3 怪異(アノマリア)
前言撤回。
新宿区民35万人といえども、今のおれより酔狂なやつなんて、そうそういない。抜き身の日本刀をもったスーツ姿の男なんて、どこからどう見ても110番の事案にちがいなかった。
おれは両手に黒いグローブをはめて、右手を右肩の上に、そこから背中に隠すように、刀をぶらさげていた。刀をおさめていた鞘とクラブケースは、仕事の邪魔にならないよう、ビルの壁に立てかけておく。
戦闘準備を整えてから、最後の角を曲がる。
新宿の地理、とくに怪異が好みそうな場所は知りつくしている。この先は行き止まりのはずだった。
はたして、ターゲットはそこにいた。路地の奥に、蒼白い狼がうずくまっている。ぼんやりとした輪郭に、夜光塗料のような色合い。エアコンの室外機の影に隠れるには、ちょっとばかし図体が大きすぎる。なかなかの大物、ずいぶんと育った怪異だ。
刀を背に隠したまま、おれは無造作に進む。
足音に反応したのか、狼が蒼白い双眸をこちらに向けた。威嚇するように、同色の口を大きくあける。むきだしになった巨大な牙の生えぎわに、黒い何かが付着していた。
血痕に見えた。
人を、喰ったのだろうか?
早合点はよくなかった。ネズミや野良猫の可能性だってある。沈着冷静。心の中でそう意識して、静かに長く、息を吐く。
怒気に身をまかせたところで意味はない。やるべきことは何も変わらなかった。そう、こいつを退治すればいいだけだ。
狼が身を起こした。
思っていたよりも、さらに大きい。形こそ狼だが、サイズはライオン並だ。
その足がこちらを向く。
と次の瞬間、蒼白い燐光が闇を疾った。
狼の巨大な口、できの悪いCGみたいな顎がせまる。
迅い!
室外機の倒れる音が、遅れて聞こえてくるほどの速度。
おれは狼の牙をかわすために身をひねり、同時に日本刀を振りおろす。
逃すわけにはいかなかった。ちっぽけな怪異ならともかく、ここまで大きくなれば、人の生命を奪うのも容易だろう。この場で、確実にしとめなければならなかった。
すれちがいざま、蒼白い燐光が飛び散った。
手応えはあった。
仮初めの肉体を斬る、腐った果物を切るのにも似た、顔をしかめたくなる感触。
「ギぇやぁぁあああアアアアッッ!!」
たまらず狼が悲鳴をあげた。
氷をねじ切るような絶叫が、夏の夜空に吸いこまれていく。
この悲鳴、一般人には風が吹き抜けたようにしか聞こえないらしい。不思議だ。おれたち霊能力者の耳には、身の毛もよだつような悲鳴に聞こえるのに。
怪異は野生の獣を上回る速さをみせたが、刀にはまったく反応できていなかった。おそらく、おれを喰らうことしか考えていなかったのだろう。獲物を狩ることだけを考えて、狩られる立場であることを知らなかったのだ。
おれの刀は、狼の頭頂からあごに抜けていた。その顔面は左右まっぷたつに切り裂かれている。普通の生き物なら、まちがいなく致命傷だった。
だが、こいつはまっとうな生き物ではない。手をゆるめてはいけなかった。
息をつく間もなく、刀の切っ先を返して、跳ねあげる。
痛みのせいか動きを止めていた狼が、追撃を察知してアスファルトを跳ねた。
月下に、蒼白い四肢が踊る。
日本刀が下から伸びあがり、銀色の弧を描く。
獣と刃が無音で交差すると、あっけないほど軽々と、狼の首は宙を舞った。