百五十六話 その命と引き換えに
後半から主人公視点に戻ります。
迷宮内が激しく震える。
地鳴りを上げながら縦に横にと不規則的に、迷宮自体が悲鳴を上げているかのように。
『上野の迷宮』一層。二人の男と一羽のミミズクだけがいる、巨大ホールと呼ばれる広場にて。
太郎のファンの男、堀田幹夫が力強く言い放った直後。
目から光を失い、足元から崩れ落ちた彼と入れ替わるように――『それ』は無から姿を現し始めた。
竜種・亜竜。
『門番地獄』で門番が現れた時とは違い、巨大な青白い魔法陣からは出てこない。
空間そのものが歪み捻じ曲がった事で。
突如として生まれた『異次元への入口』のようなものから、その圧倒的強者は頭から這い出てくる。
【スキル:亜竜召喚】
『習得者の命と引き換えに亜竜を召喚する。召喚される亜竜はランダム。わずかに習得者の思念を体に宿す』
かつて一度も発見された事のない、前代未聞な凶悪極まりない【スキル】によって。
もう亡骸へと変わった召喚者を背に、その巨体を支える四本の脚が『上野の迷宮』を踏みしめた。
――ズズゥン、と迷宮の震えとは別の重々しい足音と震動が響く。
だが竜種は竜種でも、その超重量な巨体には――肉や鱗は存在していなかった。
あるのは獰猛かつ死を予感させる牙と爪。そして鼻先から尻尾の先まで、体を構成する『骨』だけ。
朽ちて肉が腐り落ちた『アンデッド系』竜種。
体長は優に十メートルを超え、体高はおよそ三メートルを誇る。
ただアンデッド、いわゆる『スケルトン』のような骨は骨であっても。
亜竜という最強クラスの存在だけあり、とてもじゃないが普通では済まない。
一本一本の骨が柱のごとく太く頑丈なのは当然として。
鋭い爪や牙も含め、妖しげな『紫色』に全身の骨が光り輝いている。
まるで地獄の瘴気でも内包するかのように、派手な『禍々しさ』を持って周囲を強く照らしていたのだ。
この妖しい光を除いた姿形だけなら、どこから見ても博物館に展示された全身骨格標本なのだが……。
一体どうやって発光し、そして巨体を動かしているのか?
そう疑問を感じざるを得ないほど、召喚された亜竜の姿は異様だった。
……しかし、身がないからと決して侮る事なかれ。
『上野の迷宮』随一の広さを誇る巨大ホール。
この空間ですら収まりきらない、本体から垂れ流される濃密な死のオーラ。
紫に発光する朽ちた姿と合わせて、目の前の存在を『弱い』あるいは『死にかけ』と判断するなど、生物としての本能が死んでいない限りあり得ない。
まして数々の死線をくぐり抜けてきた一流の探索者ならば。
どれほど危険な存在であるか、本体を見ずとも空間が歪み始めた時点で察知できた。
こうして二人と一羽がいた巨大ホールから、一人と一羽と『一体』がいる戦場へ。
存在が一つ変わっただけで、空気どころではなく世界から変わってしまっていた。
――とにもかくにも、夢破れた一人の男の『命』と引き換えに。
恐ろしき竜種――亜竜『妖骨竜』は『上野の迷宮』に顕現した。
◆
「おい、ウソだろ……? 何の冗談だよこれ……」
驚きすぎると人は大声が出ないらしい。
俺は出現した亜竜を見て、その威容を確認して、体の芯から凍りついていた。
「あ、亜竜……『妖骨竜』……?」
同じく、突然の事態に右肩のズク坊も凍りついている。
【絶対嗅覚】を使ったらしく鼻をスンスンさせて、その正体を見破ると固まってしまった。
そりゃそうだ。
俺のファンという男、堀田幹夫を追いかけてきたと思ったら、
そいつはまさかの死ぬつもりで――いやもう『死んだ』のか。
骨だけの亜竜。
堀田が【スキル】で出現させたとされる、極太で鉄骨みたいに頑丈そうな、妖しげに光る骨の隙間から――仰向けに倒れた堀田の姿が確認できた。
「僕とコイツを踏み台って……そういう事かよ!? 何やってんだよお前ッ!」
俺の感情は、いつの間にか腹の底からの怒りに支配されてしまう。
噂に聞く圧倒的な存在。
まさしくファンタジーの代表格であるものを目の前にしても、恐怖を覚えつつもそれを上回る怒り。
【亜竜召喚】。
俺の聞き間違いでなければ、そして今見ているものが見間違いでなければ、
堀田幹夫という男は、自分の命を犠牲にトンデモないものを生み出したのだ。
俺が腹の底から怒っているのは、危険なモンスターである亜竜を残した事じゃない。
自分で自分の命を断ち、こんな迷宮内で自ら人生を終わらせた事に対してだった。
――グァルフゥウ……。
と、その時。
まだ三十メートルは離れた場所から、咆哮ではなく吐息のような音が響く。
そこから少し遅れて、どういうわけか骨だけのくせに、生温かい空気が俺達のところまで届いてきた。
「っはは……」
