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マリアナ大爆撃〜超・重爆撃機キ91「鴉」飛翔〜

作者: 初桜沙莉

2019/12/14:誤字・誤記、及びタイトル等を編集しなおしました。

 太平洋戦争中、日本軍が開発した「おそるべき軍用機」はいくつかあるが、この四式特殊爆撃機「(カラス)」はその中でも抜きん出た活躍を見せた。


 1940年。日本陸軍は川崎飛行機に対し、遠距離爆撃機の試作を命じる。キ91、後の四式特殊爆撃機である。

 日本陸軍が構想していたのは、当時仮想敵国と目されていたソ連に対する高高度隠密偵察およびシベリア鉄道に対する戦略爆撃計画だった。

 川崎飛行機は、直ちに爆撃機開発チームを組み、試作に取り掛かった。


 しかし、そのわずか1年後の1941年。

 状況は一変する。

 太平洋戦争の勃発である。

 緒戦において日本はフィリピンを攻略することに成功するが、その時に鹵獲したB-17の性能を調査した結果、日本海軍の一式陸攻や日本陸軍の百式重爆を遥かに凌駕する、「戦略爆撃機」と呼ぶに相応しい機体であることが判明したのだ。

 米国の国力は日本のそれを遥かに凌駕する。近い将来、B-17を凌駕するような性能の──なんと呼べば良いか──超重爆撃機を戦線に送り出すのは誰の目にも明らかだった。

 そうなれば、日本本土に対する戦略爆撃も現実味を帯びてくる。

 追い討ちをかけるように、1942年には、空母艦載機による東京空襲、通称ドウリトル空襲が発生する。損害自体は軽微だったものの、日本の防空体制の脆弱性が改めて浮き彫りになった。


 「もし、本格的に米国が日本本土に戦略爆撃を行うようになれば防ぎきれないのではないか……?」「防ぎきれないのであれば、先に叩くしかない」


 そう考えた日本陸海軍は、防空用の局地戦闘機を開発する一方で、このキ91を、日本本土爆撃阻止の切り札として実用化を急いだ。

 開発を急ぐ為、発注されるはずだったほかの試作重爆撃機は全てキャンセルされた。その中には、幻の6発巨人機「富嶽」「TB機」や4発機「深山」「連山」も含まれていた。


 時に1942年の終わり頃。

 ミッドウェー海戦で敗北し、ガダルカナル島を巡り消耗戦を繰り広げている頃であった。

 当初、目標としてはハワイ諸島やオーストラリアなどが想定されたが、太平洋戦線における相次ぐ敗北によって、爆撃基地を大幅に後退させる必要が生じた。

 また、盟邦ドイツの情報や、日本の情報部による調査で、米国の「超重爆撃機」は中国奥地なら九州方面だけを、マリアナ諸島であれば日本本土全域をカバーする程度の能力を持つことが予想された。

 その為、開発計画は修正され、日本本土とマリアナ諸島を無補給で往復するだけの航続距離で良しとされた。

 課題とされた高高度性能も、フィリピン戦やソロモン戦で鹵獲したB-17、B-24を参考に排気タービン過給機の開発に成功したことによって、道筋をつけることに成功した。

 こうした努力の甲斐あって、他の試作機が難航する中、ただキ91の開発は順調に進行した。


 そしてついに、1944年1月。

 試作1号機が完成した。

 その性能は素晴らしく、航続距離は9000〜1万キロ、上昇限度は1万3500メートル、最高速度は593キロ。ちょうど米軍が実用化し日本本土爆撃に投入しようとしたB-29と同程度の性能を誇っていた。

 日本陸海軍は直ちにこれを四式特殊爆撃機「鴉」として採用。生産ラインから出てきた36機を使用し独立飛行301大隊を創立。この機体の存在は極秘とされた。

 1944年6月、マリアナ諸島が米軍の手に落ちた。現地に潜ませた中野学校出身の残直諜者(=スパイ)の報告で、サイパン島、テニアン島が爆撃機出撃基地として整備され、続々とB-29が飛来していることが判明していた。


 ここにいたり、日本陸軍参謀本部はマリアナ諸島爆撃計画「槌作戦(ついさくせん)」の発動を決意した。

 その準備として、陸軍特種情報部、現地の残直諜者、硫黄島の飛行部隊、海軍の潜水艦部隊などを通じて、予想飛行計画やB-29飛行部隊のコールサインなどを割り出しにかかった。

