第2夜『夜話屋』2
弥羽は声のした方に顔を向けた。するとそこには昨日の狐面の男──煌夜がいた。今日もまた着物を身に纏っていて、それは白地に黒い蝶々が幾つも飛び、それに赤と薄紫の菊が被っている柄だ。それは色白の煌夜によく似合っていた。
「佳那汰は先程、妖怪、と言ったんです」
煌夜は弥羽に近付きながら言った。弥羽はそこで初めて、佳那汰のその言葉を聞き逃して──いや、聞いたには聞いたが、気に留めていなかったことに気付いた。
「あ、成る程」
弥羽は大袈裟な程に大きく頷いてから、刹那、時が止まったように表情を固めた。しかし、それと同時にそれくらいでは驚かない──否、驚けないという考えも湧いた。昨日から、有り得ないような体験を幾つかした。凡そ、現実では味わえないような、夢だと思いたくなるような。そして、此処は人の世ではないようだ、という結論にまで達している。となればもう、妖怪、などという単語はポピュラーなものに思える程だ。
しかし、と考え直した。例えば、本当に例えばだが、今目の前にいるこの人達が「妖怪」だと言われたならどうだろう。否、佳那汰は別にそんなことは言っていない。人見の女好きは、人間も妖怪も関係ない、といった話だ。別に、自分達が妖怪なんだ、と言ったわけではない。
「そこ、頷くとこ?」
弥羽のぐるぐると回る思考回路に気付いていないらしい佳那汰が、今度は完全に呆れたような声をあげた。それでもその声は可愛らしいままだ。
「一つ、確認しても宜しいかしら?」
弥羽は混乱のせいで、変な口調で誰にともなく訊いた。すると、人見がここぞとばかりに身を乗り出して、何でもどうぞ、と弥羽の瞳を見詰めてきた。見る者を捉えて離さないような不思議な瞳。
「あの、貴方達は人間、ですよね?」
訊くというよりは、確認する、といったふうに尋ねた。そうであって欲しい、という願いを存分に込めて。しかし、返ってきた答えはその願いを虚しくも裏切るものでしかなかった。
「俺達は、人間じゃない。妖怪なんだ」
人見はにっこり、と人の心にするりと入り込むかのような微笑みを浮かべてその答えを口にした。微かに赤色がかかったような瞳は細められ、形のよい唇の端を上げる。そして、人見はその上唇をぺろりと舐めた。
──妖怪。
そう言われて、弥羽の脳裏に浮かぶのは、こんなふうに人の形をしたものではない。もっと、異形のものを「妖怪」と呼ぶ。一つ目だったり、片足しかなかったり。
「何を想像してるかは大体わかるし、それは正解に近いよ」
人見は笑みを携えたまま、言った。
「それは狡いよ、人見。きちんと教えてあげないと。相手の心が読めます、て」
呆気に取られてる弥羽の耳に佳那汰の声が飛び込んできた。
「それは正しくない。何も、はっきりわかるわけじゃないからね。何となく、わかるだけ」
その違いをわかる程の理解力は、今の弥羽にはなかった。どのみち、自分の考えなど見抜かれるということではないか。
「正解に近いって?」
正直、頭の中は昨日より混乱を来している。何から考えればいいのか、何から受け入れればいいのか。
「俺達は妖怪っていっても、動物の化身なんだ。だから、こうして人間と遜色ない見た目なわけ。正確に言えば、これが本来の姿ってわけでもないんだけどね」
人見の声はす、と脳に届くものだった。特別澄んだ声というわけでもない。寧ろ、少し癖のある声だ。なのにその声は脳に届き、無理矢理に意味を成させる。
「へえ、蛇って動物なんだ」
そこで佳那汰がわざと驚いたような声を上げた。
「何を言っているんだよ。蛇だって立派な動物だ」
不意に、昨日の二人の会話が蘇る。佳那汰が人見を蛇と称し、それを人見が嫌がっていた。ということは、蛇というのは渾名でも何でもないということだ。
「わかりましたか?」
煌夜が一番奥の席に腰を下ろしながら口を開いた。
「だから、君が思うような異形の姿──まあ、私達からすれば異形でもなんでもないのですが、というのも存在するわけです」
