ヒトはどこから生まれ、どこへ向かい、どこへ至るのか
理想は現実には存在しないだろう。ならば理想を探求し、目指し、追い求める必要も無いのかもしれない。だが、人は理想を目指し、幸せを目指し、良い状態を目指し、マシな状態を目指し、悪い状態を避け、最悪を避けていいはずだ。
ヒトは死んでない限り生きているしかない。そして死ねば生き返らない。生きている間くらい、全身全霊幸せになっても良かろう。自身が何者なのかを決めるのは、死ぬ瞬間か、死んだ後で構わない。人は生きている限り何者にも成れるし、何者であっても構わない。
自然界、あるいはこの宇宙に、意志という物は在るのだろうか。
古典的物理学に従うと、無いと言わざるを得ない。何故なら、自然界は物理法則にのみ従っているのであって、全ての現象は何らかの意志によって起きているのでは無い。
だが、物理法則にはある傾向が在ると仮定、あるいは推測出来るとすると、そこに存在するのはエントロピーだろうか。(以降、エントロピーという言葉を均一、或いは安定に向かう圧力と仮定する)
例えば、お湯と冷水を同量混ぜると、その中間の温度のぬるま湯が出来るだろう。だが運動エネルギーを、そしてそれのみを観測する場合は趣が変わる。運動する物体を、同質量の物体に対して理想的環境下でぶつけた場合、ぶつけた物体はぶつかった物体と同じ速度で運動し、ぶつかった物体には反作用が働き、その速度は0となる。
もしエントロピーがより高いならば、二つの物体がぶつかると、両物体は同速度で運動を始めるのかもしれないが、私が知覚している世界においてはそのような振る舞いは見受けられない。
しかし、実際に運動する物体は摩擦などにより熱を輻射し、熱は光を輻射する。やがて全てのエネルギーは光に形を変え、宇宙は無限に引き伸ばされた光のみを内包する存在になると考えられている。
こうして考えると、宇宙の終焉は極めて均一で、安定しているのではないだろうか。
エネルギーは姿を変えてまで、エントロピーに従っているとも捉えられる。だとすると、自然界や宇宙に意志や傾向が在ると仮定するならば、やはりエントロピーだろう。
ではヒトの意志はどうだろうか。傾向が在るとすると、一体何だろう。
ヒトの意志もまた自然界の一部であり、前述の考えに従うと、安定化に向けてエントロピーの影響を受けていると考えられる。
ヒトは生まれてから、歳を重ねる毎に様々な経験や知見を得て、それらを糧として、その人格を安定させて行く。不測の事態に遭遇しても安定した選択を取る事が出来るようになり、歳を重ねる毎にその傾向は強くなるだろう。
自然界に属する者として、安定していくのは正しい事の様に見え、それが正しい事として考えている人もまた多い様に、私には見えている。
安定した人格や考え方は、素晴らしい物である。しかし、安定した状態は、他の何者かに成れる可能性を減らしてしまうのではないだろうか。統合、安定した人格は、ある方向性に進むにつれて他の存在に対する理解を失ってしまうのではないか。
安定した観測者は、見えている世界が少なく、狭くなるだろう。例えば、定規はいきなり長くなったり短くなったりはしないし、刻まれている単位が何かの拍子に変わる事も無い。実に安定した存在だ。だが、測れるのは刻まれた単位に従った長さだけであり、直接測れるのは短い範囲だけである。定規が観測出来る世界は、それが測れる範囲のみにしか存在しないと言える。
私は或る時、安定した状態について、柔軟性に欠けるのではないかと考えた。だが、より安定した状態を目指すにあたり、柔軟性は必要なのではないか。
諸行は無常なのだから、ある時には安定した状態が存在し、不安定な状態もまた存在する。物事は観測される瞬間まで確定せず、観測された瞬間に過去の出来事として固定される。現在という概念は未来と過去の境界であり、未来が過去に変わる瞬間には未来と過去が同時に存在し得るが、現実には存在しない。未来であり過去。現在という概念は、存在しているのに現実には存在しない。
私はそう考えた時、矛盾、或いは不安定な状態を許容する事が出来たのだろう。以来、あらゆる人への理解が進んだ。私の人格が無限大に分裂し、それぞれがあらゆる対象を理解しようと活動を始めたかの様な気分である。なお、この様に記述した2日後にこの認識は少し改まった。どうやらアップデートしたようだ。詳しくは後述する。
私は若い頃、不可解な存在を理解する事を拒んでいた様に見える。私は好奇心が旺盛なので気にはなっていたが、積極的に理解しようとはしていなかった。
