第二夜『夜話屋の動物達』
佳那汰は深い溜め息を吐き出した。
──何でまた、人間を雇おうなんて。
この話が出たとき、佳那汰は煌夜に抗議をした。人間なんて嫌だ。人間なんて雇う必要はない、と。だが煌夜はそれを聞き入れてはくれず、目ぼしい人間に求人メールを一斉送信した。そんな怪しい求人に飛び付く人間なんていないだろうと高を括っていた。だがその予想に反して、連絡はかなりあった。不景気の成せる業か。
佳那汰は面接希望の電話を受ける人見を横目で見ながら相応しい人間なんていなければいいのに、と思っていた。なのに、まさか一人目で煌夜が決めてしまうなんて。佳那汰には理解出来なかった。人間なんて関わりたくないし、向こうからも関わって欲しくはない。こんな仕事だって、本当はどうでもいい。煌夜が店長だから付き合っているだけだ。
──人間なんて、勝手に死ねばいいのに。
「かーなちゃん」
夜しか見えない窓の外に目を向けていると、突然背後から声を掛けられた。夜しか、といっても太陽が存在しないのだから、勿論月の輝きもない。あるのは小さな星と闇だけ。
「美祢」
佳那汰は振り返ってその名を呼んだ。すると名前を呼ばれた男は柔らかい笑みを浮かべた。その笑みと同様に焦げ茶色の髪は柔らかそうだ。
「不貞腐れてたの?」
美祢と呼ばれた男は佳那汰に近寄りながら聞いてきた。その声までも柔らかい。
「そんなとこ」
佳那汰は素直に答え、どう思う? と美祢に問い掛けた。すると美祢は「悪くはないんじゃない?」と返してくる。勿論、同意を求めたわけではないので、その答えに気分を害することはない。
「ま、かなちゃんは極度の人間嫌いだからね。でも、あの子とは随分話せてたじゃない」
美祢がふふ、と笑いながら言う。
「……突っ込まずにはいられなかっただけ」
此方の話を聞けば直ぐに逃げ出すと思った。人間の世界に帰してくれと懇願すると思った。なのに、彼女──弥羽はなんてことないかのように事実を受け入れていた。予想外などというものではない。
──図太過ぎでしょ。
弥羽の発言を聞く度に幾度となくそう思った。逃げる気も、帰してくれと懇願する気もない。まさか、こんな人間がいるなんて。煌夜が見初めたとはいえ、そこにある理由は勘などではない。弥羽はその言葉を信じていたが、そこにはきちんとした根拠が存在するのだ。
「何時までいるのかな」
佳那汰がぼやくと、何時までかな、と美祢が返してきた。
「まあ、幾ら何でも長期間仮死状態には出来ないから、何処かで決断を下さないとね」
美祢の言葉に頷く。それもそうだ。そんなことを長い時間続けていれば、肉体は魂を異物と見なしてしまう。なので実際、このまま弥羽を長期で働かせることは出来ないのだ。
「じゃ、ちゃんと寝るんだよ」
美祢はそれだけ言うと、佳那汰の部屋を出ていった。恐らく、今朝のやり取りを見て、佳那汰のことを心配して来てくれたのだろう。美祢は昔からそういう男だった。何時も、佳那汰の心配をしてくれた。常に傍にいることは叶わないから、せめて近くにいるときだけでも、と。
佳那汰はそれに感謝しながらベッドに潜り込んだ。
異物の混入で気候が少し可笑しい。それも、この世界が弥羽を住人と認めるまでの間のことだろうが、夜になると急に冷え込む。
もう、何十年も人間と関わっていない。勿論それは、関わる気がかりないからだ。接触するのは仕事のときだけで、それも必要以上に言葉を交わしたりはしない。
今日、弥羽と交わした言葉の数々が脳裏を巡る。本当にくだらないことしか話していない。話す必要性などないことばかり。それでも口は勝手に開いた。
──もう、寝よう。
佳那汰は布団の中で溜め息を吐いた。考えるだけ時間の無駄だと自分に言い聞かせながら眠りに付く準備をしていった。
最後に月を見たのは何時だったか。
人見は窓を開けながら、宵闇に月を探した。勿論、あるはずはない。空に浮かぶのは小さな星だけ。何故、此処に星はあるのかは不思議でならない。だけれど、それは人間の世界でも同じことかもしれない。宇宙があって、惑星がある。それが燃え尽きて、星として地上から見える。その理屈はわかっていても、なら何故そこにそれらが存在しているのか、正しい答えを言えるものなんていないのかもしれない。
浮かぶ星はあまりに小さくて、闇を照らす力はない。
