、愛のために誇り高く、命をかけて戦う男達だ。男娼なんぞ求めているんじゃあない!」
神聖隊は全て同性愛者で構成されていると述べたが、それは単に同性愛の嗜好を持っているだけという訳ではない。
彼らはその全てが対になるカップルなのだ。
不特定の相手と愛を交わしているのではない。
これは、神聖隊の強さをいかにして確保するのかという思想に関わっている。
なぜなら、愛し合う二人が戦場で肩を並べる事で、兵士たちは恋人に恥ずかしい姿を晒さないように、格好良いところを見せるために勇敢に戦う事が期待できる。
この時代のギリシアの軍隊は、密集隊形をとることで互いに守りあうことで戦力を発揮するものだ。このギリシアの軍隊の強さは、当時世界最大の国力を持つペルシア帝国の軍隊を打ち負かすほどだ。
しかし、これにも弱点があり、密集隊形に参加する兵士の誰かが恐怖に駆られて逃走した瞬間、そこが穴となり戦闘力を失う事になる。
だが、恋人が隣にいるのなら、愛する者を守るために必死に戦うし、逃亡するような恥ずかしい姿を見せる事は絶対に無いのだ。
そして、もしもカップルの片方が死んだのならどうなるのか?
普通の軍隊でも戦友の死は、残された戦友の怒りを掻き立てるが、恋人だったのならこの比ではない。
恋人の復讐をするために、激しい怒りのもとに恐るべき激しさで、敵が死に絶えるか、自分が死ぬかまで戦い続けるだろう。
単なる戦友なら、戦況が不利になれば戦意は衰え、逃げる事もあるだろう。しかし、恋人が殺された悲しみや苦しみは、自分が殺されたのと同じようなものだ。この様な状態になったのなら、自分の死を恐れる様な事は絶対にないのだ。
神聖隊の男に強く言われ、シシュポスはうなだれたようすだ。
「すみませんでした。でも、僕はどうしてもここで戦いたいんです」
素直に謝罪するシシュポスに、怒りを見せていた神聖隊の男の感情は落ち着いた様だ。
「ここでなくても、兵として戦う方法はある。普通の市民兵として戦えばいいじゃないか」
「確かに兵役は市民の義務ですから、誰でも兵士となります。しかし、僕の様な資産の無い市民は、軽装歩兵として戦うしかありません。戦いの主役である重装歩兵として戦う事は出来ないじゃないですか」
「それはそうだが……」
ギリシア市民の男は、いざという時は全員が兵士となって戦う。これは、奴隷ではない自由民の義務であり、誇りでもある。そして、その際の武器や防具は全て自分で用意しなくてはならないのだ。
なので、戦場の主役である金属製の鎧兜を身に纏い、巨大な盾と槍を装備した重装歩兵になれるのは、三割程度しかいない中産階級以上であり、人口の大半を占める下層民は軽装歩兵や荷物の輸送、ガレー船の漕ぎ手など、身一つで出来る役割しか与えられない。
軽装歩兵は鎧など身につけず、簡素な槍や剣を持つだけ、場合によっては石を投げて戦うしかないのだ。これも重要な役割であるのだが、活躍しているとは言い難い。
だが、他のポリスならともかくこのテーベでは、下層民が重装歩兵となる道がある。それが神聖隊に入る事なのだ。
神聖隊は他の市民兵が兼業で臨時に召集されるのに対し、専業の兵士なのだ。食料や宿泊場所もポリスから与えられるし、武具も支給される。
シシュポスはこれを聞きつけて神聖隊に入ろうと思ったのだろう。
「だが、規則は規則だ。我々は、カップル以外お断りだ。帰るんだな」
「まあ待てよ。俺と一緒に入隊するとすれば、どうかな?」
交渉を打ち切ろうとした神聖隊の男を宥める様に、一人の男が神聖隊の兵舎の奥から現れた。
暗い兵舎の中から晴天の下に出てきたその男は、陽光に照らされて眩いばかり。
かなりの長身で、小柄なシシュポスと並んだら、大人と子供に見えるかもしれない。鍛えられた肉体は野生の肉食獣を連想させ、どことなく危険な香りを感じさせた。
そして、黒髪のギリシア人にしては珍しく、金色がかった髪を生やしており、陽光に照らされたその姿は百獣の王である獅子を連想させた。
そんな、油断をしていると取って食われてしまいそうな雰囲気を放つ男だが、その精悍で整った顔立ちに浮かべられた笑顔にはどことなく愛嬌が含まれていて、ついつい惹き込まれてしまいそうになる感覚をシシュポスは覚えた。
この男は一体何者なのか。
「あ、デミトリアスさん。えーと、一緒に入隊とは一体?」
「俺が、彼とペアになるってことだ。それなら規則上構わんだろ? クレイトス」
「しかし、彼の体つきを見てください。とても兵士としてモノになるとは思えません」
