8 厭な予感 ~忍 -6-
「し、失礼、雪ノ下」
先生があやまる。唇が忍の頬に触れそうだ。
「北堀! いきなり何をするんだ、車を停めろ」
「悪いが出来ない。次の信号まで待ってくれ」
北堀さんはそう返事をした。
「妻のピンチだ。そうなんだろう、忍ちゃん?」
「はい」
忍はうなずいた。
「そういうことだ。しばらくそうしていてくれ」
「待て、次の信号までと言われても、この体勢は」
北堀さんがアクセルをさらに踏み込んで、黄色に変わった信号を突き抜けた。
その拍子に先生の体が、ますます強く忍の体に押しつけられる。
「北堀! 停まる気ないだろう。三十秒でいいから停まれ」
先生がわめくが。
「すまないが、そんな余裕はない。しばらく我慢していろ」
「ふざけるな。こんな体勢ではその、雪ノ下も困るだろう」
先生は困惑したように近い位置から忍を見て、すぐに目をそらす。
「忍ちゃん。何か問題があるか?」
北堀さんに聞かれた。
「ありません」
忍は答えた。
「大丈夫です。困りません」
「雪ノ下、君」
先生が愕然とした顔で言う。北堀さんは硬い表情のまま少しだけ笑った。
「聞いたか恭祐。やっぱりこういう時は女性の方が肚が据わっているな。女性に恥をかかせてはいけない、観念してそのままでいなさい」
北堀さんは乱暴にハンドルを切る。スピードもすごく出ていると思う。
椅子に座っている忍でさえ体が左右に揺すぶられる。中腰のままの先生は余計に大変だろう。
「いや、待て。雪ノ下忍、君、意味を理解していないだろう?」
そう聞かれて。
「何がですか?」
と忍は首をかしげる。
「あの、ちょっと重いけど大丈夫です。先生の方が辛いと思いますけど、ごめんなさい、ちょっとだけそのまま我慢していていただけませんか?」
「がま……いや、君、本当に」
「本当に大丈夫です」
それを聞いて先生は、大きくため息をついた。
「雪ノ下忍。ひとつ教えておくが、こういう状況でそういうことを口にしてはいけない」
忍はきょとんとする。大丈夫って言っちゃいけないんだろうか?
もしかして先生は、忍が北堀さんに気を遣って無理してると思っているのかな。
「あの。本当に大丈夫です。無理していません。あの、こうしてるのイヤじゃありません」
「黙りなさい。もういい、一言もしゃべるな」
先生はすごく不機嫌に、すごく怖い声で言った。
「もう一度言っておくが。雪ノ下、君。そんな調子ではいつかとんでもなく危険な目に遭うぞ。もう少し賢くなりなさい」
「え、はい、あの」
忍はつい聞き返してしまう。
「あの。ごめんなさい。よく分かりません」
「あー、それは」
先生は少し口ごもってから。
「この状況でそんなことを言う子供には、まだ知る権利がない話だ」
また不機嫌な口調で言った。
忍は首をかしげる。
先生の言うことは、普段はハッキリしていて分かりやすいのだけれど。
今の話はよく分からない。子供には知る権利がないけれど、もっと賢くならないと危険な目に遭うことって何だろう?
何が危ないのかはっきり教えてもらえないと、分からないのだけど……。
「忍ちゃん」
車をものすごい勢いで走らせながら、北堀さんが固い声で言った。
「僕には近しい人の未来は見えない。僕に見えるのはいつだって、どこの誰とも知れない他人のことだけだ。でも君は違うようだね」
忍はうなずく。
「あの、こういうことは初めてなんですけど。でも多分、きっと……」
「うん。君がそう言うなら、きっとそうなんだろう。でも、それは辛いね」
そう言われて、忍は意外な気がした。
「それはきっと、すごく重いことじゃないかと僕は思うよ。僕が君なら、そんな力には耐えられないかもしれない」
忍はゆっくりと首を横に振った。
「大丈夫です。これは、そのための力ですから」
大切な人たちを。大切な場を。守るための力。
忍がお祖母ちゃんから継承したのはそういうものなのだ。
だから。
それを重すぎると思うことは、多分この先もない。
「そうか」
北堀さんは言った。
「君は強いね。忍ちゃん」
そんな手放しの賞賛を、忍は生まれて初めて受けた。
なんて答えたらいいのか分からなかったけれど。
それはあまりまっすぐだったから、そのままに受け止めて。
「ありがとうございます」
ただ微笑ってそう言った。




