2 スラップスティック・ナイト ~千草 -1-
話し声で目が覚めた。克己さんにもたれかかったまま、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。目を開けると、私は肩にもたれているどころか。思いっきり、克己さんの膝枕で寝ていた。
そして、目の前にはやや疲れた様子の十津見が。だらしなく男の膝で寝ている私を、冷ややかに見下ろしている。
私はあわてて上体を起こした。ヤバ、髪とかぐちゃぐちゃ? まさかいびきかいたり、ヨダレたらしたりしてないよね?
「ああ、起こしてしまいましたか」
克己さんが優しく言った。
「うるさかったかな。妹さんの事情聴取が終わったそうです」
それで、一気に目が覚めた。
私は十津見を見上げる。
「先生。忍は、どうなるんですか」
「手続きが終わったら帰れる」
十津見はいつもの冷たい調子で言った。
「別に容疑者というわけではないからな。ただ、保護者の厳重な監視下にあること、無闇に外出しないこと、警察からの出頭要請があればいつでも応じることが条件だが」
それは。やっぱり嫌疑は晴れていないのでは。
不安が顔に出たのか。十津見は苛立たしげに私から目をそらし、克己さんは私の髪をそっと撫でてくれた。
と、扉が開き。刑事さんに付き添われて、忍が部屋から出てきた。
当たり前だけれど、ブラウスの袖にはまだ血が付いたままで。あの光景を思い出して、私の体の中はグッと冷たくなる。
それでも声を絞り出して、
「忍」
と呼ぶと。
妹は顔を上げてこちらを見て。ギュッと口を引き結んだまま走って来て、まっすぐに胸に飛び込んできた。
私じゃなくて。十津見の胸に。
「先生」
十津見のワイシャツに顔を埋めて。彼の背中に手を回し、ギュッとしがみつく妹。(十三歳)
「君はよく泣くな」
などと、うんざりしたような顔と声をしながら。手慣れた様子で妹に上を向かせ、綺麗なのかどうかよく分からんハンカチで涙をぬぐってやる教師。(三十代)
ちょ……アンタら、どういう関係ですか?! 忍! お姉ちゃんこっち! この虚しく差し伸べた手を私にどうしろと?
あと、いくら学校の先生でも、若い女の子がそんなにたやすくヨソの男の人に抱きついちゃダメです! つうか、何。この声をかけるのもためらわれるような雰囲気は?
そうか。このオッサン、うちの学校の小うるさい風紀担当かと思ってたけど、よく似た別人だったのね。
可愛い女子中学生(うちの妹)に抱きつかれて、ヘラヘラ喜んでるような中年オヤジに風紀がどうのこうのとか、二度と言われたくないぞ。いやマジ本当に、すっごく衝撃的な光景なんですが、これ。
「……お姉ちゃん」
そんなことを考えていると。忍がようやく落ち着いた様子で、涙を拭きながらこっちを向いた。
「あ」
精神的ダメージが大きすぎてぼんやりしていたのだが。
そうだ。私が何とかしてやらないと。私はこの子の、お姉ちゃんなんだから。
忍は、とても心細そうな。怯えているような顔になった。そのまま、チラリと十津見の顔を見て。意を決したように、もう一度私の顔を見る。
いちいち十津見の顔を見なくていいよ。それ、教師の皮かぶったケダモノだから。
「あの。ごめんなさい、お姉ちゃん……」
小さな小さな声で。妹はそう言った。
懸命に許しを請おうとしているような。叱られているのを恐れている子供のような、そんな顔で。
その表情は。死んでしまったあの子が最後にロビーで話した時の顔を思い出させた。
ああ。私はどうして、あんなに鈍感でいられたんだろう。
あの子はあんなに怯えていたのに。私のことを怖がって、怖がって、震えあがっていたのに。
それを、助けてやるとか力になりたいとか、上から目線で。
心が通じるはずはなかった。言葉が届くはずもなかった。
あんな無知な傲慢さに、誰も心は開かない。
「でも、お姉ちゃん。信じて」
十津見の顔を見ながら。妹が必死で言葉を絞り出す。
「私、絶対に、あんなこと……」
「莫迦ね」
私は。手を伸ばして、妹を抱きしめる。
「そんなこと知ってるよ」
これが代償。
百花園という楽園で、六年間ひとりで遊び呆けていた。
その間に、たったひとりの妹はこんなに遠い存在になってしまった。
互いに信じ合う。そんな、家族として大事なことを。私は置いて来てしまっていた。
だから今。追いつめられた小さな妹が頼れるのは私ではなく。そこに立っている教師。
悔しいけれど、それが事実。
でも、私も愛しているから。心配してるから。
もう一度、一歩ずつはじめよう。病院で、ママに抱かれている小さいアンタを初めて見た、あの日に戻って。
「忍。大丈夫だから、家に帰ろう。明日には、ママも帰ってくる」
声をかけると。腕の中で、忍の体がビクリと震える。そうか。ママも遠い存在なんだね、この子には。
「大丈夫。みんな、アンタを信じてる。守りたい。だから、守らせて。ママもパパも、同じ気持ちだから」
六歳まで一人っ子で。両親から蝶よ花よと甘やかされて育てられていた私の上から。一瞬で寵愛を奪っていった。それが私にとっての妹。
そんな私が言うんだから、間違いない。アンタは家族中から愛されている。
「お姉ちゃん。ホントに?」
私を見上げる目は。まだ頼りない。どこかに疑いを含んでいる。
「信じて、くれるの……?」
「当たり前じゃない」
私はキッパリと、笑顔で言い切った。それがロリコン教師の二番煎じであるのは悔しいが。
今は負けを認めてやる。だけど、絶対その内、妹をアンタから奪い返すんだからね!
「お姉ちゃん」
忍は。ふっと体の力を抜いた。
「ありがとう」
小さな声が言った。
その細い肩は。小さかったこの子を、せがんで抱っこさせてもらった幼い日のことを思い出させた。