ヒトは真実を信じるのではなく、信じたい物を信じるものだ。これは当然である。身の安定、心の安定を目指す観点で考えると、都合の悪い物は観測しない方が安定するのだから。
しかし、しかしだ。
エントロピーに従い、安定を目指すだけで本当に良いのだろうか。矛盾や不安定を許容、あるいはそれらを利用する事で、更なる安定を手に入れられないだろうか。不安定な状態をより柔軟で、何者にも成れる可能性を秘めていると仮定すると、不安定な状態は制御さえ出来れば極めて役に立つのではないか。
安定した状態を目指す事はヒトの成長に繋がっている様に見えるが、一度安定しきるとそれ以上の成長を阻害する要因たり得るのではないか。
先に断っておくが、これから記述する内容は、一つずつの問題と危険性を孕んでいる。
まず一つが、この内容が根拠の無いものであるという事だ。私は自身への理解を深める為、あるいは他者への理解を深める為にエニアグラムという、ある種の性格分類学を活用している。エニアグラムが根拠であると言い切れれば、この問題は無視しても差し支えない。
だが、私はエニアグラムが何を根拠としているのかを知らないし、知る術を持たない。
ある研究者は「イスラム教の宗教指導者達に口伝で伝えられてきた」とその著書に記している。確かに、人を操るガチ勢が活用してきたならば、信頼性は高そうである。
私も日頃活用しているが、エニアグラムによる9つの分類(実際には、さらに2元18種類や別系統に3元54種類など、研究者によって解釈は多岐に及ぶ)は、結果のみを見る限り、極めて高精度だ。エニアグラムを修めた人物は、とある人物について、その人自身よりも詳しく深く理解している様に見える。驚くべき事に、これは誇張表現ではない。
私がエニアグラムと出会ったのは17歳の頃だが、当時の衝撃は筆舌にし難い。何しろ、タイプ5の項目に、私について私が自覚している観点のみならず、自覚していない観点から分析され、記載されていたのだから。当時の私にとっては人生最大の衝撃である。
話が逸れるがエニアグラムは、当小説を御拝読頂いてる皆様方にも修めて頂きたいと思う。まずは自己の理解の為に、次に、世の中には色々な人が居る事を知る為に。私はエニアグラムを解説出来るほど修めていないので、専門家のWebサイトや書籍などをご覧頂きたい。自身のタイプ判定は難しい(人によっては更に難しい)が、自我、人格、精神の統合に役立つだろう。他者のタイプ判定は更に輪をかけて難しい。そもそも9面の鉛筆を転がしたとしても9回に1回しか当たらないし、他者の考えている事は観測しようが無いのだから。エニアグラムにおける自身以外のタイプは深く考察し過ぎず、自身が知らないルールや理によって動いている人々も居る、という程度で理解を留めるのもまた健全だろう。人の数だけ世界があるのだから。
話を戻そう。とある人に刺激を与え、それに対して何らかの反応があったと仮定すると、その流れは関数やプログラムに例える事が出来る。即ち、
刺激=入力した値。
刺激に対する反応を生み出す過程=2系統の関数。恐らく、入力した値を認識、或いは受け入れる関数(入力系統の関数)と、入力された値を入力系統の関数で得た解を元に、何らかの反応を生み出す関数(出力系統の関数)の2つが有機的に作用している。
反応=前述の、2系統の関数から得られた解。
と、表せると仮定する。この時、外部から直接観測出来るのは入力した値と出力された解のみである。これらは言葉や文字、表情や声色など、様々な形で観測出来る。
ここでは関数で例えたが、そもそも人格や性格、自我や精神が、脳の何処がどのように作用して生まれ、働くのかは私が知る限り観測のしようがないし、調べた限りは解明もされていない。
我々が住まう時空は4次元と考えられているが、超ひも理論など、11次元であるとする学説が有る。とある解釈によると、残りの7次元は、素粒子にへばりついていたり、コンパクトに展開されている為に観測出来ないか、極めて観測困難であるらしい。その様な観測不可能な領域に魂や精神世界が存在し、それらが自我や精神に作用していても私はあまり驚かないだろう。それ程までにヒトの意志や自我は、私が知覚する時空に対して非自然的に見える。
度々前置きが長くなり誠に恐縮だが、これらの仮定から、ヒトの性格や人格は直接観測出来ないと考えられるので、入力した値と出力された解から推測されたであろう、あらゆる心理学には根拠が無いと言える。これが一つの問題である。