 自軍の情報統制も厳格に行い、作戦の全容を把握しているのは陸軍参謀本部でもごく僅かだった。

 また、実戦部隊である301大隊も訓練は北海道の千歳飛行場を拠点にして、極力人の目につかないようにしていた。


 そして1944年12月31日夜。

 「槌作戦」は発動される。

 301大隊は前日、千歳飛行場から厚木飛行場へ移動。

 31日深夜、301大隊は密かに厚木飛行場を出撃した。

 念入りな整備もあり、一機の脱落もなく部隊は飛行を続けた。

 漸く空が明るくなってきた頃、目標としていたマリアナ諸島が見えてきた。


 「全軍突撃セヨ」


 無線で飛行隊長が命令を下すと、301大隊は3つの小集団に分かれ、爆撃コースに入った。

 主目標はサイパン、テニアン、従目標はグアムである。


 この時、米軍はこの編隊を察知していながら、ろくに警報を発していなかった。

 原因は二つあった。

 一つは、この編隊を夜間飛行訓練を終えて帰投する味方機と勘違いしたこと。

 もう一つは、前日に硫黄島を目標に行われた航空撃滅戦で、日本軍飛行部隊に大打撃を与えたと評価していたことだ(事実、硫黄島の飛行部隊は壊滅状態になっていた)。


 そのため、301大隊の各飛行グループはさしたる抵抗を受けることなく、爆撃を開始していた。

 爆弾は、99式80番5号爆弾。

 砲弾が余っていた戦艦の40センチ砲弾を改造し徹甲爆弾としたものだ。

 それらがサイパン、テニアン、グアムの各飛行場に襲いかかる。


 この時不幸だったのは、今日予定されていた日本本土爆撃の為に、多くのB-29が掩体壕から出されていたことだ。

 予想以上に長引いた戦争を一気に終わらせる為、米国統合参謀本部は、同時多方面の爆撃計画を立案していた。そしてその中には、東京爆撃計画──砲身型原子爆弾「リトルボーイ」による──も含まれていた。あと2時間と少しで、計画は発動され、日本は新年早々大きな衝撃を被る、その筈だった。

 

 高高度から投下された爆弾が、飛行場に落下していく。滑走路には次々と大穴が穿たれる。B-29が1機、また1機と、自らの抱えた焼夷弾の誘爆で焼かれていく。

 特に、テニアン島は「リトルボーイ」搭載のB-29──エノラ・ゲイという愛称だった──が80番の直撃を受け、誘爆。たちまちキノコ雲が立ち上がり、三つの島の中で一番酷い有様になってしまった。


 こうして、独立飛行301大隊によるマリアナ奇襲爆撃は大成功を収めた。

 攻撃目標となったマリアナ諸島の各飛行場は基地機能を喪失しただけに留まらず、さながら地獄のような有様だった。

 爆弾の爆発と誘爆で起きた火炎が猛威を振るい、飛行場周辺を容赦なく炙っていく。消防車による応急消火も、もはや間に合わない。結局、この火災は3日間にわたり続く事になる。

 原子爆弾が炸裂したテニアン島は、僅か数秒の間に、ガラスも溶けるような超高温の熱線、コンクリート製の建物もなぎ倒す猛烈な爆風、そして目には見えない恐怖の放射線が飛び交い、キノコ雲が消える頃には瓦礫の山だけが残った。

 後に判明するが、放射線被爆によって、生き残った少なくない数の米兵、米軍属、日本兵捕虜が火傷、脱毛、脱爪、ガン、急性白血病など──まとめて原爆病と称された──に罹患していた。

 このことは後年、民間団体による原爆病訴訟という国家訴訟に発展し、日米両政府の頭痛の種の一つになる。

 


 そして、この作戦の結果は意外な効果を生んだ。

 なんと、ソ連が講和の仲介を申し出たのだ。

 マリアナ諸島グアム島に居たソ連の現地諜報員は、日本軍飛行部隊によるテニアン島の爆撃を見て──日本軍が原爆の開発及び実戦使用に踏み切ったと勘違いし──緊急報告としてモスクワに送ったのだ。

