七十六話 放たれた悪魔
「――よお。ちょっくら遊びに来てやったぜ?」
東京郊外にある地下一階のバー。
薄暗く怪しげな雰囲気のあるその店に、一人の男がカランコロンと扉を開けて入ってきた。
「ん? すまないがまだ営業中じゃ――って、誰かと思えばお前かよ」
「オイオイオイ。久しぶりに会ったってのに一言目がそれかよツレねえな」
男は言うなりズカズカと店内を進み、店長の目の前のカウンター席へ。
まだ夕方で開店時間の十八時にはなっていないが、男は気にする様子もなく、
「とりあえず酒だ」とぶっきらぼうに注文した。
対して店長は、やれやれ……といった表情を浮かべるも、グラスを取って男のために酒を作り始める。
そんな身勝手な客の名は――稲垣文平。
つい最近、去年の大晦日に迷宮刑務所を脱獄した囚人である。
ボサボサの黒髪オールバックに、特徴的な三白眼と二本の犬歯。
角ばったエラとガッシリとした顎は、どこかワニのような印象を見る者に与える。
またどこで手に入れたのか、格好はそれなりに一般人に見える黒のダウンジャケットとGパン姿。
態度に関しても、指名手配されたにもかかわらず、怯え隠れる様子もなく平然としていた。
「まさかあれだけ派手にやるとはな。世間様は『迷宮決壊』の危機の時以来の大混乱だぞ?」
そんな凶悪犯を前にしても、店長に動じる様子はない。
まったくビビらず冷や汗の一滴もかかずに、一般客と同じように接している。
……なぜなら、この店長。稲垣とは昔からの知り合いであり、ある意味、稲垣と『同類』でもあるからだ。
務所上がりの前科者。
ただし、稲垣とは違って元探索者ではないので、迷宮ではなく普通の刑務所ではあるが。
「フン、勝手に騒がせとけ。それより俺はどうしようもなく酒が飲みてえんだよ」
「へへッ、相変わらずだな。まあ、そのうち飲みに来るんじゃないかとは思っていたさ――ほらよ」
刑務所という禁欲生活で酒に飢えた客――否、『獣』に店長はバーボンのロックを出す。
瞬間。まだ氷など解けていないと言うのに、その獣は一気に飲み干してしまう。
「もう一杯、同じのだ」
「それはいいが……稲垣、お前金はあるのか?」
「オイオイオイ、俺を誰だと思ってんだよ? んなもんそこら辺のヤツから頂いたに決まってんだろ。俺に抵抗できるヤツなんざいねえぜ」
ニタァ、と犬歯を剥き出しにして笑い、稲垣は誰かのものだった長財布をカウンターに放り出す。
そして、出された二杯目も一気に飲み干すと、残った氷をバリバリと噛み砕きながら、
「俺は今でも探索者だ。こんなシケたオッサンの財布じゃたかがしれてるからな。また迷宮に潜って稼がせてもらうさ」
「迷宮……? 今や大量の警察やら『DRT』やらがお前を探しているってのに……入れるのか?」
店長のごもっともな問いに、稲垣は鼻で笑って答える。
「問題ねえな。たしかに出入り口にゃ邪魔くせえ監視カメラがついているが……装備で顔を隠しちまえばいいだけだ」
緊急の捜索態勢が敷かれているというのに――自信満々な稲垣の言い分はこうだ。
日本にある迷宮の数は百以上、その全てをきっちり警戒するなど不可能。
逆にこっちは潜る時間をせいぜい一、二時間程度にすれば、嗅ぎつけられる前に探索・脱出が可能となる。
潜る迷宮や時間さえ読まれなければ問題ない。
職員が監視カメラを確認した時には、すでにオサラバしているというわけだ。
少々どころか、だいぶ運任せではあるが……これが稲垣、凶暴な獣らしい考えだった。
「素材はギルドにゃ売れねえが、『闇ルート』なんざいくらでもあるからな。まだまだ需要と供給が釣り合ってねえってわけだ」
「へヘッ、なるほどな。ヘマさえしなけりゃ捕まらない、と。……けどよ、それだけじゃないんだろ?」
店長はキンキンに冷えたビールとつまみを出して、稲垣の次の言葉を楽しそうに待つ。
「……当り前だ。いずれ必ず『復讐』はさせてもらうぜ」
言って、稲垣の目に殺意が宿る。
