3 目に映る世界 ~忍 -1-
退院を間近に控えた日曜日の午後、彩名からのメールを読んでいると十津見先生がやって来た。
先生は仕事のある日もお休みの日も、毎日顔を出してくれる。休校中でも先生たちは忙しいらしいのに、ありがたい。他の生徒たちに配られた課題も、全教科分持って来て渡してくれた。
「明日から学校が再開するが、提出する物の用意は出来ているか?」
挨拶をする前に聞かれた。とても先生らしいと思う。
「はい」
忍は用意しておいた封筒を取り出す。頑張って課題は終わらせておいた。
「いつもありがとうございます」
先生は軽くうなずいて、封筒をカバンにしまった。
そのまま、しばらく二人とも黙っていた。先生は買ってきた烏龍茶を飲んでいる。
「友人と連絡は取っているのか?」
ぽつりと聞かれた。忍はうなずいた。
ひかりちゃんや都ちゃん、間島さん(今は美空さんと呼ぶことが多くなった)とは、LINEで毎日やりとりをしている。
クラスや寮の他の子も、時々メールで『大丈夫?』と様子を聞いてくれる。
お姉ちゃんの話では、忍たち二人が朝倉先生と大立ち回りをして殺人を止めたことになっているらしい。
古川さんと星野さんからまで『夏希のために戦ってくれてありがとう』なんてメールが来たりして、忍はちょっととまどっている。
あの時の忍はただお姉ちゃんを助けたかっただけで、小林さんのことまで考えている余裕はなかったから。
お姉ちゃんに相談したら、『そんなことわざわざ言わなくていいのよ、恩に着せておけば』と言われたけど。何だか申し訳ない気がしないこともない。
「……でも、今は彩名ちゃんからのメールを見ていました」
忍は言った。
彩名とは事件の後、今までよりも頻繁にメールを交わすようになった。お互い違う病院に入院したままで、顔も合わせていないのだけれど。
「筧彩名か」
先生は眉間にしわを寄せる。
「施設に行くことになったようだな」
忍はうなずいた。
彩名のお母さんは、タケヒロと一緒に『児童虐待』で逮捕された。身寄りがいなくなった彩名は、退院後は養護施設に行くことになったらしい。
別れたお父さんや親戚からも一緒に住まないかと言われたけれど、彩名は全部断ったそうだ。
『今は、知らない他人の中に行った方がいい。知ってる人たちからカワイソウって思われながら暮らすなんてゾッとする』
そう、彩名はメールに書いていた。
その気持ちは少しだけわかるような気がした。
彩名の赤ちゃんは結局助からなかった。九週間という短い命を彩名のおなかの中で終えた。
お母さんの彩名に抱いてもらうことも、この世界を見ることも出来なかった。
しかもその理由は、お父さんであるタケヒロが彩名のおなかを蹴り、おばあちゃんに当たる彩名のお母さんが彩名を階段から突き落とした、そのせいなのだ。
それは彩名にとっても赤ちゃんにとっても、すごく悲しいことだと忍は思う。
自分と同じ中学一年生で、そんな壮絶な体験をした彩名。
周りの人だって、どういう風に彼女に接したらいいか困ってしまうだろう。
だけど忍はあの時、彼女の傷に触れたから。
好きだった人に殺されようとしていた、彩名の悲しい顔を見てしまったから。
今はただ傍に寄り添いたい。そう思う。
『ずっと、消えちゃえばいいって思ってたの』
メールが打てるようになってすぐに、彩名から来たメール。
そこにはそう書いてあった。
『すごく怖かった。いつも、おなかの下の方に何かがいるって気配があるの。分かるの。怖くて怖くて、間違いだったらいいって思った。そうじゃないって分かってからも、消えちゃえばいいってそればっかり思ってた。それで、一人で怯えてるのがどうしても我慢できなくなって、ママとタケヒロに言ったんだけど』
その結果は無惨だったのだと、忍も知っている。
誰一人、味方になってくれる人がいない世界。それがどんなに寂しく心細いものかは想像して余りある。
『でも本当に消えちゃったら、何だか空っぽなの。もういないんだっていうのがハッキリ分かるの。この前まで、私の中にいたのにさ。もう、どっかに行っちゃったんだね。ていうか死んだんだよね。赤ちゃん、私だけが頼りだったのに、私、ちゃんと守れなかったんだって思った。……私が消えちゃえって思ってたから、その通りになっちゃったのかな。そんなの、私を階段から蹴り落としたママと変わんないじゃんって思うと、すごいヘコむ』
忍は、おへその少し下をそっと触ってみる。
救急車で搬送されるとき、彩名が押さえて苦しがっていた辺りだ。
自分ではない、他の生命が……そんな感覚は、忍にはまだ想像もつかないけれど。
「どうした。痛むのか?」
先生が心配そうに声をかけてくれる。
忍は首を横に振った。
「彩名ちゃんの赤ちゃん、可哀相だったなって思って……」
「ああ」
先生は興味を失ったように言う。
「しかし、産まれたとしても育てることも困難だっただろう。冷たいようだが、こうなって良かったのではないか」
忍は、それには簡単にうなずけない。
「でも。彩名ちゃんの中で生きてたし、生きたかったんだと思うんです。彩名ちゃんも、気付くのは遅かったけど、きっと」
産みたかった。ママになりたかった。自分の中の命を守りたかった。そうだったのだと思う。
「さあ。その辺りは、私は男だから想像もつかないが」
先生はとまどった顔で言う。
「気持ちだけあっても、子供を育てるのは簡単なことではないだろう。筧彩名という少女に、誰の助けもなくそんなことが出来るとも思えない。もし健康な子を産んだとしても、結局は里子に出すしかなかっただろう。だから、そもそも」
彩名ちゃんと、赤ちゃんは一緒にいることは出来ない運命だった。
先生はそう言うし、それはそうなのだろうと忍も思う。
それでも、それは。
とても寂しく、哀しい結末だと思うのだ。




