4 あべ探偵事務所
新宿駅東口から徒歩7、8分ほどのところに、5階建ての小さな雑居ビルがある。
古ぼけた外壁は赤茶色のレンガ調。
ちょっとひび割れてるのはご愛敬。
その最上階を占有しているのが、わが『あべ探偵事務所』だ。
新宿駅のそばだけに利便性は高い。
日当たりや治安の悪さ、築年数といったもろもろの難点に目をつぶれるなら、なかなか魅力的な物件だろう。
エレベーターさえあればだけど。
いまどきエレベーターもない、大都市にあるくせに時代の流れに取り残されたようなこの場所が、おれたちの事務所兼住居。
「ただいま」
ここに同居人が帰ってきたのは、昼の短いニュースで、有名な吸血鬼の来日が報じられているときだった。
中性的な声で帰宅を告げたのは、メガネをかけた優男、滋丘ユウキ。おれが所長をつとめるこの事務所の副所長、といっても二人しかいないんだが。
ユウキはリビングテーブルに目をやりながら、黒いブリーフケースをソファの横において、
「手入れの途中だった?」
「いや、ちょうど終わったとこだ」
Tシャツにハーフパンツというだらけた格好のおれは、クレ5-56の缶を手にそうこたえた。
テーブルに広げた新聞紙の上には、まだ、日本刀と手入れ用の道具が広がっている。
時代劇ではよく白いポンポンを使ってるけど、あの中には打ち粉という砥石の粉が入っていて、砥石の粉だけに注意深く作業をしないと刀を痛めてしまう。だからおれは、無水エタノールを染みこませたティッシュで古い油を取り除き、クレ5-56で仕上げることにしている。省エネ。美術品をあつかってるわけでもないし、これで充分。
クレ5-56を新聞紙の上におきつつ、対面に座ったユウキに訊く。
「で、査定はどうだった?」
「うん。けっこうな金額になったよ」
それはそうだろう。あれほど大きく育った怪異はめったにいない。いたら新宿は終わってる。
おれが退治したあの狼は、すぐに力を失って、灰色の土くれ、『怪異の灰』に成り果てた。その場でお役所、山手探題にスマホで連絡すると、数分で近くの職員が駆けつけて現場検証をはじめる。回収した怪異の灰を彼らにまかせて、そこまでがおれの仕事。
夜が明けて、ユウキは皇居近くにある山手探題に出向き、調査結果や報酬の査定額を確認してきたところだ。
なんでおれが行かなかったかというと、お役所が苦手だからという情緒面とはまったくかけはなれた、きわめて実務的な理由があった。少し恥ずかしいことだけど、ちょっと前に山手探題の受付で騒ぎを起こしたおれは、出禁にリーチがかかっているのだった。
言い訳をさせてもらえるなら、おれは理不尽な話に巻きこまれたから騒いだのであって、被害者といってもいい立場のはずだった。けれど、そういった事情を斟酌できる柔軟な思考を、はたしてお役人に期待できるだろうか。
おれのかわりに、人当たりのいいユウキが山手探題に行ったのには、そうした理由があった。
「……犠牲者は、3人だったそうだよ」
怪異の灰の入ったガラスの小瓶をテーブルにおくと、ユウキは銀縁メガネの奥で悼むように目を閉じた。
「……そうか」
怪異があそこまで育つには、それ相応の餌が必要となる。血痕が目に入ったときから、正直、犠牲は出ているだろうな、と覚悟はしていた。
怪異の灰と現場をくわしく調べれば、いろいろなものが見えてくる。いろいろといってもそれなりでしかないけれど、人が喰われていたことやその人数は判明したのだろう。
ユウキが肩を落とすのも、当然の反応といえた。おれもそうだけど、いや、おれ以上に。こいつは一般人に犠牲が出ることをひどく嫌う。
「まぁ、4人目の犠牲を防げたのは、おれのおかげってことだ。さすがだな」
わざとらしく肩をすくめて、おれは軽口を叩いた。
「……そうだね」
ユウキはショックを隠すかのように弱々しく微笑んで、Yシャツの第二ボタンをあけた。汗で濡れた白い長袖が、腕にぴったりはりついていた。髪に目に肌、全体的に色素が薄いユウキがそうしていると、やけに血の気が失せて見える。
梅雨があけるや、待ちかまえていたかのように、気温は一気に跳ねあがった。エアコンが頼もしい音をたててまわってる。うんざりするほど、外は暑い。




