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天網恢恢

作者: 月立淳水

 それは世界を揺るがすニュースだった。

 それを簡単に言うと、こうだった。


『重力が弱まっている』


 地球上の重力加速度が低下しているのが見つかったのだ。

 このとき、もちろんこれは科学界のみならずあらゆる分野にわたる大騒ぎになった。

 当初、起こっている事象の説明として三つの可能性があった。


 一つ目は、地球の自転速度が速まった可能性。

 二つ目は、地球の質量が減った可能性。

 三つ目は、重力定数が減った可能性。


 どれもありえなさそうな話だが、結局、起きた現象としてはひとつに絞り込まれた。


 まず、月や人工衛星の軌道が乱れていたという事実から、一つ目の可能性が排除された。

 残る二つを区別するのは難しかったが、実験室内で二つの鉄球の間に働く重力を計測することで簡単に決着がついた。


 二つの鉄球の間の重力が確かに減っていたのだ。


 つまり、重力定数がわずかに小さくなっていたのだ。

 しかし、地球の軌道そのものにはあまり大きな変化が見えないことが謎だった。どうやらこの現象は、地球周辺でだけ起こっているらしい。また、月の軌道への影響も、事態の最終段階に精密計測しなければ分からない程度であり、静止衛星への影響もかなり小さかったことから、影響範囲を表す球体の半径はせいぜい数万キロであろうと考えられた。


 この現象に一番最初に気付いたのは、航空業界だった。GPS航法が突如異常値を示したからだ。GPS衛星の軌道がほんのわずかずれただけだったが、その影響は顕著だった。

 それから、各種産業が影響を受け始めるまですぐだった。多くの時刻同期を必要とする情報通信システムがGPSに頼っていたため、そのズレを検知したシステムが停止し、大混乱を起こした。すぐに原子時計を基にした基準クロックへの切り替えが図られたが、その基準クロックを提供するシステムはずいぶん昔にGPSにとってかわられたことで規模が縮小しており、莫大な需要に即座に対応できなくなっていた。


 産業から発した混乱は経済をズタボロにし、学術界にも混沌をもたらした。ごくわずかな数の科学者たちが現象解明に乗り出し、ようやくいくらかが理解されたまでで、原因究明については全く手付かずに近かった。


 加えて、きわめて重大な問題が起こり始めていた。

 簡単に言うと、地球が膨らみ始めていたのである。


 あらゆる地殻に引っ張り応力が働くようになり、古い断層が活発化して小さな地震が頻発するようになっていた。

 さらには、多くの活火山が火を噴き始めている。何万年も前に枯れたはずの火山さえも煙を噴出し始め、世界中の空が灰で暗く覆われていた。


 事件の発覚からこの状況まで、わずか二ヶ月の出来事である。純科学的な現象解明よりも、まずは『地球膨張』の影響を調べて対策することが最優先された。


 多くの学者たちは、破局的な状況はまさにこれから始まる、と予想している。

 おそらくどこかのプレート境界でかつてないほどのエネルギーの地震が起こるはずである。そのエネルギーはいったいどこから湧いてくるのか? それはもちろん、重力定数を減じさせた『反重力エネルギーの井戸』からなのだが、もはや原因を探している場合ではなく、どこで破局的断裂が起こるのかを突き止め、一刻も早く住民の避難を始めなければならない事態だ。こうしている間も地殻には莫大な内部応力がたまり続けているに違いないのだから。


 そうしたパニックの中で、地質学者の桂谷も同じようにどこで破局が起こるのかを探す仕事をしていた。

 日本に住んでいる学者の責任は特に重い。世界でも類を見ないほど多くのプレート境界が集中した島の上に、世界有数の密度で人間が住んでいるのだから。万一ここで起こるのだとしたら、その被害は計り知れない。

 だから彼は何人かの学者と協力して、地震や火山の活動を注意深く分析していた。


 結局、それが日本で起こることはほぼ確実になりつつあった。

 役立たずのGPSを捨てると、地殻変動を観察するためのツールは地震計と古いやり方での測量しかない。大量のアルバイトを雇っての測量は技術不足で何度も失敗したが、集まったデータを何とか分析してみると、見事に日本が真ん中からぽっきりと折れる方向にひずみがたまりつつあった。


