8 厭な予感 ~忍 -2-
全部終わった頃にはお昼をだいぶ過ぎていた。
朝ご飯も食べないで出て来てしまったので、気付くとおなかが減っていた。
会計をしようとして、先生は困った顔になった。お財布を忍の家に置いて来てしまったらしい。
「ちょっと待ってくれ。今、人を呼ぶ」
病院の人に言って、北堀さんに電話をかけてお金を持って車で迎えに来てくれるように頼む。北堀さんはちょっと文句を言っていたみたいだが、
「大丈夫だ。迎えに来る」
電話を切った先生はホッとしたようにそう言った。
「あのう。お姉ちゃんも来るんでしょうか」
忍は心配になって、そう聞いてみた。
「知らないな。北堀は何も言っていなかったが。君の姉が来ると何かまずいのか」
冷たく聞かれて、忍は赤くなる。
「あのう。お姉ちゃん、きっと怒るだろうなと思って」
「怒られるのは当たり前だ。私も怒っている。あきらめてちゃんと叱られなさい」
そう言われて忍はびっくりした。先生が怒っているなんて思っても見なかった。
「意外そうな顔をしているな」
先生は不機嫌に言った。
「誰にも相談せず勝手に行動した挙句、あんな危険な目に遭っておいて誰にも怒られずに済むなど、そんな都合のいい話があるか。腹が立ちすぎて言葉も出て来ない。君はもう少し賢い生徒だと思っていたぞ」
そう言われて忍は、心臓をギュッとつかまれたような気がする。
先生に嫌われてしまったら、見捨てられてしまったら、どうしたらいいのか分からない。
「ご、ごめんなさい」
震える声でそう言った。
「ごめんなさい、先生」
怖かった。
あの男に殴りつけられた時よりも、今の方がずっと怖かった。
「たっぷり反省しなさい」
先生は冷たく言った。
「あんな、中学生を妊娠させるような男に組み敷かれて。こちらの神経が持たない」
忍は恥ずかしくて、顔が上げられない。
先生は今、どんな顔で忍を見ているのだろう。
「ごめんなさい」
ただ、それしか言えない。
ため息が聞こえた。
「私は、君からもう少し信頼されていると思っていたが。危急の際に相談する価値もない相手だと思われていると知って、少なからず落胆した」
忍は驚く。
そんな。そんなこと絶対にないのに。
「あの。そういうわけじゃないです」
忍はただ、先生に迷惑をかけたくなくて。
「否定しても無駄だ。君のやったことはそういうことだ」
先生の声は厳しい。
「ひとりで何でもできると思ったか? 私の忠告を全部無視してひとりで勝手に行動した結果、自分がどうなるところだったのか考えてみなさい。あんな男に好きにされるのが君の望みか? だとしたら、私は余計なことをしたというものだが」
忍は黙って首を振った。そんなこと望んでない。
何とかあれだけで済んだけれど。男の人の力は、女の子に殴られたり蹴られたりするのとは全然違う。あの人にもっと殴られたりしていたら、どんなに痛かったことだろう。
あの人は、忍一人でも『解体』できたかもしれないが。
もしそうでない人が待ち構えていたら、今ごろ自分はどうなっていたか分からない。それは本当に、先生の言うとおりだった。
「ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったんです」
うつむいてしまう。自分の膝と先生の膝しか見えない。
「口で謝るのは簡単だな。君は私を信頼しなかった。そういうことだ」
「違います」
「違わない」
「あの、私」
冷たく拒絶されて、忍は膝の上でぎゅっとスカートを握りしめる。涙がこぼれそうになるのを懸命にこらえる。
「学校のことじゃないし。先生に迷惑はかけられないと思って」
「成程。学校のことではないから、私に相談するべきではないと」
忍の言ったことをそのまま繰り返した先生の声は、とても冷たかった。
「つまり、君と私の関係は業務でのみのつながりということだな。承知した、以降はそういう風に理解しよう。残念だな、君とはもう少し人間的な信頼関係が築けていると思っていたが」
忍は辛い気持ちになる。先生をがっかりさせてしまったのだ。
先生は忍を信頼してくれていたのに。自分の軽はずみな行動がそれを台無しにしてしまった。
つながっていた糸を自分の手で切るようなことをした。先生は忍を信頼してくれていたのに。
単なる先生と生徒じゃない、そんな関係が築けていると思ってくれていた、そう言ってくれてるのに……。
不意にその意味に気付いて、忍はパッと顔を上げる。
不機嫌そうにこちらを見ている先生と、まっすぐに目が合った。




