8 決意 -6-
心臓が跳ね上がる。呼吸することが辛くなり、手足が重くなる。
ああ。前にもあった、こんなこと。
ティーカップ。水色のチェック模様の、可愛いカップ。
彩名の家で出された、黄緑のマグカップ。
頭の中で、二つがぐるぐる回る。
そのイメージは何を意味して、何なのか。
眩暈がひどくて、分からない。
学校の中でいつも感じる、あの黒い気配を強く感じる。
お姉ちゃんではない。お姉ちゃんは清浄だけれど。
潜んでいる闇が、黒が、罪の気配が凝り固まって、実体を持つかのように。
すぐ傍にいるかのように、生々しく感じられる。
「ね。話しなさい。分からない? それを抱えているのはとても危険なことよ」
お姉ちゃんは声を低めた。聞こえるか、聞こえないかくらいまで。
そして。その言葉を、口にした。
「フェアリー、は」
その言葉を聞いた瞬間。頭の中が爆ぜた。
視界に飛び散る赤いもの。
ペンキの缶を蹴飛ばしたかのように、白い床に広がっていく。
そして。その中心に。倒れている、人が。
忍は思わず目をつぶる。
血に汚れたそれは、お姉ちゃんの顔だった。
倒れたお姉ちゃんの周りを、取り囲む影が嬉しげに踊っている。
その光景に、忍は具合が悪くなっていくのを感じた。
お姉ちゃんは、何事もなく話を続けていた。当然だ。今のは幻。見ているのは忍だけ。お姉ちゃんは、何も知らない。
「フェアリーは、自分の秘密を守るために人を傷付けて回っているのよ。今度はアンタが危険に晒されているのかもしれない。私じゃなくてもいい。信頼できる先生や、警察に話をして、お願い」
そうして、言葉を止めて、じっと忍を見る。
その目は忍を心配してくれている。してくれているけれど。
「お姉ちゃん」
しばらくの沈黙の後。忍は、固い声でそう言った。
「誰から聞いたのか知らないけれど。私は、小林さんのことで、具体的なことは何も知らなかった。今でも知らない」
「忍」
お姉ちゃんの声も、固くなる。
「お姉ちゃんのことを信頼できないの?」
お姉ちゃんは。忍が嘘を言っていると思っている。
知っているのに、知らないと言っていると思っている。
知らないのに、本当に知らないのに。
黒い気配のこと以外は何も。
「お姉ちゃんこそ、私のことを信用してない」
そう呟いて。忍はお姉ちゃんの顔を見返す。
視線がぶつかり合った。
「前に言ったよね」
忍は言う。
「その言葉のことは忘れなきゃダメ、って。どうして信じてくれないの?」
「どうしてって。そんなの私が聞きたいわよ」
お姉ちゃんは厳しい声で言う。
「どうして、アンタはそんなことを言うの。どうして、そんなことを知ってるの」
責める口調。
今日こそは、それを聞きだして見せると、きっとお姉ちゃんは思っている。
けれど。
忍の口元にはつい、乾いた哂いが浮かんでしまう。
どうして信じてもらえるだろう?
黒い凝りを感じるのだとか。
赤い景色の中に倒れているお姉ちゃんの顔が見えるのだ、とか。
そんなこと、信じてもらえるわけがない。
お姉ちゃんは論理を貴ぶ人だ。そんな根拠のないことを言っても誤魔化されているとしか思わないだろう。
それでも忍には分かるのに。フェアリーというものが、きっとお姉ちゃんをズタズタにしてしまう。近付こうとしてはいけないのだ。お姉ちゃんに、戦う手段はないのだから。
忍はギュッと。制服のスカートを握りしめた。