 この事実を、科学界はすぐに世界に公表した。

 多くの国は安堵のため息を漏らし、それから改めて、日本救援のための活動を始めた。


 そこまでのお膳立てが終わると、日本で研究していた桂谷のすべき仕事はほとんどなくなった。

 彼には確信がある。

 世界中が地震で震えているために正確な重力加速度の測定はほとんど意味がなくなってきていたが、それは相変わらず少しずつ減る傾向を見せていた。だから、仮に日本から逃げ出しても、今度は別のプレート境界で似たようなことが起こるだろう。次にプレートの真ん中が大皿を落としたように割れる大事件が起き、最後にはすべてのプレートが散り散りに割れて割れ目と言う割れ目からたぎった溶岩が流れ出し、すべての生命は消滅するだろう。


 彼はそう予想し、無益に逃げ出すよりは、この生命絶滅ショーをゆっくりと楽しもう、という気になっていた。

 この日も関東で震度5の地震が八回起きていたが、彼は日本中に設置した地震計のデータや断層データ、地殻データとにらめっこしていた。要するにただそれが楽しいからだ。


 そして、彼はおかしなことに気が付きつつあった。

 どうにも、偏りがあるのだ。


 断層やプレート境界などの影響を考慮した変異の発生率を考慮したとしても、日本の中心部だけが妙に発生率が高い。確かにそこから日本が折れると予想はしたが、日本の乗っているプレートの弾性モデルから導かれるひずみをやや上回っているように思えるのだ。

 これは、データ上はっきりしたことというよりは、桂谷の長年の勘から来る感覚に過ぎない。薄目で見るとそう見える気がする、という程度のものだ。他の学者は気付いていないだろう。


 彼は、その場所を目指すことにした。

 新幹線などとうに運行をやめているし、在来線などは日本から逃げ出そうと空港に向かう人で満杯状態が続いている。だから、彼は車にテントを積み込み、何泊かしながらゆっくりと向かった。


 たどり着いた場所は、岐阜県の飛騨山中。


 この辺りの断層のひずみが、どうもモデルからのずれが大きい気がする。

 起こっている地震の規模は小さい。小規模な地震が多発しているような形だ。震源も非常に細かく分散していて、あえて言うなら、地球の終焉の姿、地殻が粉々になった姿を先取りしているかのようだ。あたかも、ここに現象の中心があるかのように。

 桂谷が着いてからも小さな地震は繰り返したが、彼の車の運転に支障があるほどではなかった。車に乗っていれば気がつかない程度だったし、地震に対して鈍感になっているきらいもあっただろう。


 ――さて、ここまで来てみたが、何をしたものか。


 彼は心の中でつぶやき、峻険な山々を眺める。

 ところどころに地すべりなどの跡こそあるが、それでも美しい自然に囲まれた山地。


 無人になりかけた小さな町に差し掛かる。

 奥深い山にもかかわらず鉄道が通っていて、その駅名をちらりと見て思い出す。


 ――そう言えば、ここにはあの有名な実験施設があったな。


 地図を広げて見ると、その鉱山跡はすぐに見つかった。

 曲がりくねった狭い山道を走ること三十分、ようやく鉱山の入り口に着く。その某実験施設は、特に歓迎するわけでもなく、プレハブ造りの事務所を外にたたずませている。

 事務所を訪ねると、警備員が一人。


「私は地質学者の桂谷というものだが、ここは見学してもいいのかね」


 桂谷が訊くと、


「お約束があれば見学できますよ。最近はもう誰も来ませんが、夏休みになれば以前は毎日のように学生が見学に来ていたものです」


 警備員が答える。


「実は、約束はないんだが、取り次いでもらえないかね」


 あきらめて帰るという選択肢をうっかり忘れた桂谷は、せっかくここまで来たのだから、と頼み込んでみる。警備員はあっさりと電話を坑道深くの研究室につないだ。そして程なく。


「いいそうですよ、ではこちらの見学者バッジを胸につけてください。奥までは遠いので、車でお送りします」


 警備員は職場を放り出して、自ら車を運転して桂谷を奥深くに導いた。もし彼がテロリストだったらどうするのだろう、と思うが、地球破滅を目前にしてそのような心配は無用のものだろう。

 やがて坑道の内壁をくりぬいた実験室への扉が見えてくる。扉の前にはすでに一人の男が立っていて、見学者の到着を待っている。


「やあ、地質学者さんだと聞いて、面白そうだと思ったので。こんにちは、春野です」


 研究者、春野は、到着した桂谷に右手を伸ばす。


「こんにちは、突然すみません」


 挨拶を返しながら、桂谷は伸びた右手を掴む。


「ではどうぞ中へ――ああ、気にしないで、私のスリッパは癖みたいなもので、土足で結構。ここは昔から陽子崩壊を待ったりニュートリノを捕らえたりと最先端の物理の実験をしていて――なんていう説明は不要だったかな、おっと、そこ段差になってます、気をつけて。最近地震が多くて困ったものですが、地質学者さんにその辺の話なんて聞けると助かるなあ、なんて思っていたところでして――藤原君! お客さん! ――ああ、彼は助手の藤原君。今はたった二人ですよ、もう最先端物理は流行じゃないんですかね。さあどうぞこちらにかけて。コーヒーでも入れましょう」


 彼がこんな話をしながら桂谷を応接セットに案内している間にも小さな地震が起こる。


 ――ここ最近地震が多くて困っている、だって?


