8 厭な予感 ~忍 -4-
病院の売店で先生が忍に飲み物を買ってくれた。それを持って駐車場の北堀さんの車まで行く。その中で買って来てもらったものを食べた。忍はBLTサンドをもらった。
「雪ノ下千草は来なかったのか」
「すぐ帰るし、別に必要もないだろう? 彼女も疲れているから休ませてあげたい」
前の席で先生と北堀さんが話している。
先生に北堀さんの後ろの席に座れと言われたが、やっぱり何となく落ち着かない。先生の後ろの方が良かったなあと思う。
まだ車は出さない。北堀さんは、先生と忍が食事を終えるのをのんびりと待っている。手持無沙汰そうに、自分でも焼きそばパンを手に持って食べ始めた。
考えてみると、昨夜もほとんど何も食べていなかった。
事件のショックと、長い長い警察の事情聴取で食欲なんかなかったけれど。
一夜明けてみれば、こうやってちゃんとおなかが空いている。それは何だか殺されたお姉さまに、とても申し訳ないことのような気がした。
「忍ちゃんは」
急に名前を呼ばれて、びっくりした。
「北堀。何だ、その呼び方は」
先生がギロリと北堀さんをにらむ。
北堀さんは焼きそばパンをもぐもぐ食べながら、どうでも良さそうに返事をした。
「いいじゃないか。千草さんの妹なら僕の妹も同じだ。僕は末っ子で、下の兄弟がいなかったからそういう存在は嬉しい。そして弟でなく妹だったことは更に嬉しい。だから名前で呼んだって別にいいだろう?」
「良くない。お前が雪ノ下千草と結婚しようが勝手だが、彼女とは他人だ。なれなれしく名前で呼ぶな。せめて本人に了承を取れ」
また言い合いになっている。
「分かった、分かった」
北堀さんはうんざりしたように手を振る。そして後部座席の忍を振り返った。
「君、僕が『忍ちゃん』と呼んでもいいですか? 彼もうるさいし無理強いはしません。厭なら厭だと言ってくれて構わない」
忍は困った。
確かに、よく知らない人から急に名前で呼ばれるのにはとまどうが。
お姉ちゃんと結婚する人なら、『君』とか『千草さんの妹さん』とか呼ばれるよりは名前で呼んでもらった方がいいのだろう。きっと。
「あの……別に、かまいません」
忍は蚊の鳴くような声で言った。先生がすごい顔になって忍を見る。北堀さんは満足そうに微笑んだ。
「僕のことも名前、または『お義兄ちゃん』でいいですよ。いい響きだなあ」
嬉しそうに言う。そんなことがどうして嬉しいのか、忍としては不思議だ。
「君、考え直せ。こんな男を喜ばせてやることはないぞ」
先生が言うが。
「不粋だなあ、君は本当に」
北堀さんがそれを遮る。
「名前で呼び合いたいなら、君も頼めばいいじゃないか。楽しいぞ」
「ふざけるな」
先生はうなるように言って、顔を真っ赤にした。
「生徒とそんなことが出来るか。常識を考えろ」
「なんで出来ないと決めつけるのかなあ」
北堀さんは不思議そうに言った。
「頼んでみれば忍ちゃんは『いいよ』と言うかもしれないじゃないか」
「そんな話はしていない。もう一度言うぞ、常識を考えろ」
「自分のやりたいことの妨げになる常識なんて必要ないと思うけれどな」
「全員が好き放題をやったら社会が崩壊するだろうが。少しはものを考えろ、常識というのはそのためにあるんだ」
「つまらないなあ。君は本当につまらない男だ。ねえ、忍ちゃん。そう思わないか?」
先生と北堀さんの会話はヘンだ。そう思っていたところに急に話を振られて、忍はびっくりする。
「あ、あの、ええと」
北堀さんの、こちらをまっすぐに見る茶色っぽい瞳は苦手だ。
忍はそれから目をそらし、先生の眼鏡の向こうの細く鋭い黒い瞳を見てやっと少し安心する。
「あの。私は、先生のおっしゃることの方が正しいと思います」
小さな声で言う。
北堀さんは、とてもつまらなそうな顔になった。