対して、俺は怒りがまだ収まらないながらも苦笑してしまう。
本気でエグイ。格が違う。……その二言に尽きる。
歩いた後は草木の一本も生えなさそうな凶悪な容姿と、死を臭わせる独特のオーラ。
コイツよりさらに上位、頂点捕食者の『竜』は岐阜で見た事があるが、あの時は遠くからというのもあって、
探索者としてやってきて二年間。
俺が相手にしてきた何千(何万?)のモンスターの中で、最も大きく凄まじい圧力を全身に受けていた。
前評判通り、青芝さんと共に戦った門番の王、ダンジョンキングよりも上。
いつの間にか掻いていた兜の下の冷や汗も、過去に記憶がないほどの量が額から流れていた。
これが竜種。これが亜竜。
……だがどうやら、その亜竜・妖骨竜の方は……まだ臨戦態勢を取っていないらしい。
圧倒的強者の余裕か? てっきり召喚されてすぐに襲いかかるかと思いきや、
歪みから出てきたまま、太い骨の首をゆっくりと左右に振って、周囲を観察でもしているようだ。
「……ズク坊、下がれ。今のうちだ。というかお前は逃げるんだ」
「ホーホゥ!? 何を言ってるんだバタロー! アレから逃げるなら一緒にだぞホーホゥ!」
「いやダメだ。あんなもん放っておけるか。どう動くかは全くの未知数――俺が足止めしてる間にギルドに報告してくれ!」
右肩からは飛び立つも空中で渋る相棒に、俺は強めの声で言う。
いくら【気配遮断】があっても、巨大ホールという広大な場所であったとしても。
未知の亜竜との戦いになれば、気配を消して離れていても安全の保証などできないだろう。
そして間違いなく、アイツを相手に庇う行為を一度でもしてしまえば。
郡山からさらに強くなり『四十八牛力』になった俺でも、即ピンチでヤバイ状況に陥ってしまうはずだ。
「で、でもバタロー……!」
「いいから行け! お前の相棒はそんなヤワじゃないっての。……それに何となくだけど、俺は堀田の想いに答えてやらなきゃいけない気がするんだよ」
言って、俺は即座に【過剰燃焼】を発動する。
理由は他でもない。
まだ相手が臨戦態勢に入っていなくとも、不気味な紫色に光る亜竜・妖骨竜を前にして、
通常の状態(四十八牛力)では、とてもじゃないが精神が不安に耐え切れなかったからだ。
「ぐぅ……分かった。なら俺は、俺の仕事をするぞホーホゥ!」
そんな俺の本気の戦闘体勢を見て、ズク坊はようやく納得してくれた。
『暴風のスカーフ』を巻いた真っ白い体を、空中でくるっと軽やかに反転させて。
振り返らずに、小さな背中を俺に向けたまま、
「すぐに必ず救援を向かわせるからな! それまで絶対に生き延びて――皆で一緒にクリスマス会をやるんだぞホーホゥ!」
「了解。まあモーモーと全力で頑張らせてもらいますって!」
言葉を交わし、俺達はそれぞれ行動に移す。
俺は巨大ホールを前進し、いまだ静かに鎮座する妖骨竜の方へ。
かたやズク坊は高速無音飛行で、巨大ホールを抜けて地上の出入り口を目指す。
――グァアルォオォアアア!
直後。
ズク坊が巨大ホールを飛び出し、俺と妖骨竜、そして召喚者である堀田の亡骸だけが残された瞬間。
不気味な紫色に輝く骨の竜は、待ってましたとばかりに垂れていた頭を上げて――今度こそ咆哮した。
「ッ……!」
その音と空気の震え、死のオーラが巨大ホールで反響する。
視界こそ妖しい光で確保されていても、逆にそれ以外の五感が、一斉に体の内から悲鳴を上げた。
『亜竜の威厳』。
召喚される直前と同じく、どこかで一度、感じた事があると思ったら、
かつて『単独亜竜撃破者』の柊隊長が見せてくれた、亜竜が本来持つというプレッシャーの類だ。
今この時、俺はたしかに理解させられた。
これから一人で挑む事になる相手は、想像以上に手強い存在であると。
「……けどまあ、それがどうしたって話だ」
郡山の『門番地獄』を抜けたあの日から、いつかは当たるかもしれない、とどこかで思っていたからな。
準備の方だって抜かりはない。
背負っていたリュック型のマジックバックを下ろし、さらに小さいポーチ型のマジックバックを三個ほど取り出して、それぞれ壁際の方へと放り投げる。
俺は自分でも驚くくらい、兜の下で大きく笑ってしまう。
これはただ好戦的なのとは違う、経験と自信に裏打ちされた笑みだ。
だから退かない。むしろまた一歩前にズシィン、と進む。
もはやモンスターというより『災厄』のような存在であろうと、妖骨竜の眼球のない顔で直視されて死をイメージさせられようと、
いつも通りに『討伐対象』として、俺は地面を揺らしながら距離を詰めていく。
予想外だが覚悟はしていた、過去最大級で激戦必至の命懸けの戦い――。
「――さあやろうか。俺なら相手にとって不足はないだろ亜竜様よお!」