1 寒い廊下 ~千草 -2-
とはいえ。両親がいつ来られるか分からない以上、いつまでもこうしていても先生方も困るだろう。私はため息をついて携帯を取り出す。淑子叔母さんのアドレスを検索……しようとした時。
「お待たせしました。僕ならここにいますよ」
優しい声がした。
肩に手が置かれる。見上げると。茶色がかった髪の、男らしく整った顔立ちの背の高い人がにこにこと、私を見下ろしていた。
「警察の駐車場が混んでいて、停めるのに時間がかかってしまいました。ついでに、小腹が空いたので下の食堂で軽く食べて来たんですが。もっと早く来た方が良かったですか」
その。何事もなかったような、落ち着いた声と、空気を読まない笑顔が。暖かくて。頼もしくて。悔しくて。
私は物も言わずに、その胸にすがりついてしまった。
「あ、あの。どちら様ですか」
私の様子に、びっくりしたような山崎先生の声。
「あ、私。百花園女学院で、千草さんの担任をさせていただいております、山崎と申します」
「はじめまして。僕は彼女の婚約者で、北堀と言います」
克己さんは朗らかに言った。
「婚約者!?」
山崎先生の仰天した声で。私は説明の必要を感じる。
洗剤の香りのする白いシャツから顔を離し。
「交際届なら、十津見先生に提出してあります」
と言う。
「届け出済み、なの?」
山崎先生がビックリしたように言う。私は黙ってうなずいた。
「こういう者です。どうぞよろしく」
克己さんは名刺を配っているが。代議士の息子です、と書いてあるわけではないだろうから、多分『北堀運命鑑定所』の所長としての名刺なのだろう。
先生方に、それがどう受け止められるか。今はそれどころではないのに、気になってしまうじゃないか。
「そういうわけですから。僕が保護者です。夫ですから」
あっさり言う克己さん。困った顔になる先生方。
「あの、お待ちください。いくら婚約者さんでも、まだご家族ではないわけですから。その、ご両親の同意がないと雪ノ下さんをお渡しするわけには」
「どうしてですか。もうこの人は僕の妻と言っていいと思います。それをどうして、関係ないあなた方がそんなことを言うんです」
やめて。誤解を広げるようなこと言うのやめて。どんな関係なのかと思われるから。
ただでさえ、とんでもない状況なのに。ますますややこしくするのヤメテ。
「同意、とります」
私は言った。すかさず携帯を取り出して、母を呼び出す。
「母の同意を取ります。それなら、この人が保護者でいいですね?」
先生方が何か言う前に。母が電話に出た。
心配でいっぱいの、母の言葉の奔流。それをかき分けて私は、自分の聴取は終わったこと、忍はまだかかりそうなこと。父も母もいないから、先生方が困っていることを伝える。
「そうか。そうよね。どうしよう、淑子に」
「ママ。克己さんがここに来てくれているの」
私は言った。
「ママが帰って来るまで、克己さんのお世話になりたいの」
「克己さんって」
ママは一瞬、誰? という口調になったが。すぐに思い出したようだ。
「あの、あなたの彼氏? あのね、ママはまだ認めたわけじゃないのよ」
「でも。こんな事件に巻き込まれて、怖いの。男の人に傍にいてもらった方が安心だし、矢崎の叔父さんにそこまで甘えられないし」
「祥吾さんねえ」
母はちょっと、曖昧な口調になった。淑子叔母さんと母は実の姉妹だけれど、当然ながら祥吾伯父さんとは他人だ。
だから、面倒なところは頼みにくいだろう。その心の隙を突く。
「でも。うーん。その人、今そこにいるの? ちょっと代わって」
というわけで、母と克己さんが直接話すこと二十分。
同じ地球で暮らしていても、違う次元に生きていそうな二人の会話がどう落着したのかは、克己さんの声だけ聴いていては想像もつかないが。
もう一度、私が電話を代わった時には。母の声は、かなり疲れ果てていた。
「千草ちゃん。本気で、あの人と結婚するの?」
今、それをツッコまれても。
「うん、まあ」
としか、言いようがないのだが。
「やめた方がいいんじゃない。話、通じないんだけど」
ああ。やっぱり、通じませんでしたか。
「とりあえず、おまかせすることにしたけど。分かってると思うけど、あなたまだ未成年なんだし、軽々しいお付き合いは……」
以下は聞き流して。
まあ、要するに。母と克己さんの対決は、克己さんが勝ったと。
勝利のポイントは、どちらがより相手の話を聞かなかったか、というところだと思われる。スゴイ勝負だな、どうでもいいけど。




