5 影をほどく ~忍 -4-
忍は横の壁に叩きつけられた。
痛い。穂乃花お姉さまに蹴られた時よりずっと痛い。
「彩名あ。何、トモダチ呼んでんだよ」
男の人の声。あの、タケヒロという人が目の前にいた。
細い目がつり上がっている。とても怒っているようだった。
「おとなしく死ねって言っただろ。何やってんだよ」
バスルームに踏み込んできたその人は、ぐったりして動かない彩名の肩を蹴りつける。
「てめぇも、何、勝手に人の家に入って来てんだよ、ガキィ」
にらまれた。
「関係ねぇだろ。けーさつ呼ぶぞ、けーさつ」
忍はごくりと唾を飲み込む。
怖かった。この人は、彩名ちゃんの好きな人のはずなのに。どうして死ねとか恐ろしいことを言うんだろう。
好きな人にそんなことを言われてしまったら、彩名にはもう居場所がなくなってしまうのに。
忍の目には、タケヒロという男の全身が黒いもので覆われているように見えた。
小林さんや穂乃花お姉さまを包んでいたのと似ているけれど。
もっと禍々しくて、もっと激しく渦巻いていて。金属の冷たいにおいが強くした。
「あの。でも」
小さく息を吸い込んでから忍は言った。
「彩名ちゃん、ケガが。救急車呼ばないと」
黒い影は嗤ったようだった。
「いいんだよ。堕ろせつったら死にたいって本人が言ったんだから。勝手に死なせてやればいいだろ」
その言葉に、忍の胸の中で何かが弾けた。
「彩名ちゃんが死にたいのは、貴方のせいです」
気が付くとお芝居のために練習した腹式呼吸で、自分とは思えないはっきりした声で忍はそう言っていた。
「彩名ちゃんを追い詰めたのも、背中を押したのも貴方です。貴方が彼女を殺すんです。そうでしょう」
黒いモノが渦巻く。いっそう禍々しい形になる。
「クソガキ。ナマ言ってんじゃねえよ。その制服、百花園か。ヤク漬けのエンコーやりまくりかよ、それとも処女か? どっちにしても」
黒い手が伸びて忍の腕をつかみ。
ぐい、と強く引いた。
「俺が犯してやるよ。彩名みたいに男なしじゃ眠れないエロい体にしてやろうか、おい」
バランスを崩してその場にしりもちをついた忍の上に、黒い男が馬乗りになる。
何をするつもりなのかは分からなかった。ただ、忍を痛めつけるつもりだということは分かった。
悪意というものなら、小さい時から色々な人に見せつけられてきた。
忍にはいつも分かるのだ。こんな風に黒く渦巻いていたり、小林さんのように腐臭がしたり。
悪意を持つ人、悪意に冒された人。そんな人はどこにでも溢れている。
それが怖くてたまらなくて、自分はいつも泣いていたのだ。
けれど、どうしてだろう。不思議と今は怖くなかった。
「どうした。泣きわめいてもいいんだぞ?」
その姿を見たい。そんな欲望をこめ、邪悪なものはニタリと嗤う。
「別に、貴方は怖くありません」
忍は言った。
それは本当のことだった。
男の闇は深いけれど単純な形だった。今の彼女にはそれがハッキリと分かる。もつれて絡んだ毛糸のようだ。
これならほどくことが出来る。そう思った。
この黒いモノをほどいてしまえば、相手の中には何も残らないだろう。こうやって近くにいると、それがよく分かる。
「何だよ。やっぱり貫通済みか」
男はつまらなそうに言った。
「アイツ、せっかくの上物を安売りしすぎなんだ。ジャンキーはダメだな、役に立たねえ。まあいいや。今までの客と俺は違うってところを見せてやるよ」
男の息遣いが荒くなる。顔がゆっくり忍の顔に近付いてくる。
忍はもつれた糸をじっくり眺める。この男の結び目は何だ? もつれた糸をほどく最初の結び目はどこだ?
同調する。もぐる。黒いモノとひとつになる。そうしているうちに言葉が浮かび上がってくる。
それを、ぶつけた。
「そんなにお母さんに会いたいですか?」
男の動きが止まった。目が見開かれる。
忍は言葉を重ねる。
「ここには貴方のお母さんはいません。貴方もそれを分かっている。お母さんに会いたいなら、探さなくては会えません。可哀相な女の人を何人傷付けても、お母さんは見つかりませんよ」
「な、お前何言って……」
男の口がぱっかりと開く。
それから思い直したようにまた凶悪な表情を作り。忍のブラウスの襟の辺りをつかんで力まかせに引っ張った。
ボタンが飛ぶ。新品のブラウスだったのに。
「ふ、ふざけんな。ふざけんな、ガキィ。お前なんか犯してやる、犯してやる、犯してやる……!」
だが、黒い影はもう薄れて乱れていた。
もう一息でもつれた糸はほどける。黒い影を跡形もなく壊すことが出来る。そう確信した。
男が忍のブラウスを開いて胸を露わにしようとしているが、それも気にならない。ひたすら闇の内部に注目して、とどめとなる言葉を探す。
その時、バスルームに飛び込んできた大きな影が忍を押さえつけている男に襲いかかり、乱暴に引きはがした。