1 アリジゴク -2-
家の中は、静かだった。がらんとした中、彩名が見ていたバラエティの録画がけたたましい笑い声をまき散らしている。
「座んな」
彩名は命令した。
忍は。逆らうことが出来ず、ソファーに腰を下ろす。
空気が淀んでいる、と思った。何ヶ月も窓を開けていないよう。ひどく、息苦しい。
「私たちに内緒で、勝手によその学校に行ってさ。何、してるの」
「別に。普通だよ」
答える。
「女子校なんでしょ。どんな感じ?」
「どんな感じって言っても」
答えに困る。
「女の子ばっかりだよ」
「そんなの分かってるよ。バカじゃない、アンタって」
そんな風に罵倒されるのも。久しぶりだ。半年前まで、毎日毎日、浴びせかけられ続けた否定の言葉。
「お姉ちゃんがいるから。だから」
それだけを、絞り出す。
彩名はバカにしたように笑った。
「お姉ちゃん、お姉ちゃんって。アンタ、お姉ちゃんに頼り過ぎじゃない? 学年違うんだしさ、お姉ちゃんなんか何の役にも立たないよ。前から言ってるよね、もっと友達を大事にしな」
忍は黙り込む。
友達というのは。こんな風に、刺だらけの言葉と視線だけを投げつけてくる存在を言うものなのだろうか。
違うのじゃないか、と言いたいのに。言葉が口から出て来ない。
「まあ、いいや」
興味を失ったように、彩名は言った。
横を向き、置いてあった袋に無造作に手を突っ込んだ。
しばらくしてから、お香のようなものを一つまみ取り出し、テーブルの上に置いてあった煤だらけの灰皿の上に載せた。
「今、流行ってんの」
とだけ言う。
「アロマ?」
忍も、小さく訊ねる。
「それなら、うちの学校でも流行ってる」
「そう。それ」
彩名は笑った。
「ちょっと試していってよ」
机の上に置いてあったライターを手に取り、火をつける。炎が、赤い。
それを傾けて、灰皿の中に近付けた時。
「彩名。何してんの。客?」
と、声がした。
男の人の声だったので、忍はビクリとして振り返った。お父さんとお母さんが離婚してから、彩名の家に男の人はいないはずなのに。
隣りの部屋に続くドアの前に、若い男の人が立っていた。茶髪で、ピアスを付けた、二十代くらいの男だった。
ストライプのシャツの前ははだけ、裸の胸と腹がのぞいている。
「タケヒロ」
彩名は、少し厭そうに男を見た。
「友達。違う中学に行ったヤツ」
投げつけるように言ってから、忍のいぶかしげな顔を見て、
「ママの友達」
と、これも投げつけるような口調で言う。
それからもう一度、男の人に顔を向け。
「アレ。コイツと試そうと思って」
一度消したライターに、もう一度火をつける。
「ああ、あれか」
タケヒロという男は、それを聞いて笑った。
その笑みが、とても厭だと。なぜだか、忍は思った。
「いいよ。やれば」
彩名も笑った。
火が。つく。お香から、煙が上がる。
「何、コレ」
忍は咳き込んだ。とても厭な臭いだった。
学校の寮ではやっているものとは違う。
これは、いけないものだ。
頭の奥で、警報が鳴る。勢いよく立ちあがり、廊下に向かおうとする。
その肩をつかまれ、強引に座らされた。
「どこ行くの、お嬢ちゃん。帰っちゃダメだよ。今、おもてなしの最中なんだからさ」
タケヒロという男が、忍を押さえつけ、笑った。
忍は。鼻と口を押さえ、少しでもその煙を吸わないようにする。
「何やってるの。大丈夫だよ、別に害はないから。ヘンな臭いなんかしないだろ。ちゃんと嗅げよ、すごくリラックスして、気持ち良くなるからさ」
肩を押さえる力が強くて、動けない。男は灰皿をつかみ、それを忍の顔の前に近付けた。
「ほら。大丈夫だって言ってるだろ」
その口調と表情が。言葉を裏切っている。
良くないものだ、という直感はますます強くなって。忍は必死で顔を背ける。
「素直じゃねえな」
男の口調が乱暴になった。
「彩名、コイツの顔を押さえろよ。無理やり吸い込ませてやる」
二人の姿が。黒い影に、包まれて見えた。
それはとても不吉で、恐ろしくて。いけないモノだった。
「いや!」
忍は必死で腕を振り回した。
それが。灰皿に当たった。
下から叩きつけるような具合になって、灰皿が跳ねあがり。中のお香が、タケヒロという男の顔に当たる。
「うわ、あっちぃ!」
「やだ、タケヒロ。大丈夫?!」
彩名の悲鳴が上がる。
「大丈夫じゃねえよ……。それより、そのガキ逃がすな」
その声が聞こえた時には。忍はもう、玄関まで走り抜けていた。靴を手に取り。それをはく暇も惜しんで、とにかく家の外に飛び出す。
裸足で坂を駆け下りて、ようやく人の多い通りにたどり着き。来た道を見上げたが、誰も追いかけてくる様子はなかった。
手に靴を持って、靴下だけで立っている忍を、通り過ぎる人たちが不思議そうに見ていた。