「そうかな?」
「うわっ……ひゃぁぁ!」
デミトリアスは一瞬で姿をくらますと、シシュポスの背後に回り込み、その体のあちこちをまさぐった。こういう事に耐性のないシシュポスは妙な声を上げる。
気色が悪いのか、それとも逆なのか、本人にも分からないだろう。
「確かに今は筋肉が無く、体の線も細い。だけど、筋肉の質は悪くない。鍛えれば良い兵士になるだろう」
デミトリアスは、シシュポスの胸や腹をさすったり揉みしだき、シシュポスは奇妙な感覚に身もだえた。
もっとも、デミトリアスの表情は、絵画や彫刻を審美するように真剣そのものであり、猥褻なところは何もない。
これは本当の事である。
「ああっ!」
「おお、下半身は特に良い。よく引き締まった体をしている。君、長距離を走ったり歩いたりする運動をしていたか?」
「い、いいえ、運動はしていません。でも、貿易商をしていた父に連れられて、旅をしていまし……はひゅ!」
太ももや尻を撫でまわされたシシュポスは、息も絶え絶えだ。
「そうか。この感じなら、行軍にも耐え、良い兵士になるだろう」
あくまでもデミトリアスは、シシュポスの肉体を兵士としての素質があるかを確かめているだけであり、その口調は真剣そのものである。猥褻なところは何もない。
本当です。信じて下さい。
「と言う訳で、彼の兵士としての素質は、神聖隊トレーニングコーチであるこのデミトリアスが保証する。俺が責任をもって鍛え上げてみせるさ」
シシュポスの尻をばしんと叩いたデミトリアスが、自らの胸を叩き自信ありげに言った。
「ですが、神聖隊に入隊する資格は、カップルである事、デミトリアスさんは彼と出会ったのはたった今ではないですか。そんなものを認めるわけにはいきませんよ」
もっともな事である。愛の力で戦う神聖隊に、愛の無い者を入れるなど許される訳がない。だが、それを聞いたデミトリアスは、ふっと笑って答えた。
「一目惚れだ」
「は?」
「一目惚れだよ、一目惚れ。ゼウスの雷霆に打たれたように激しく、キューピットの矢に心を撃ち抜かれた様に突然に、恋が始まる事は不思議じゃない。そうだろ?」
「確かにそうかもしれませんが、彼の方が……」
神聖隊への入隊の資格は、カップルである事だ。一方的にデミトリアスがシシュポスに恋慕していても資格とはならない。
「いや、彼も俺に一目惚れさ。そうだろ?」
「え? あ、はい。そうです。ぞっこんです」
デミトリアスに目配せをされたシシュポスは、調子を合わせてデミトリアスの意見に同意した。もちろんデミトリアスに全身をまさぐられて虜になった訳ではないのだが、入隊するためなら同意せざるを得ない。
「本当かなあ。じゃあ、愛し合ってるっていうのなら、その証拠を見せて下さいよ」
「えぇ?」
シシュポスは、目を丸くした。本当はデミトリアスに一目惚れしたのではないし、そもそも同性愛の嗜好が彼には無い。そんな彼には男との愛の証明など出来るものではない。
しかし、これ以外に手段は無いのだ。念願の神聖隊入隊のため、シシュポスは意を決して行動にでた。
「……これで、どうですか?」
「……」
クレイトスの目の前で、シシュポスはデミトリアスの手を握っている。
クレイトスとしては、口付け位の行為はして貰わなければ、愛は証明できないと考えていた。それを考慮すると、手を握るくらいでは何の証明にもなりはしない。だが、
「と、尊い……」
行為こそ軽いものだったが、その仕草は初々しさを感じさせ、クレイトスの琴線に触れた。シシュポスのあどけない顔は照れのため紅潮し、その感情の昂ぶりが見て取れる。そして、手を握っているだけではあるのだが、指を絡め合ったいわゆる「恋人握り」であり、努力をしているのは分かる。
今でこそ恋人の男と激しい愛情行為をするクレイトスであったが、最初の頃はこんな感じで、見つめ合う事すら勇気を振り絞った末の行為だった。
「ふっ……私の負けだよ。入隊は私の権限で認めようじゃないか」
「勝ち負けなんでしたっけ? それに鼻血が出てますよ?」
「まあいいじゃないか。彼にも色々あるんだろう。それより、今日から俺達はパートナーだ。共に歩み、共に戦い、共に死ぬ。そんな関係だ。よろしく頼むぞ」
「はい! よろしくお願いします!」
喜びを露わにしてシシュポスはデミトリアスに礼を言った。
同性愛のカップルしか入れない神聖隊に、例外の二人が入隊した。これが、ギリシア世界を大きく変える事になるとは、この時誰も知らないのであった。