1 アリジゴク -3-
道端でこそこそと靴をはき、家まで急ぎ足で帰り着く。玄関のドアをくぐって中に入り、鍵をかけてようやく一息ついた時に携帯が鳴った。
父方の伯母さんからのメールだった。
『お祖母ちゃんが、この時間にあなたにメールをしろと言ったので送っています。
すべきことは分かっているでしょう、為すべきことをしなさい、とのことです。
クリスマスに来るのをみんな心待ちにしていますよ』
おおよそ、こんな感じの内容だ。
それを読んだ忍は。お祖母ちゃんには何でもお見通しなんだな、と改めて思った。
忍たちのお祖母ちゃんは。昔、小さな村の、祭祀をつかさどる家の出身だったそうだ。
お祖父ちゃんと結婚するまでは、神様をお祀りする巫女のような仕事をずっとやっていたらしい。
いろいろあって、その村はなくなってしまったそうで。それで、お祖母ちゃんは巫女の仕事をすっかりやめたのだが。
今も、お祖母ちゃんには不思議な力がある。
その力は。お祖母ちゃんが言うには『土地を離れ、人を離れたことでほとんど失われてしまった』そうだけれど。
それでも。お祖母ちゃんだけに見えるものが、確かにあり。そのことを、パパやパパの兄弟たちも、忍たち孫たちも。みんな知っている。
そして、その力の使い方を。お祖母ちゃんは時々、忍に教えてくれるのだ。
それは別段、特別なものではなく。気持ちを清らかに保つとか、他の生き物の気配を感じるとか、そんな感じのものだけれど。教わっていると忍は、自分の中でどんよりと濁っていたものが、綺麗に洗われていくような感じがする。
それを話した時、お祖母ちゃんは真面目な顔でうなずいて。
『そう。その感じを忘れてはいけないよ。いつもその状態を保つこと。それが何より大切なのだ』
と言った。
「あら、お帰り忍。早かったのね」
ママがキッチンから出て来た。
「お姉ちゃん、遅くなるって。先にご飯食べてようか」
「ウン。ちょっと待って」
忍は言った。
「着替えて、お祖母ちゃんにちょっとメールを打つ」
「お祖母ちゃんに?」
ママは不思議そうに聞き返す。
「何の用?」
「別に。クリスマス、楽しみにしてるから来てね、ってメールあったから」
「そう。忍はお祖母ちゃんのお気に入りだものね」
ママはそう言って、早く来なさいねと付け加えてキッチンへ戻った。
忍は、自分の部屋に入る。
着ていた服を、全部脱ぎ。そのまま、下着だけでベッドの上に座り、あぐらをかいて座った。目をつぶり、自分の呼吸の音を聞くことだけに集中する。そうしている内に。段々と、意識が研ぎ澄まされてくる。
メールの中の、『するべきことをしなさい』という、お祖母ちゃんの言葉。
それは、このことだと忍は思った。
お祖母ちゃんから教えられた、基礎であり一番大切なこと。
自分を研ぎ澄まし、その状態を保つことだ。
お祖母ちゃんに知られたら怒られるけれど。寮生活で、ちょっとサボり気味だった。
自分の内に潜っていく。体の隅々までの感覚を点検するように、ひとつひとつに意識を巡らせる。こごっているもの、淀んでいるものがあれば、それを解きほぐし流れを良くしていく。
鼻から気道、肺の中。そして、体のあちこちに。気持ちの悪い、黒い塊があるような気がした。
あくまで気がするだけで、そんなのは気のせいなのかもしれないけれど。それがあるだけで、とても気持ちが悪かった。
黒いモノを分解し、消し去り、清浄な流れを体に巡らせる。そのことだけを、ひたすらに念じ続け。塊ひとつひとつを、丹念に消していく。
全ての塊が消え。お祖母ちゃんが目の前にいたら『良し』と言ってくれるような状態になって、目を開けた時には二十分ほど時間が経っていた。
大変。ママがきっと怒ってる。忍はあわててベッドから降り、タンスから着替えを取り出して身に着け、大急ぎで伯母さんにメールを送る。お祖母ちゃんは自分では、携帯もパソコンも使えない。
「お祖母ちゃんに、ありがとうと伝えて下さい。クリスマス、楽しみにしています」
そんな文面。難しい文章を書いて、気持ちを伝えるのは得意じゃない。
脱ぎ捨てた服を持って、急いで部屋を飛び出した。
洗濯かごに入れてから、リビングに向かうと、ママが食事を並べたテーブルの前で。
「遅い」
と笑っていた。
「彩名ちゃん、何だって。もっとゆっくりして来ても良かったのに」
ママは気楽に、そんなことを言う。
「うん。ありがとう、って」
忍は。小さな嘘をつく。
こんな嘘は、また。彼女の中に小さなこごりを作っていくのだけれど。
今の忍には、そうする他にどうしたら良いのか分からない。
言わなくてもいい。そうすれば、ママも笑ってくれるし。
忍ももう、あんなことは何も思い出したくない。自分の家の中でくらい、厭なことは忘れていたかった。




