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靖国神社に行って参りました

作者: 蒼崎 れい

 あらすじでも申した通り、本日靖国神社に行って参りました。三月二八日より 入社前研修として、瀬戸内より東京へとやってきました。

 この半月ほど前に、私の祖父の長男の七〇回忌がありました。祖父は恐らく この機会を逃すともう一族全員が集まる事はないだろうと、私の父や二人の伯 父達とその家族が集まりました。

 その長男というのが、大東亜戦争(太平洋戦争)で戦死した、大日本帝國海 軍の軍人だったとの事です。

 父親からは、『大和と一緒に付いて行った駆逐艦に乗っていた』『行きたく ないと言っていたが徴兵された』と幼い頃に聞かされていました。

 それから時が経った現在、ちょっと前までは戦闘機かっちょいいなーくらい だった私ですが、『某少女×戦車アニメ』や『某超スーパー潜水艦アニメ』等 に触れた事で、それぞれの兵器や、また旧帝國軍についてもっと知りたくな り、ウィキペディアや2ちゃんの軍事レスのまとめブログをあさり、祖父の長 男がどのような戦場に赴いたのかもっと知りたくなって調べてみました。

 大和型超弩級戦艦と艦隊を組んでいたとの事でしたので、旧帝國海軍の機動 部隊事実上の最期を迎えた海戦であるレイテ沖海戦か、旧帝國海軍の立案した 大型水上艦による最後の海戦である天一号作戦の最中に起きた坊ノ岬沖海戦の どちらかという事まで判明しました。

 そして最近もう一度聞いてみると『沖縄特攻に参加した』との話を聞きまし た。どうやら祖父の長男は、同型艦である武蔵が轟沈したレイテ沖海戦ではな く、大和の沈んだ坊ノ岬沖海戦に参加したようです。どの駆逐艦に乗っていたかはわからなかったので、駆逐艦の名前まではわか りませんでしたが。

 さらに話を聞くと、祖父の長男には結婚したかった人がいたそうです。また 徴兵されたのは陸軍で、海軍は志願制だったはず。しかも長男ならば徴兵され ないのでは、との疑問がありましたが、恐らく一つの集落から特定の人数を無 理やり志願させるような事があったのだろうと今は思っています。

 注意深く見てみれば、遺影でかぶっている帽子には、大日本帝國海軍の刺繍 がされていました。また、部屋には一番低い勲章ではありますが、旭日章の勲 八等白色桐葉章もありました。

 そのような事があったので、東京に行った時には必ず靖国神社に行こうと 思っていました。


 上記のような経緯より、今回東京に来た事もあって靖国神社に参拝して参り ました。 両手を洗って口をすすぎ、二礼、二拍手、一礼です。その際は祖父の長男に 当時はありがとうございました、どうか安らかにお眠りくださいとお祈りをし てきました。 さくら祭もあって人でごった返していて、とても感傷に浸れるような雰囲気 でなかったのが残念です。祖父の長男以外にも、後の世代の日本国民……私達 が誇りを持って国際社会で生きていけるよう散って逝かれた英霊の方々にも感 謝の念と、どうか安らかにお眠りくださいとお祈りをしたかったのですが、今 回は時間がなくて残念です。

 参拝者の中には、非常にお年を召したおじいさま方やおばあさま方、戦前か ら戦後の一番苦しい時期の日本を支えてこられたであろう方々の姿が、多数見 られました。

 他の参拝者の中にも『おじいちゃんが』『ひいおじいちゃんが』との声が聞 こえました。 参拝後は、遊就館へも行ってきました。最初に目に飛び込んできたのは『大 日本帝國海軍艦上戦闘機、三菱重工業製、零式艦上戦闘機五二型』です。

