全ての始まりはここに在り
プロローグ 全ての始まりはここに在り
彼は暗い室内に一人でいた。
様々な薬品とガラスで出来た実験器具…そして悪趣味な標本がところせましと置かれている。
暗い。
明りは、彼の手元にある蝋燭の赤い輝きのみ。
はっきり言って怖い。
ただでさえ気味の悪い標本にいらない陰影が加わって、その気持ち悪さを嫌でも強調させていた。
「さあ、始めよう」
彼は、口の中だけで呟いた。嬉しそうだ。
その肩口で何か小さなモノが微かに動いた。彼は驚く様子も見せず、それに瞳を向けると微笑んでみせた。
「何だい、いなば?」
つぶらな赤黒く光る瞳が彼を見つめる。
「大丈夫だよ、失敗するワケがないだろう?この私が」
ひどく得意気に言うと、何種類もの液体を一つのビーカー内で混ぜ合わせた。淡い色をした煙が一筋立った後、残った液体を見て瞳を満足そうに細めた。
機嫌の良い時の、猫のように。
「よし」
低い呟きをもらし、白衣の右ポケットから大事そうに『ある物』を取り出した。
「生物部に二十七年間も伝わるモノだ…、いいかげんもう、なくなってもいいだろう」
独白すると、軽く笑って『ある物』を見た。
それは一つの球根だった。どこからどう見ても球根にしか見えない、正真正銘、正統的な球根だった。玉ねぎを細くしたような形をした先には、真っ赤なテープが巻きつけてあり、黒いマジックで何かの文字と数字が書き込まれている。
赤色は、その色の花が咲くという印と思われた。
「皆、几帳面なんだねぇ」
彼はマジックで書きつけられた文字を見つめ、思う。
「『27』に…何だい?『キ』…読めないねぇ」
ムキになり、球根に顔を近付けて文字を瞳で追う。かすれ、ところどころ消えた文字に瞳をこらし、線と線の繋がりを推測しながら、読み上げた。
「キ…ル?……『キール』?!」
そう、文字は『キール』と読めた。
「何だろうね、これは」
いなばに同意を求めるが、興味がまったくないのかそっぽを向かれ、彼はむなしく溜息をついた。しばしの後、気を取り直したのか、彼はビーカーに向き直る。
「まぁ、園芸部でもないのだし、私の大いなる野望『いなばに人間の言葉をしゃべらせる』の礎となってくれたまえ。『キール』よ、素晴らしき一歩のための、尊い犠牲よ!頼んだよ」
言いながら、いっそ無造作に球根をビーカーに放り込んだ。
ポチャンと軽い音を立て、球根は液体に沈みこむ。
いなばと呼ばれた白い毛並みを持つ兎は、興味を覚えたのか、彼の肩より腕を伝ってビーカーに近づき鼻をよせ、臭いを嗅いだ。キョロッとした瞳が、思いのほか真剣にビーカーに注がれている。
「何だい?そんなに私が信用ならないかい?」
口先だけで彼は不平をこぼしつつも、動かず、いなばの好きなようにさせていた。
刹那。
ビーカーの中の液体が反乱を起こす。ブクブクと泡を発しながら、奇妙な色の煙を激しく出し始めた。その兆候を見、彼は素晴らしすぎる速さで、いなばと自分自身を守るため、後方にとびすざった。
彼らが避難するのを待っていたかのように、二人(正確には一人と一匹)が後方に移動した瞬間、ビーカーは耐え切れずに中の液体と球根を道連れにして、爆発。四散した。
「はは…」
乾いた笑いがもれでる。
笑うしかない。
いなばのつぶらな瞳に浮かぶ、しらけた気配が彼を果てしなく追いつめる。
「失敗だな…」
彼ー『満月すすき』は、小さく、力なく言った。
いなばの視線がひたすらに痛かった。
-これより、始まる。
ここまでは、桜葵涙が書きました。
次回は『ふすま』のターンです。