もっとも、観測結果を元とした推測から得られたであろうエニアグラムは、くどいようだが極めて高精度に見える。私の様に、病的なまでに根拠を求める人はどちらかというと少数派だろう。この問題は無視しても差し支えないはずだ。観測出来ないが、明らかに存在している存在など、そもそもありふれている。
続いて、一つの危険性についてだ。前述した一つの問題については大した事ではなかったが、この危険性が何をもたらすかはまるで想像出来ない。少なくとも、この執筆時点では。
これから述べるのは、仮想的に様々な人格や自我を形成し、様々な値を入力し、どのように受け止め、どのような解が出力されるかを無限に近い回数試行する試みだ。
その時点における自我と、仮想的に生み出した自我を区別、そして制御下に置けられれば問題無さそうだが、これは見ようによってはあえて自我を分裂させる行為である。ひとたび仮想的自我も自身の一部と認めてしまえば多重人格になり得るし、思考の統合が出来なくなれば自我の崩壊もあり得るのではないだろうか。特に、自我がより未成熟で安定していない状態ならば、控えた方が良いかもしれない。
と、執筆時点では考えたが、その2日後にこの認識は改まった。2日後のある時、この危険性はただの杞憂だと考えたのである。ヒトは割と高機能であり、壊れる前に防衛本能が働くと考えられる。信じない方が健全たり得る考え方は、存在しないものとして扱って差し支えない。
これから私が記述する論は、人格の統合が充分に進んでない、即ち不安定な状態の人は読まない方が良いだろう。不安定という事は、何者にも成れるという事だ。特に、何者にも成れるにも関わらず、何者にも成ろうとしない、していない人が私の論を読む事は、輪をかけて危険である。何故ならば、これから記述するのは全てを承認する試みであり、瞬間的に、悪質なサイコパスや犯罪者までをも承認する事になる。彼らは将来的に善良な人に成る可能性が有るので、その時点で許されざる存在だとしても、短絡的に殺してしまう訳にはいかない。自身の人権が保証されている以上、軽々しく人権侵害を為す事は断じて出来ない。つまりは、何者にも成れるが、何者に成って良いか判らない、何者を目指せば良いか解らない、自身が何者なのか分からないという方は、私の論を間違っていると断じて、直ちにあなたの世界から抹消して頂けるよう強く要請します。何卒、宜しくお願い致します。
対して、既に一人前に成ったと断ずる人には、少なくともその瞬間は、これから私が述べる事が何の役にも立たないだろう。変化を必要としない人には無用の長物である。当小説を活用出来る資質は、限りなく低い。しかし諸行は無常なので、変化しないという事はどんどん古くなるという事だ。時代の影響を受けず変化しない人は賞賛すべきだが、時に老害になり得る。
つまりは、一人前に成った方にこそ読んで頂きたい。たがそんな方は、世の中いろんな人々が居て、いろんな世界が在る事はとっくにご存知であろう。
しかし、あなたが見ようとしていない世界を、特に、あなたを守る為に見ない様にしている存在を承認したその時、あなたは根源的な恐怖を克服出来る可能性がある。生者は死ぬ寸前まで一人前に成る必要は無いのだから、老若男女には成長、進化し続ける権利がある。もちろんそんな権利を放棄する自由もある。ヒトの意志には、あらゆる自由が保証されている。
自我を分裂させる事による危険性とは、分裂した自我それぞれが他の人格に対する一切の忖度をしない時に発生する。私が私の中に生み出した自我がそれぞれ勝手に活動を始め、無数の私に対する尊敬や忖度を投げ捨てたその時、私の自我は崩壊するだろう。その時私に最も近い私が、それ以外の自我を抹殺するのが間に合わない場合、自我の分裂は不可逆的な物となり、永遠に統合される事なく崩壊していくはずだ。この様な現象は、安易に何も考えずに他の人格やスタンダードを承認し、制限を設けずにそれを繰り返した場合に発生するだろう。この制限は権力者が雁字搦めに縛られているのに似ていると言える。権力者が振るえる権力など殆ど無い。振るわされた権力や、振るわざるを得ない権力の方が多いだろう。究極の自由を承認するならば、究極の不自由を承認せざるを得ない。自由とは、不自由を前提としてしか存在出来ない、相対的な概念に過ぎないのだろうか。
実に前置きが長くなったが、これからは矛盾や不安定をも承認して、仮想的自我を作り出す事により得られる効果や、そこに至るアプローチ方法を述べていく。