煌夜は低い声で言う。俺達、ということは此処にいる人見以外の二人も動物の化身ということなのか。
「私は狐の化身ですよ」
弥羽の考えを見抜いたらしい煌夜が視線を少しだけ弥羽に向けて言った。人見だけでなく、煌夜も相手の考えていることがわかるというのか。だとしたら、とてつもなく落ち着かない。
「安心して下さい。私は人の考えなんて読めません。ただ、貴女はわかりやすく顔に出るというだけの話です」
無表情のまま言われるとどうにも貶されているようにしか感じられなかった。弥羽は少しむっとし、意識的にポーカーフェイスを心掛けた。
「じゃあ、君は?」
弥羽はポーカーフェイスを保ちながら佳那汰を見た。すると佳那汰は「順応性には長けてるんだ」と感心したように言う。弥羽はそれにまた貶されているような気分になる。
「それと、僕、あんたよりうんと年上だからね」
佳那汰は弥羽の質問には答えずにそっぽを向いた。それは幼い子供が拗ねたような仕草で、それで年上だと言われても何の説得力もない。
「佳那汰は狸だよ。ま、狸っていうより、仔狸って感じだけどね」
代わりに答えてくれた人見の言葉に弥羽は妙に納得してしまった。確かに、佳那汰には仔狸という表現がぴったりとくる。
「で、お嬢さん。他に質問は?」
人見の言葉に弥羽は少しだけ考え込んだ。
「ええと、仕事内容と、特色、待遇、給金、あとは……」
「馬鹿じゃない?」
つらつらと質問を口にする弥羽を止めたのは佳那汰だった。弥羽はそれに、え? と首を傾げる。これらの質問は働く上で重要なことだ。それらを確認せずに曖昧なまま雇用契約など結べるはずがない。
「普通、帰らせて下さいとか言わない? なんで、働く気満々なわけ?」
佳那汰が理解出来ないとでも言うように溜め息を吐いた。
「そんなこと言われても、状況を理解出来ていない限り、従っていた方がいいのかな、と」
弥羽は誰にともなく問い掛けた。当然、まだ状況は把握しきれていない。理解することも納得することも出来ていない。それなら今出来ることは現状からの脱却ではなく、流れに従うこと。
「蛇。こいつに何かした?」
佳那汰は弥羽のことを無視して、人見を睨み付けている。
「何度蛇って呼ぶのを止めろと言ったらわかるの?」
人見もそれに対抗するように佳那汰を睨み付けている。垂れ気味の目が鋭い形へと変わった。その瞳にはやはり不思議な力があるように思える。
「それに、何もしてない」
語尾も柔らかいものではなくなっていて、声もまるで別人のように低くなっている。
──あ、妖怪って「人」って表していいのかな。
弥羽は二人のやり取りを見ながらどうでもいいことに思い至った。
「本当?」
「本当だよ。だから此処にいることを決めたのはお嬢さんの意思だ」
人見はいつの間にか佳那汰を睨むのを止めていた。そして視線を煌夜に向けている。
「そうですね。仕事内容は昨日お話しした通り、店番、雑用、事務です。給金は、貴女の望む金額で、我々が支払うに相応しいと思った額。仕事の特色は、他にはない職業ということ。待遇は住み込み、三度の食事付きです」
煌夜はすらすらと弥羽の質問に答えた。これは、厚待遇だと思う。しかし、他にも質問はまだあり、弥羽は挙手した。
「何です?」
煌夜が腕を組みながら弥羽に目線を向けた。
「たまには人間の世界に帰れますか?」
「それは無理です。貴女は仮死状態ですからね。帰ったところで実体はありません」
──ということは、今の私は魂みたいなものということだろうか。
「帰れないと何か不都合でも?」
煌夜の言葉に弥羽は静かに頷いた。そして、顔を俯かせ、膝の上で握った拳に視線を落とす。すると煌夜が声のトーンを更に低くし、言ってみて下さい、と促してきた。その声には何処か心配が混じっているようだ。
「……人間の世界に帰れないということは、着替えとか、どうしたらいいんですか?」
