もうひとりのあたしと
あたしはシオン。あたしが生まれた日にマヤが付けてくれた名前。
あたしはいつもマヤの斜め後ろからマヤの事を見ている。見ているだけ。
今日もマヤはデート。新しいワンピースがよく似合っているよ。
あの男とデート。あたしはあの男が嫌いだ。
あの男はニヤニヤといやらしい笑い方で、いつもマヤを傷付ける。肉体的に。精神的に。
時々あたしはそんなマヤを守りたくて、マヤの中にすぽんと入る。
痛かったり苦しかったりするけれど、マヤの心がそれを受け止める必要はないんだ。
マヤ。あたしがいるよ。マヤ。
デートから帰ってくるなり、やはりあの男はマヤの可愛い頬をばちんと殴った。
またあの男にとって気に食わない事があったのだ。いつもそう。
「お前さあ、他の男に色目使って、何様のつもり?」
「ごめんなさい……そんなつもりじゃ……ごめんなさい」
頬を庇って涙を流すマヤの震える声が、「がはっ」と歪んだ。
あの男がマヤの腹に膝蹴りを入れたのだ!許せない!
あたしはマヤの中にするると入る。早く。早く。
あたしが入ると、マヤは首がかくんとなって、一瞬眠ってるみたいだ。
マヤ、あたしが守る。こんな男にマヤを傷付けさせやしない!
「あんたこそ何様なの!暴力ばっかり振るって、どういうつもり!?」
あたしは吠える。だがそれもねじ伏せられる。そう、体はマヤなのだ。いきなり超人マッチョになったりなんかするわけじゃない。
「ああ?お前なんだよ。口答えすんのか」
ゴッ。
マヤのさらさらな髪をひっつかまれる。その場に倒される。
ゴッ。
もう一度。床に叩きつけられる。
痛い。これはマヤの体なんだ。マヤを守らなくては。
あたしは咄嗟に身を縮めるが、遅い。ばしん!「あがっ」腹に一発。
マヤの体だ!なんてことするの!
台所に雑巾みたいに横たわるマヤの体。
いや、まだ腕は動く。あたしは静かに、慎重に指先を伸ばす。
当たるのは、マヤがいつもあの男の為に使う包丁の柄。
慎重に握り返す。
男は煙草に火をつけるところだ。今だ。
耳の奥がピンと糸を張るように鳴る。
重い体を起こし、包丁を左手で支える。
ぎゅっと足を踏み込む。今だ。
「あああああああ!」
あたしは叫ぶ。もっと早く。もっと早く動いてマヤの体!
あたしの叫び声にあの男が振り向く。ドンッ。あたしは男の胸に体当たりする。包丁が深く突き刺さった。もっと深く、もっと深く。
「お……ま……くっそ……」
男の口から息と共に声が漏れる。男が倒れた拍子に、手に持っていた煙草がカーペットをちりちりと焼き始める。
そこであたしはすぽんとマヤの体から追い出されるように抜け出た。
あたしはまた斜め後ろからマヤを見ている。マヤ、これでもう大丈夫。もう痛い事なんてない。でも今はまだ痛いかな、ごめんね、マヤ。
「……うっ、うあああああああああああ」
男をぼうっと見下ろしていたマヤが、突如膝を崩して叫んだ。涙がぼろぼろとこぼれ落ちて、マヤの整った唇も、さっき殴られた赤い頬もみるみる濡れてゆく。
「うあああああああああん!うああああああああああああああん!」
ねえマヤ、どうしてそんなに泣いているの?
もしかして助かったという嬉し泣き?それともやっぱり体が痛い?
ねえ、そんな事よりマヤ、さっきからカーペットが熱いの。
どんどん赤く明るくなっているよ。
ねえ、マヤ。早く逃げないと。