9 当日 -5-
スポットライトが消えると。忍は舞台袖に駆け込む。
この後は古川さんと星野さん、笹井さんも加えての小林さん追悼の言葉で。それが終わるとカーテンコールで幕が上がり、全員で小林さんのために賛美歌を歌う。……という段取りなのだが、忍はここで退場する。
悪役のサロメが小林さんを追悼する歌を歌うのはおかしい、と古川さんたちに言われ。
ひかりちゃんはかばってくれたけど。忍も、正直サロメの姿でそこに参加するのは違うと思った。
サロメはお芝居の中での殺人者。だから、お芝居が終わった後の世界には。それも小林さんを悼む場には、いない方がいい。
だから、忍はそのまま消えることにした。
出番が終わったら、まだお芝居が続いている間に。楽屋裏の出口からこっそり講堂を出て、寮に戻っていつもの制服に着替える。
サロメは消えて。雪ノ下忍に戻る。
それでいい。そう思った。
間島さんが挙げた手にパン、と自分の手を打ちあわせて。そのまま、出口に向かう。
外は晴れていた。太陽の光を浴びると、クラクラした。忍はそのまま、講堂の裏で座り込んでしまった。
あの黒いモノと同調しすぎた。
サロメの気持ちと。あの黒いモノの相性が良すぎた。
忍の中は浸食されて。どこまでが自分で、どこからがアレなのか。もう分らなくなりそうだ。
目を閉じる。お祖母ちゃんの教えを思い出す。
自分の中に満ちている、エネルギーの存在を意識する。
それをゆっくりゆっくり、体の中で回し、隅々まで行き渡らせる。
指先に。髪の毛の一本一本に。肌に。内臓や骨の中までも。
ぐるぐる、ぐるぐると。体の中に、力を満たす。そのことだけを考える。
どのくらい座っていたのか。
だんだんと、体が。日光の暖かさを感じ始める。
座ったコンクリートの冷たさと、足元の湿った土の匂いを感じる。
吹きすぎていく風が、木の葉を揺らしているのを感じる。
風には秋の色がある。
「どうした。気分でも悪いのか?」
声をかけられて、目を開けると。十津見先生が立っていた。
その顔を見て、声を聞くと。ホッとして、口許が緩んでしまう。
「大丈夫です。ちょっと休んでいただけです」
立ち上がる。黒いモノは、体の中から消えていた。
先生は軽く顔を動かして、忍を上から下まで見た。
「最後の讃美歌にいなかったから、何かあったのかと思ったのだが。そういうわけでもなさそうだな」
「元々、私は出ない予定だったんです。サロメがあそこにいるのもおかしいですから」
「たかが子供の劇に、そこまで気を遣う必要もないと思うが」
先生はそう言ってから上着を脱ぎ、忍の方に突きつけた。
「着なさい。その衣装は、やはり目のやりどころに困るな。おとなしいものにしろと散々意見をしたつもりだが、君たちには聞こえなかったようだな」
「すみません」
忍は赤くなって、上着を受け取った。袖を通すと、先生の温もりが感じられて暖かい。
大きな上着は、ももまで食い込んだスリットや真赤なガーターベルトも隠してくれる。それで忍はまた、ホッとした。
「この後はどうする?」
先生はたずねた。
「例年より少ないが、他校の男子生徒なども来ている。その煽情的な姿で構内をうろうろするのは、風紀上問題があると思うが」
「寮に戻って着替えます」
忍は言った。講堂の裏を回って行けば、人目につかずに柊実寮まで帰れる。
「では、寮まで送って行こう」
先生は言った。
「君のような子供があんな恰好をしてはいけない。客席の男たちが、君の脚をじろじろと……あー、ああいう見世物は学校の品位を下げる」
「はい。すみません」
胸の前で先生の上着の襟をかきあわせ。少しでも体を隠そうとする。
「その。分かっていると思うが、あんな下着をつけるのは」
「つけません」
あわてて言った。
「アレは、その、本当に、お芝居の衣装だったから」
顔が赤くなる。でも、いつもあんなのを着けていると思われるのは、恥ずかしすぎる。
「もう着けません」
「そうか。そうしなさい。子供の着けるようなものじゃない」
その後、しばらく沈黙が落ちる。
そのまま歩いている内に、柊実寮にたどり着いた。玄関の前まで先生が付き添ってくれる。
忍は上着を脱いで、先生に差し出した。
「ありがとうございました」
先生はうなずいて、それに袖を通して。それから、もう一度忍を見た。
「やはり君にはサロメは合わないな。あんな役をやるには、君は、その」
先生はちょっと、眼鏡の奥で目を泳がせた。
「可憐すぎて、おかしな感じだった。ミスキャストだな。間島には演劇のセンスが感じられん」
それだけ言うと、先生はあいさつもしないで背中を向け、さっさと行ってしまった。きっと忙しいのだろうな、と忍は思う。
寮母さんに挨拶して寮に入り。自分の部屋に戻って衣装を全部脱ぐ。
それで、やっとホッとした。
ようやく大役が終わった。いや、まだ明日も上演するのだけれど。
それでも忍は。肩の荷が一つ、下りたような気がした。




