9 当日 -4-
客席に花が見えるように持ちながら。舞台袖に下がる。その間、忍は考える。
次の場面のサロメの気持ちが、どうしても分からない。
客席から見えない位置で待ち構えていた都ちゃんが、手早く早変わりをしてくれる。衣装の上につけていた、白いレースのふんわりしたスカート。それを取るだけで、サロメの衣装は黒中心のエロチックなものに変わる。
今日は、あの赤いガーターベルトも付けている。
鏡の中で自分を見た時。その赤が、血を流しているようで。ひどく不吉なものに感じられた。
舞台では。ヘロデ王役の森さんと、大臣役の木村さんが話している。ヨハネたちの周りにユダヤ人が集まりすぎる、ローマの支配に反抗するつもりなのではないかと話している。
サロメはここで出て行き。誕生日の贈り物として、ヨハネの首を父王にねだるのだ。
分からない。
どんなにひどい目に遭わされても。思いが通じなかったとしても。好きだったはずなのに。どうして、そんなことを。
舞台に足を踏み出しながら。まだ、忍は迷っている。
いいんだ。このセリフはお芝居を動かすきっかけに過ぎない。
サロメの気持ちなんかわからなくても。ただ、決められたセリフを言えばいい。それだけでいい。
-本当に、分からない?-
誰かが。どこかで囁いた。
そんなわけはないのに。忍は一人、客席の人々に見守られる中、父親役の森さんに近付いている。それだけなのに。
ああ、でも。
いつの間にか。あの黒いモノが、体中に巻き付いている。巻き付いて、忍に同化しようと囁きかけている。
-私は裏切られた。辱められた。踏みにじられ続けてきた-
ソレは言う。
-どうして私だけ。みんな笑っているのに。どうして私だけ、こんなみじめな思いを-
それに応えるものが。忍の中にも確かにある。
彩名たちにいつもいじめられていた小学生時代。泥だらけにされ、大切な持ち物を壊されたり奪われたり。戯れに頬を張られ、コンパスの針で刺され。トイレの床に突き飛ばされた。
辛かった。悲しかった。怖かった。恐ろしかった。
この世のどこにも居場所がない。周りは自分を責める人ばかり。
出口が見えなくて。ただ不様にのたうつばかりで。
-だから、ね-
黒いモノは言う。
-みんな、私と同じにしてしまえばいいの-
忍はヘロデ王に扮装した森さんを見て。
「お父様。私の誕生祝にはどうか、洗礼者ヨハネの首を下さいませ」
と。華やかに微笑んで、セリフを口にした。
心から。迷いなく。
暗転。ヨハネが連行され、刑を言い渡される場面。
その間、サロメの出番はない。舞台の上で、ヨハネの最後の神への祈りと、断末魔のうめき声。
それから。劇の最後の場面になる。
忍は舞台の中央に待機する。準備が出来ると。そこにいる忍ともう一人を、スポットライトが照らし出す。
客席がどよめく。リハーサルでは見せなかった、もう一つの仕掛け。
忍の前に置いてある箱には、ヨハネ役の広坂さんが入っている。客席から見ると、まるで台の上にヨハネの首が載っているように見えるはずだ。
マジック研究会の山中さんが作ってくれたもので、彼女曰く『初歩のトリック』だそうだが、中に入る広坂さんの感想は『狭くて苦しい』ということだ。
それでも。お客さんから見れば、十分にショッキングな光景のはずだ。
その前で。忍は最後のセリフを言う。
サロメ。満足しているの?
忍は心の中で問う。
あなたは本当に、こんなモノが欲しかったの?
あなたが欲しかったのは、生きているヨハネの腕や、胸や。優しい声ではなかったの?
-これでいいの-
忍の中で応える声がする。
-私は何も手に入れられないんだから。これでもう。誰もこの人を手に入れられない-
忍はゆっくりと、ヨハネの首に近付く。
それを見下ろす。
そこに感情はない。サロメは、何とも思っていない。
ヨハネを手に入れた高揚感もない。だってこれはただの首。サロメが好きだった男ではない。
自分には何も手に入れられない。永久に。
サロメはただ、それを確認しているだけ。
さあ、セリフを。最後のセリフを言わなくては。
『ヨハネ様。これで永久に、私のもの』
けれどそれは。
今、忍の中にいるサロメの気持ちとはあまりにそぐわなくて。
そのセリフが。口から出て来ない。
代わりに忍は。顔にかかる髪をかき上げて。
ざわめきながらこちらを見ている観衆を見据え。
ゆっくりと、微笑った。
「これで」
かすれた声で言う。
それはどこからきた言葉なのか。忍の言葉ではない。
サロメの言葉でもない。
ああ、そうか。これはあの。黒いモノの。
「私は大丈夫。もう何も、心配することはない」
そうか。
小林さんを刺した時も。
穂乃花お姉さまを刺した時も。
あれは、そう思っていたのだ。
怖がって怯えて。
弱いものを殺して。
それでようやく、自分は安全だと笑っていたのだ。
忍はスポットライトの中で。スカートの裾を翻し、軽やかにクルリと回る。
その瞬間。
それは忍で。サロメで。同時に殺人者その人だった。