 なんとまあ。

 彼は、世界で起こっている大事をまるで知らないのだ。


 このままある日、破局的な地殻断裂に飲み込まれて何が起こったのかも知らずに人生を終える。

 科学者としてこれ以上の幸福があるものだろうか。

 うらやましい男だ。


 考えていると、春野教授はコーヒーカップを二つ持って戻ってくる。それぞれの前に置いて自分もそこに座った。


「それでどんな研究をされておいでで?」


 桂谷が尋ねると、春野は一度うなずき、笑顔を作った。


「さて、難しいですね。この宇宙が実は26次元だった、なんて説を聞いたことは?」


「寡聞にして」


 桂谷が答えると、そうでしょうな、と春野は再びうなずく。


「まあ難しい話はよしましょう。この宇宙は、実はとてもたくさんの次元が折りたたまれて、三次元だけがたまたま見えているという説です。残る23次元の中に、まだたくさんの知られざる宇宙があるのです。ここでは、そうした宇宙に干渉する実験をしているのですよ」


「つまり、異次元宇宙干渉機ですね」


「ふむ、これは上手い名付けをされてしまった。そのとおりです、異次元宇宙への干渉です」


 そして彼は、藤原助手を呼んで何かを持ってこさせる。それは手書きのグラフだ。


「見てください、このとおり、ここの線が滑らかでないでしょう。この滑らかでない部分は、異次元宇宙からの干渉の影響で生じるのです」


 春野は言いながらグラフを指でなぞり、それから、そもそもこのグラフはあれのこれのそれで……と長々と講釈を始めた。当然ながらそれを理解するための素養は桂谷には無いが、あまりに楽しそうなのでほうっておくことにした。

 一時間近く続いた講義の末、結局桂谷の頭には何も残らず、春野教授の満足だけが残った。


「や、これは貴重な時間をありがとうございました。大変勉強になりました」


 そろそろか、と思ってお世辞を言って桂谷は立ち上がる。


「いえいえこちらこそ。あ、そうだ、桂谷先生、聞こうと思っていたんです。最近この辺で地震が多いのは、いったい何なんでしょうね」


 春野のこの質問に、いいや分からぬ、と答えるのは容易だったが、なんだか春野だけが満足げなのが口惜しくなった桂谷は、ちょっとしたいたずらをすることにした。つまり、真実を教えてやろうというのだ。


「なに、どうやら、重力加速度が減ってるとか何とかでしてね、それで地殻が膨れているらしいのです」


 実に瑣末なことのように説明して、桂谷は去った。

 その後、それが彼らの中にどのような恐慌をもたらすのか、あるいは何も感じさせぬのか、想像を膨らませつつ、彼は口笛を吹きながらその施設を去った。


  ***  


「……藤原君、そう言えば、他次元への重力の漏れ出しと他次元からの重力の漏れ込みが不均衡だと言ってたね」


「あ、そうですね、たぶん、他次元宇宙の方が質量源が少ないんでしょうね」


「そうか。よし、実験はここいらで一旦止めよう」


「え、どうしたんですか教授、連続データができるだけ長く欲しいから途中で止めちゃならんなんて言ってたじゃないですか」


「ふむ、気が変わってね」


 言いながら春野は立ち上がり、実験装置の制御盤に向き合うと、干渉レベルを調節するつまみをぐいと回してレベルをゼロに落とした。


  ***  


『臨時ニュースをお伝えします。かねてから減少していた重力加速度の件ですが、本日、減少が止まり、徐々に回復傾向であることが発見されました。今後、完全に落ち着くまでまだ大きな地震の恐れがありますが、地殻の大破壊は完全に免れました。どうぞ、ご自宅で落ち着いて、現象の終息をお待ちください。耐震性の高い自宅にいれば安全です。どうぞご自宅にお戻りください』


 桂谷は、ふん、つまらん、とつぶやいて、臨時ニュースを繰り返すテレビの電源を切った。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ダイナミックな設定とショート・ショートらしいオチがうまくかみ合っていました。 特に、重力から地学につないでいく流れが面白いです。 重力の低下が圧力・融点の低下につながるという、リアルながら…
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