 この報告は、将来の対日参戦を考えていたスターリンを中心とするソ連指導部に衝撃を与えた。

 アメリカに対し外交ルートで情報の真偽を探ったものの、アメリカから芳しい報告を得られず(原子爆弾開発計画は、アメリカにとって最重要国家機密だったこともある)、どうやら本当らしいと勘違いしたのである。

 このまま対日参戦を行えば、甚大な損害を被るであろうことは間違いない(ソ連指導部は、関東軍の戦力を過大評価していた)し、今回の爆撃を実行した長距離機が仮に日本本土から飛来したものであれば、将来──対日参戦時にモスクワに対して戦略爆撃を行える機体が登場している可能性がある。

 スターリンはこう考え、軍事力による現状の変更よりも、むしろ「仲介者」として世界に対する指導力を拡大する方向にシフトチェンジした。



 1945年1月29日。

 マリアナ大爆撃からおよそ1ヶ月が経過しようとしていた頃。

 ソ連の仲介によりアジア・太平洋戦線は暫定的に停戦。

 翌月の2月14日、ソ連のイルクーツクで日本と連合国は停戦協定に調印した。ドイツのヒトラー総統は日本の裏切りを強く非難したが、日本はこれを一蹴した。




 停戦協定の内容は以下の通り。


一つ、日本の中国大陸(満洲国は含まない)からの完全撤兵。

一つ、満洲国の承認。ただし、関東軍は五年以内に撤兵するか、満州国軍の傘下に組み入れること。

一つ、中国大陸における正統政府は、中国国民の総意に委ねる。

一つ、マリアナ諸島及び太平洋諸島の非武装地帯化。

一つ、朝鮮、台湾、仏印、蘭印、ビルマ、インドの独立。

一つ、日本の民主化、憲法改正。これを監視するための国際監視団の派遣。

一つ、日本の軍備縮小。ただし、戦略爆撃部隊の保持は現状どおりで良い。





 こうして、イルクーツク停戦協定(のち講和条約化)によって、日本は終戦へとこぎつけた。

 しかし、これは一つの歴史の終わりであり、始まりに過ぎない。

 激動する世界情勢の中、今日も日本国防空軍・第301戦略爆撃航空団は、四方の海の防人として、雲海の上を飛行している。


*キ91・四式特殊爆撃機(四式特爆)


設計:川崎航空機

発動機:ハ214ル空冷星形複列18気筒

型式:4発

全幅48メートル

全長33メートル

全高10メートル

最大速度:時速593キロメートル

航続距離:9000〜1万キロメートル

上昇限度:1万3500メートル

武装:20ミリ連装旋回機銃×5

爆弾:800キロ爆弾×2


今回の物語、如何だったでしょうか。

今回の主人公、キ91試作遠距離爆撃機は(試作計画段階とは言え)実在しました。しかし、排気タービンの実用化失敗や軍の戦争指導の拙さ、大馬力エンジンの開発遅延、B-29による戦略爆撃などが祟り、ついに実用化されなかった幻の爆撃機です。

実際には無理でも、文字の上なら活躍させられる。これが架空戦記の醍醐味だと思います。今回は架空戦記としては2作目にあたりますが、存分に活躍させられたと感じています。

3作目は何にしようか。現在考案中です。

続報をお待ちあれ。


「2019/12/14追記」

貴重な感想・ご意見を元に改稿しました。

また、原爆と放射線被爆について書きました。

正直、これを書いてしまうことには自身の中で迷いがありました。

作中で「原爆病」という呼称があり、不快に思われる方もいらっしゃるかもしれないことについては、ここで申し訳ないと思っていることを追記します。

しかし、ある程度の現実味を持たせて書く上で、避けて通れないと判断しました。

これも歴史が違えば「あり得たかもしれない」史実として、歴史や核技術、そして戦争犯罪についての倫理観について、じっくり考える契機となれば、作者としても幸いです。

では。次作でお会いしましょう。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 読みました。 「鴉」格好良いですね。 幻の機体には胸が躍ります! [気になる点] 『この時不幸だったのは、今日予定されていた日本本土爆撃の為に、多くのB-29が掩体壕から出されていたことだ…
[気になる点] '45年12月31日に作戦決行して'45年1月29日に講和…とはいかに
[気になる点] 核爆弾って誘爆しましたっけ? 外部からの衝撃で破損したら計算狂って臨界できないかと思うのですが
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