弥羽はぱっと顔を上げて煌夜の顔を見た。そこには美しい顔がある。そしてそれはやはり無表情だ。
「あんた、本物の馬鹿なの?」
佳那汰が堪えきれないといった様子で大声を上げた。
「馬鹿じゃないです。これは一大事ですよ。年頃の女が服も下着も変えられないなんてっ……」
弥羽は顔を両手で覆いながら言う。嫌だ、絶対に嫌だ。着の身着のまま過ごすなんて、有り得ない。
「……それに関しては、此方できちんと用意しましょう」
予想外な言葉だったろうにも関わらず、煌夜はきちんと答えてくれた。弥羽はそれにありがとうございます、と頭を下げた。近くでは佳那汰が呆れた顔をし、人見が面白そうに笑っていた。
──勿論、住んでいたアパートのことはどうなるのかとか、家族はどうなるのか、などという心配はあった。一番に頭を過ったのは田舎に住む家族のことだった。両親に、既に結婚している姉。彼等が自分が仮死状態なんて知ったらどうなるのか、と思った。遠く離れた東京で意識がないまま寝ているということだ。
でも、それを口にすることは出来なかった。しても、意味のないことだと思った。此処にいる彼等には彼等の思惑がある。そうなる以上、何を言っても無駄だと自然と思えたのだ。
そして、きっと彼等なら良策を練ってくれているのでは、という全く根拠のない信頼も芽生えた。それは何故か。少し話しただけだというのに、彼等が人を無闇に傷付けることはしないのではないかと思えたのだ。そしてそれはやはり、全く何の根拠もない。
もしかしたら、酷い者達かもしれない。弥羽の家族のことなんて少しも考えてくれていないかもしれない。それでも、そうだとは思えなかった。
俯いたとき、煌夜は確かに心配そうな声を掛けてくれたし、ちらりと見えた人見も眉を僅かにだが下げていた。そして変なことを言った自分を佳那汰は有り得ないといった目で見てきた。もし、家族のフォローを何もしないのだとしたら、その質問が出ないようにしてもよさそうなものだし、違うことを口にした自分に敢えて突っ込むこともしないだろう。
そういったことから、家族の心配はいらないかもしれない、と自然と思えたのだ。
「お腹減りました。て、仮死状態でも空腹はあるんですね」
弥羽がにっこりと笑顔を浮かべて言うと、三体の化身は目を丸くしていた。初めて、煌夜の無ではない表情を見た。
「じゃ、遅くなったけど朝食にしようか」
人見が目を細めて笑い、言った。
「食事が終わったら、雇用契約を結びましょう」
煌夜はそう言って、手を一度叩いた。すると広間の扉が開き、そこから小さな二人の女の子が膳を持って現れた。真っ赤な和服を身に付け、それに割烹着を被っている。髪型は耳の下で切り揃えられたおかっぱ頭。前髪も眉毛の上で真っ直ぐに切られている。二人共、目が大きく、口は小さい。随分と可愛い顔だ。そして、双子なのか、二人の顔はそっくりだった。
「使用人妖怪です」
二人のてまてましとした動きを眺める弥羽に煌夜が説明をしてくれた。
「使用人妖怪?」
「そうです。ひたすら、使用人に徹する妖怪です。とはいえ、この小さな体では大したことは出来ませんがね」
二人の女の子は一生懸命に膳を運ぶが、その背はあまりに小さいのでそれをテーブルに乗せることは出来ない。二人はまず、煌夜と人見の元に膳を運んでいった。人見と煌夜はそれにありがとう、と礼を言い、受け取っている。
──ああすればいいのね。
弥羽はそれを観察しながらうんうんと頷いた。すると、いつの間にか膳を持った一人が弥羽の横にいた。
「彼女達の特色は、動きが速いことです」
突然の出現に驚く弥羽に煌夜がまた説明した。これは速いなどというものではない。一瞬のうちだった。弥羽は取り敢えず驚きを隠しながら、女の子にありがとう、と告げた。すると女の子は口を開けて笑ったが、そこから覗く歯は全て鋭く尖っていて、可愛いなどという印象は何処かに吹き飛んだ。やはり、この三体の見た目は特別なのかもしれない、強く思い知らされた。