最終夜『惜別』
「はい。これを飲んで」
屋敷につくなり美祢に広間に連れていかれ、湯呑みに入った何かを出された。白い湯呑みに入ったそれは焙じ茶のような色をしている。
「それを飲んだら、目を覚ましたときは全て忘れているからね」
美祢はにっこりと笑って言う。そう言われると湯呑みに手を伸ばすことを躊躇ってしまうが、そうも言っていられない。弥羽は意を決して湯呑みに手を掛けようとした。
「ちょっと待って」
その瞬間、深哀が声を上げた。そしてがばりと弥羽に抱き着いてきた。実体となった深哀からは花のような芳しい香りがした。まるで百合の花のように匂いの深哀はぎゅ、と弥羽を抱き締める。さ
「会えなくなるなんて、寂しいわ。妾、元々人間は好きだけど、貴女は特に好きよ。理由なんてわからない。でも、大好きよ」
深哀の科白に弥羽は涙腺が弛むのを感じた。元の世界にいたときも完全に孤独だったわけではない。でも孤独を感じていたのも事実だ。何処の会社からも必要とされず、親しい友人もいない。彼氏とは音信不通に近い状態。そんななかでこんなふうに言って、抱き締めてくれる人はいなかった。
「……私も、妖怪、好きになりました。深哀さんのことも大好きです」
弥羽が答えるように深哀の背に手を回すと、深哀は更に弥羽を抱き締めてきた。少しばかり背骨が軋むような気がしたが気のせいだろうと弥羽はそう思い込むことにした。深哀のいい匂いは鼻腔を擽り、更に涙を誘う。それを堪えることは難しく、弥羽はぽろりと涙を溢した。どうやら深哀も泣いているようで鼻を啜る音が耳に届いた。
彼女と確りと話したのは唯の一度きり。それでも十分に心を通い合わせることは出来る。弥羽はそれを感じながら、お別れですね、と言った。
──多分忘れちゃうけど、元の世界の戻ったら、きちんと人と向き合って話ではみよう。
弥羽はそう心に決めた。面接でも、相手を確り見る。そして、此処でそうしてきたように嘘偽りない思いで誰かと接したい。そう強く思えた。
「また、会えたら会いましょう」
二度と叶うことのない約束をするのは少々心苦しかったが、頷いた。そうすることで、もしかしたらそれは本当になるかもしれないから。本当になって欲しいと思うから。
「君らは挨拶しなくていいの?」
美祢が煌夜達に言うと、彼等は顔を見合わせた。その仕草はまるでこどものようで彼等には似合わず、弥羽は涙を溢しながら笑った。そんなきょとんとした彼等の顔を見るのはこれが最初で最後だろう。
「僕、最後の最後でいいよ」
各々(それぞれ)、視線を逸らした後、佳那汰が言った。すると人見がじゃあ、俺から、と軽く手を挙げた。
「酷いこともしたけど、ごめんね」
人見は言いながら深哀が離れたばかりの弥羽を抱き締めてきた。長い腕は弥羽をすっぽりと包み、その広い胸に弥羽は頬を当てた。やはりそこに心音はないが、温もりはある。
「人間との恋が罪でなければ、俺は君を愛したかったよ」
お世辞なのか本心なのかわからない科白に弥羽は笑った。どちらだとしても嬉しい。二度と人間と関わりたくないと思っていたはずの人見を嘘だとしてもそう言えるように出来たのなら。何かを彼にした覚えはない。出来たという記憶もない。ただ、自分が数日間近くにいただけでそう思ってくれた。それだけで十分だ。
「本気で口説かれたら、私も貴方を好きになったかも」
弥羽が冗談を口にすると、煌夜から乗り換えてくれるの、と人見は嬉しそうに笑った。自分のことを親身に考えてくれていた人見。だからこそ、わざと酷いことをいってきたりもした。それは凄く大切な存在だ。
「ありがとう」
弥羽はそう言って、人見を見上げた。すると人見は弥羽の額に優しいキスを降らせた。さすがに予想外の行動に弥羽は耳まで赤くなるのを感じた。こんな美形にそんなことをされて何も思わない女なんていないだろう。
「こちらこそ、ありがとう」
人見はそう言ってから美しく笑い、弥羽からそっと体を離した。まだ耳は熱い。どうにか落ち着かせようとしていると、すっと煌夜が弥羽の前に来た。
「貴女には随分と勝手なことをしたと思います。許してくれ、とは言いません。どうせ、忘れてしまうのだから」
煌夜の言葉に弥羽は唇の端を持ち上げた。
「私は、忘れたくて忘れるんじゃありません。本当は、忘れたくない。二度と会えなくても、貴方のことを想っていたい。これが小菊さんの記憶と同調してのものなら、それを含めて貴方を想っていたい。綺麗事かもしれないけど、二人分、貴方を想っていたいです」
弥羽が言い終わると煌夜は嬉しそうに、悲しそうに微笑んだ。どちらもあるのだろう。