モンスターを殺し続けたせいか特徴的な三白眼のせいか、常に鋭い目つきはしているが……それがさらに一段強まった。
その目の奥にいるのは、かつて己を刑務所送りにした一人の男。
二人の探索者を殺し、多くの一般人にケガを負わせて警察に追われていた頃に――運悪く出会ってしまった無気力な剣士。
日本の最強探索者の一人、『遊撃の騎士団』団長の草刈浩司だ。
高難度迷宮の下層で遭遇して、一騎討ちの末に稲垣は倒されていた。
しかも、トドメに関しては『峰打ち』。
稲垣は殺す気で挑んだにもかかわらず、あの腹立たしい『片手ポッケの構え』から、殺気の欠片もない相手に叩きのめされたのだ。
それが稲垣のプライドを大いに傷つけ、底なし沼のように深くて暗い、憎悪と殺意を持たせる事に。
敗北を喫した時も死刑宣告を受けた時も、刑務所内にいた時も脱獄して外に出てからも。
たったの一度たりとも、稲垣はこの屈辱の敗戦を忘れる事はなかった。
「だがまあ……俺もバカじゃねえ。まずは戦いのカンを取り戻す。それからヤツらと同じ『単独亜竜撃破』だ。そうして並んだ後は――ゆっくりメインディッシュで喰ってやるぜ」
獰猛に笑い、ちっとも可愛くない未来予想図を描く稲垣。
その顔も雰囲気も野望も、かつて『悪魔の探索者』と呼ばれた者に違わぬものだった。
「へヘッ、また世間様を騒がせるのを期待しているぞ。……ところで、そういやずっと気になってたんだが……どうやって脱獄したんだよ?」
グラスを拭きながら前のめりになり、今更感のある質問をする店長。
ただその質問は至極当然。
このご時世では別に探索者でなくとも、迷宮刑務所の厳重さを理解している者は多いからだ。
現実世界でも二次元の世界でも、特殊な能力があればそれを封じる手段もある。
【スキル】を無効化する『パルディウムガス』と、身体能力を抑制する『ネルシウムガス』――。
ぶ厚く硬い鋼鉄の壁や塀以上に、人外な探索者にとっては絶対的な効力を発揮するはずのものだ。
「なあに、簡単な事だぜ。――『血』だ。俺の中に流れるこの血で脱獄してやったのさ」
さっきまでの殺意が一転、稲垣は楽しそうに笑うと、一切の躊躇なく右手親指の腹を噛みちぎる。
すると、本来なら赤い血が出てくるはずなのに、
傷口からドクドクと流れ出てきたのは――『真っ黒い血』だった。
【スキル:悪血】
『『悪魔』のごとき力を得る。身体能力が大幅に上昇すると同時、人間の持つ力の制限も外れる。生命力も高まり、すぐに死なない限りはどんな過酷な状況にも適応できる。習得者の血は赤から黒に変色し、凶暴性が大きく増す』
――つまり、各種ガスを吸っても頑丈な『ミスリル合金製の扉』を破り脱獄できたのは、この【スキル】のおかげである。
『スキル封じ』という、ある意味最も過酷な状況に時間をかけて適応し、発動できるまでになったのだ。
おそらく世界で唯一、難攻不落の迷宮刑務所に抗える【スキル】だろう。
さらに言えばこの【スキル】、この血があるせいで稲垣という男が凶悪犯になったのは間違いない。
……まあ、元々この男の気性が荒く、学生時代からちょっとした問題児だったというのも大きく関係してはいるが。
脱獄してから約一週間。
入所時に【鑑定スキル】で視られているため、関係者はすでに脱獄の原因が【悪血】であると判断してはいるも……時すでに遅し。
『スキル封じ』にさえ適応するなど、誰も想像していなかったのが原因だった。
そんな関係者達の慌てふためく顔を思い浮かべながら。
稲垣はビールでノドを潤して、一気に空になったジョッキをダン! とカウンターに置いて言う。
「逃げ続けるだけなんざ性に合わねえ。潜伏期間はもう終わりだ。これからは遠慮なくやらせてもらおうか……!」
この話を書いていて痛感……。個人的には可愛らしい女性キャラより、悪党キャラの方が書くの難しいですね。
あとこういう極悪人って……何の酒が似合うのだろうか。