 現代のジェット戦闘機と比較すれば小さいとは言え、実際に目で見るとその 偉容に身が引き締まるような思いがしました。

 引き込み足のような当時としても優れた機構を備えているかと思えば、ボ ディは思っていた以上にでこぼこしていて、リベット留めの痕跡があちこちに 見て取れました。

 また、各種砲台や砲身、砲弾、どれもが巨大すぎて、息を飲むばかりです。 こんな巨大なものが、百年近くも前からあったのかと思うと、すごいの一言し か出てきません。そういえば、砲身にはちゃんとライフルリングが刻まれてい ましたね。

 その他にも、古代の時代から用いられ続けてきた刀剣類も想像よりはるかに 大きく、驚きました。磨き上げられた刀身は息を飲むほどに美しく、確かに芸 術品と言われても納得できるような逸品でした。

 時間がなかったので全てをちゃんと見る事はできませんでしたが、特攻に参 加した英霊の方々の遺書もいくつか拝見させていただきました。 出撃の瞬間まで家族を思いながらも、存亡の危機に立たされた祖国の為に 散っていったその気高さに、思わず目頭が熱くなってしまいました。

 そして、一番驚いたのは大型展示のコーナーです。摩耶や翔鶴、伊号潜水艦 の大型模型、そして実物の46センチ三連装砲の主砲弾である九一式徹甲弾と 一式鉄鋼弾、人間魚雷の回天、艦上爆撃機彗星等々。

 46センチ砲の主砲弾があそこまで大きいとは、思いもよりませんでした。人間よりはるかに大きいとか、よくこんな砲弾を飛ばせる砲を作ったなぁと思 いました。

 そしてそこで、戦争当時、海軍経理学校に在学していたというおじいさんに 会いました。 話してくれたのは、ボートのオールをこぐ訓練の話でした。少し聞き取り辛 かったですが、座る場所がひどく、また体全体を使わないと重いオールを焦げ なかったそうです。 イスの角は尖って、そこに太ももの後ろをこすらなければ漕ぐことができ ず、その部分は皮膚がずる剥けになっていたそうでした。

 今と違い、ろくな医薬品もなかったので、ちょっとした塗り薬で我慢してい たそうですが、それが塗った後からどんどん染みてきて、ピリピリ痛みだし、 とても辛かったそうです。 その方も一年生の時には痛い目を見たそうですが、上級生になると一年生を 並べて『尻を見せろ!』と言ってズボンを下ろさせ、皮がずる剥けした部分に 薬を順々に塗っていき、痛がる様子を見て楽しんでいたと仰っておられまし た。

 私もそこで祖父の長男の話をして、天一号作戦の坊ノ岬沖海戦で戦死したと 伝えました。また、私の住んでいる場所からも、祖父が幼い頃に山の向こうで 空襲で赤くなった空を見た、とも。その方は『そうですか、大変だったでしょ うね』と優しく言葉をかけてくれました。

 その方は毎年春になると、靖国神社に来て、遊就館に来て、先輩方に挨拶に 来ているのだと仰っておられました。その方が海軍経理学校で一年生だった時 の先輩方は、戦争で戦死されたそうです。遊就館には大東亜戦争で亡くなられ た英霊の方々の遺影があるので、毎年その先輩方に挨拶に来ておられるのだと 思います。

 大戦の経験者というのがひしひしと伝わってくる、達観とした、でも優しい 口調は、まだ耳に残っています。 その方とはそこで別れました。すれ違った時には、遺影を眺めていました。


 以上が、靖国神社での出来事です。直接戦地に赴いた方ではなかったです が、とても貴重な話を聞く事ができてよかったです。

 ちなみに、私は技術者として企業に勤める立場となる人間です。英霊の方々 から未来の日本を託された見として、先輩方に恥じない生き方をしたいと、強 く思いました。技術者として、わずかでも国を支えられるようになれたら嬉し いです。

 このような乱文を最後まで読んでくれた方々、少しでも靖国神社に参拝し て、英霊の方々の御霊に手を合わせてくれたらと思います。それでは、失礼し ます。

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