人間の世界に足を運ばないわけではないが、その頻度はあまり多くない。実際、仮死状態の相手は妖怪が殆どなのだ。死に値するか調べる程の人間なんて少ない。大体、彼等の魂が来店して、書類に目を通し、「死亡」で片付いてしまうから。だから、頻繁に人間の世界で何かを調べることはないのだ。
煌夜が何故、人間を雇うと言い出したのか。恐らく、彼女──弥羽を狙って、求人メールを送信したのだろう。それを自分達に確信させない為にカモフラージュで他の人間にも送っただけ。佳那汰がそれに気付いているかはわからないが、人見にははっきりとわかった。そしてこれは、相手の心が流れ込んでこなくてもわかること。それに、煌夜は常に心に薄い結界を貼っていて、その心が人見に流れ込んでくることはまずない。
──忘れられないのか。
人見は窓を閉めながら口の中で呟いた。その気持ちはわからなくもない。自分にだって、忘れられないことの一つや二つはある。長く生きていれば尚のこと。
だとしても、今回の行いはとてもではないが褒められたものではない。とはいえ、それを意見出来るだけの立場でもない。
──取り敢えず、早急に片を付けるしかないのかな。
人見は寝酒を口に含みながらそう考えた。人間の世界のそれはアルコールが薄く感じられるが、人見はその方が好きだった。それで酔いが回ることはないが、程好くアルコールが体内を巡る。その感覚が癖になる。
猪口に残っている酒をぐい、と飲み干し、人見はブランケットを肩から掛けた。寝酒を飲んだはいいが、今夜はどうにも眠れそうにない。久し振りに、あんなに人間と言葉を交わしたからだろう。
つい、思い出しそうになる。つい、思い出してしまう。
──やはり、此方の酒を用意すべきだったかな。
人見は思いながら壁に凭れ掛かった。そしてそのまま体を滑らせ、床に座る。本来なら軋むであろうそれは、何の音も立てない。ただ、固いだけの板。
見上げる窓の外には、やはり小さな星が浮かんでいた。どんなに手を伸ばしても、どんなに焦がれても決して手の届かない星。掴むことなんて生涯を掛けても出来なくて、気付いたときにはその星は二度と見えないのだ。
人見はそこまで考えて、自嘲に似た笑いを浮かべた。やはり、人間の存在は大きい。あんなにも脆弱な生き物だというのに。触れるだけ壊れそうな程に儚く脆いのに。
その瞬間、何かが掌で粉々に砕け散る想像をした。それは漸く掴んだ星なのか。それとも、星を壊したいというだけの願望なのか。どちらともわからず、人見は壁に後頭部をつけて目を閉じた。
──このまま眠ってしまえばいい。
そう考えてはみるが、眠れる気配は一向に訪れなかった。
触れた温もりが強く残っていた。
煌夜は弥羽に触れた手を握り締めた。温かかった。血の流を感じた。幾らか魂とはいえど、それは実体と何ら変わりはないのだ。
──まさか、こんなにあっさりと受け入れるとは。
煌夜は予想以上に事が運んだことに驚いていた。彼女を呼ぶところまでは成功しても、怯えられたり、帰りたいと言われると思っていたのだ。そして、まさか嘘をあんなにすんなりと信じるとは思わなかった。
それは、彼の人を思い出させた。
実際、そのつもりだったのでそれは間違いではないのだが、あまりに似ていて流石に混乱した。それでも彼女は、彼女ではない。そんな当たり前のことすら忘れそうになった。
──人間を巻き込むなど。
それが罪に値するわけではない。ただ、彼女の身に危険は及ぶ。それでも試してみたかった。会ってみたかった。叶うならばもう一度触れてみたかった。
本当のことを話したなら、彼女は直ぐ様此処から去っていくかもしれない。だから、勘で選んだと嘘を吐いた。それは、佳那汰の為にも。ただ、人見辺りはこんなことには気付いているだろう。それでも抗議してこないところを見ると、今のところは黙認ということか。
煌夜は己の白い手を見詰めた。その色の白さは凡そ人間には有り得ないもので、自分が異形のものだと思い知らされる。それでもいい、と囁く声を思い出す。それでも構わないと抱き締める腕を思い出す。
──今更無意味なことを。
煌夜は頭を振って、寝間着へと着替えた。薄藍色の寝間着からは誰が焚き染めたのか、香の薫りがした。使用人妖怪は決められたことしかしないので、彼女達ではないだろう。その薫りは心が落ち着くもので、煌夜はその薫りを噛み締めながら布団へと入っていった。
布団を被ることにより、香の薫りは一層強くなり、薫りに全身を包まれているような気分になる。それは程好い眠りを誘い、煌夜を夢の中へと連れていった。