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花園で笑う  作者: 宮澤花
エピローグ
210/211

4 墓地の時雨 ~千草 -3- 


 雨はあっという間にひどくなった。フロントグラスの上を水滴が流れていく。

「こんなことを言ったら、君にも恭祐にも怒られてしまうと思うけど」

 薄暗い車内で、克己さんがぽつりと言った。

「僕はあの時、本当に嬉しかったんです。血を流して倒れているのが、君ではなかったと分かって」


 あの日の光景。血だらけで倒れた妹の姿を思い出して、私の胸は冷たくなる。

 でも克己さんは優しく穏やかに、少しすまなそうに言葉を続ける。

「忍ちゃんが、君にとって大切な妹だということは分かっています。いや、誰だって誰かにとっては大切な人なんです。でも僕はあの時、ホッとしてしまった。君じゃなくて良かったと、それしか考えられなかった。僕は」

 とても哀しげに、ため息をつく。

「忍ちゃんに、お義兄ちゃんと呼んでもらう資格はなさそうです」


 イヤ、忍は一度もあなたのことをそんな風に呼んだことないと思いますが。

 でも、まあ。それはともかく。


「彼女は見るだけで役に立たない僕とは違って、『原因』を見付けてそれに立ち向かう力があるようですね。忍ちゃんの捨て身の行動がなければ、多分運命は変わらなかった。あの女は君を殺し、他の少女たちも手にかけたでしょう。だから、あの子が血を流して倒れているのを見た時、僕は感謝の念しか抱けなかった。恭祐に怒られなかったら、彼女を助けなくてはいけないということにも気付かなかったでしょう。彼に怒鳴られて、それに気付いた時は少なからずショックだったんですよ」


 茶色い瞳が薄暗闇の中、私を見つめる。

「僕はこの目で見える未来を変えたくて、ずっとずっと昔からあがいて来ました。それなのに、未来が変わった現場で僕が感謝したのは、たった一人の女の子の無事にだったんです。目の前に血を流して倒れている人がいるのに、すぐに手当てが必要な状態なのに。その子が傷付いていることも、僕の失敗のはずなのに。それがちっとも気にならなかったんです」


 大きな手が運転席から伸びて、私の髪をそっとなでる。

 その指は、髪から耳朶を。耳から頬を。ゆっくりとたどっていく。

 指先の熱さが肌を通り抜け、骨まで燃やすようだ。


「本当に困っているんですよ?」

 雨音の中、彼は苦笑する。

「君だけが無事で、それで満足してしまうのだったら、これから誰かの未来が見えてしまった時にいったいどうしたらいいのか想像もつきません。事務所を畳んだ方がいいのかな、とさえ考えているくらいです。だって見知らぬ誰かの命は、結局のところ僕にとって大した意味はないって分かってしまったんですから。それなのに、この先どうやって他人のために奔走しろというんです?」

 そんなこと。私に聞かれても困る。


 という本音が表情に出たのか。

「こんなこと言われても困りますよね。頼りない男ですみません」

 彼は手を引こうとする。

 それで、つい。その手をつかまえてしまった。

「あの。それで、いいと思います」

 何も考えないまま衝動的に、思い浮かんだことを口にする。


「克己さんは神様から人の運命まで背負わされて、とても大変だと思いますけれど。でも、それに責任を感じ過ぎなくてもいいと思うんです」

 私の頬に触れる指を。離さないで、とでも言うようにしっかりと握りしめて。

 私は理屈の通らないことを言い続けている。

 そんなの、ちっとも自分らしくなくて。言っている自分自身もとまどっている。


「克己さんは、その力で手の届く人を助ける。それだけで十分、神様の御心に叶っている。つまり、そういうことなんだと思います」

 忍だって、そんなに難しいことは考えていないと思うのだ。何と言ってもまだ中学一年生だし。

 無茶をしたことを、私は泣いて責めたけれど。あの妹と来たら、

『お姉ちゃんを助けたかったから、夢中で』

 なんて笑うのだから腹が立つ。

 でも、きっとそれで十分なのだ。


 見たこともない誰か。その運命を背負わされるのは、誰にだってきっと重すぎる。

 ずっとそんな重荷を負ってきたこの人が正しく報われることを、私は今、望んでいる。

「あなたが誰かを救おうと動かなかったら。私たちは誰も知り合わなかった」


 克己さんと私も。忍と十津見も。互いを知らないままに別々の人生を生きていたはずだ。

 そうしたら運命はどんな風に転がって行ったんだろう?

「だから、克己さんはちゃんと私を守ってくれたんですよ?」


 いつから。どうして。

 こんなにしてまで私はこの人の手を離したくなくなっているのか。

 分からないけど、それはそれでいい。

 私にだって、一生に一度くらいはこういうことがあってもいいと思うのだ。

 理屈も損得も抜きで、誰かに傍にいてほしいと思うことが。



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