「似ているから招きましたが、私は貴女と小菊を一緒に見たことはありませんよ」
「え?」
煌夜の言葉に思わず声が洩れた。
「だって、姿形は似ていても、中身は全く違いますからね」
嫌味にも似た言葉ではあったが、十分だった。それだけで、十分に嬉しいし、幸せだった。庭上弥羽として、彼に見てもらえていたのなら、それ以上に嬉しいことなど何もない。
「……大好きでした」
弥羽は大粒の涙を溢しながら伝えた。それだけはどうしても伝えたかった。伝えておきたかったのだ。例え、自分がこの気持ちを忘れてしまっても、煌夜が覚えていてくれたらなかったことになどならない。彼からしてみたら残酷かもしれないが、そう思えるようになったのだ。
「私も、長く一緒にいたら、わからなかったですよ」
彼なりの答えに更に涙を溢す。本当は一緒にいたい。口に出してはいけない想いが二人分、溢れてくる。弥羽は顔を覆いながら暫しの間、泣いた。此処で全て泣いて、外に気持ちを出してしまわなければ、もう泣くことも出来ないのだから。
「最後は佳那汰だね」
美祢が弥羽が漸く泣き止んだタイミングで言うと、佳那汰は首を横に振った。それは弥羽に掛ける別れの言葉などないということだろうか。
「僕は、本当に最後でいい」
佳那汰は無表情に言ったが、それは嘘ではなさそうだった。弥羽はじゃ、後でね、と言い、湯呑みに手を伸ばした。冷めかけたそれは香ばしい匂いを漂わせている。弥羽はそれを一気に喉に流し込んだ。飲み終わった後も、取り立てて変わった様子はない。ただ、温かいものを飲んだせいで体が温かいだけ。
「最後に、挨拶代わりの朗報」
湯呑みを置いた弥羽に美祢が笑いながら声を掛けてきた。弥羽は何ですかか、と言いながら濡れた唇を指で拭った。
「彼等に、実体を返す。大分永い間、罰せられてきたからね」
弥羽は微笑みながら言う美祢を見て、目を見開いた。
「彼等の実体は玖弧が預かってる。だから君とは重みが違っただけ。でも、彼等も永く罰を背負ってきたから、そろそろ返してあげようと思ってね」
美祢の言葉に各々は驚きを隠せない表情をしている。勿論、弥羽もだ。だが直ぐに嬉しさが止めどなく込み上げてきた。
「ありがとうございますっ」
弥羽が思い切り美祢に頭を下げると、美祢は声を出して笑った。
「当人達がお礼言ってくれないのに」
美祢は言いながら笑い、更に大きな声で笑った。魂という存在から解放される彼等は嬉しさと驚きで言葉を発することが出来ないのだろう。弥羽は満ち足りた気持ちで煌夜達を見た。
「じゃあ、私、行きますね」
弥羽が言うと、美祢は案内するからおいで、と手招きをした。弥羽ははい、と返事をしてそれについていく。
広間を出て廊下を歩く間に使用人妖怪と出会したので、ばいばい、と手を振った。すると彼女達も同じようにばいばい、と手を振り返してくれた。廊下を抜け、階段を下り、店の部分へと向かう。
『夜話屋』。
奇怪な店だと思った。個性的過ぎて扱いづらいような妖怪達。自分がいた場所とは違う世界。何もかもに驚き、驚き過ぎて反対に妙に冷静だった。一週間にも満たない日々に込められた思い出と想い。短いのに凝縮されたかのような時。どれもこれも胸に広がっていく。
残り僅かな時。共にいらるのは後数分程度だろう。弥羽はそれを噛み締めながら歩いた。廊下が軋む毎に、胸に刻む。種族は違う。それは明白だが、それでも心を通い合わせたのは事実だろう。
店のスペースへと着くと、美祢がぱん、と両手を合わせて音を鳴らした。弥羽の目の前にすらりと木製の扉が現れる。
「この向こうに階段がある。それを昇ったら、帰れるよ」
美祢の言葉に弥羽は頷いてドアノブに手を掛けた。かちゃり、とノブは軽く回り、扉は開いた。初めて此処を訪れたときに下ろうとした階段とよく似ている。
「待って」
足を一歩踏み出したところで佳那汰に呼び止められた。まだ、彼から別れの言葉は貰っていない。弥羽が振り返ると佳那汰は素早く弥羽の元に寄ってきて、その身を引き寄せた。そして薄い唇を弥羽の耳許へと近付ける。
「………………た」
佳那汰が最後の最後に告げてきた言葉に弥羽は再び涙を流した。そして、うん、と頷いてからその場にいる皆に深く頭を下げた。
「お世話に成りました」
本当にお世話になったかどうかは定かではないが、それが今の弥羽が言える精一杯の言葉だった。皆に見送られる形で階段に足を掛けると、ぱたん、と扉は閉まり、異世界への扉は忽ち消えていった。
外は青空だった。
高い雲に、何処までも澄んだような空。
遥か遠くで燦々と輝く太陽は目に眩しい。
秋の気配を含む風は何処と無く冷たくて。




