第2夜『夜話屋』1
妙な音で弥羽は目を醒ました。かん、というような、こん、と、いうような、兎も角今まで聞いたこともないような音。木製の何かをこれまた木製の玉のようなもので叩いたかのような音だった。いつもなら、五月蝿い程にけたたましい音を鳴らす目覚まし時計で起きていた。それくらいのものでないと、弥羽を夢の世界から引き摺り起こすのは難しいのだ。なのに今は、そんな妙な音でもするりと目を醒ますことが出来た。
──ああ、これでも変な夢ともさよならだ。
弥羽は起き上がってから大きく伸びをしたが、肝心なことには気付いていなかった。目覚めの音が既に、現実に鳴る音ではなかったのだが、寝起きの頭では正常な判断が困難だったのだ。
弥羽は大きく伸びをしたとき、すら、と腕を衣が擦れる感触に気付いた。普段この時期寝るときに着ているのは適当なTシャツであり、それはこんなふうに衣が腕を擦ることはない。弥羽はそこで漸く、気付いた。
──まだ夢から醒めていないのか。
否、違う。これはもう、夢などではないのだ。夕べは何度も自分に夢だと言い聞かせ、寝て起きれば全て元に戻っていると思った。目を醒ませばそこは自分の住む古びたアパートで、また就活に勤しむ生活が待っているのだと。
だが違った。あの不可思議な出来事は夢ではなかったのだ。その証拠に、自分が寝ているのは安いマットレスではなく、木製の洒落たベッドだし、枕も適当なクッションではなく、端にフリルのついたカバーを掛けたそば殻の枕。着ているのも、Tシャツ短パンではなく、象牙色の浴衣。──これは着方がよくわからなくて、適当に帯を巻いたので寝ている間に解けている。
部屋の中にも小さなテレビも、同じく小さな冷蔵庫もない。あるのはやはり木製のこじんまりとしたテーブルに、大きな鏡台。そして、細かな細工が施された棚。こんなものを買った覚えもなければ、そもそも部屋自体が全く違う。
その広さは大して変わらないが、造りが違う。壁紙も違うし、窓も違うし、扉も違う。
「……夢じゃなかった」
弥羽はぽそりと呟き、頭を抱えた。夢であれ、とあんなに願って眠りについたというのに。しかし、こんな状況で熟睡出来たというのは、弥羽の神経の図太さの象徴だろう。
「おはよう、お嬢さん」
その声に弥羽は頭を抱える手を離し、声のする方に視線を向けた。そこには爽やかな笑顔をした人見がいたのだが、彼は弥羽を見るなり、くすり、と口許に笑みを浮かべた。弥羽はその表情の意味がわからずに、首を傾げた。
「随分と大胆なお嬢さんだね。朝から誘ってるの?」
人見はそう言って、自身の胸元に指を当てた。弥羽はそれを見てから、不意に自分の胸元に視線を向け、驚愕と恥ずかしさを同時に感じた。
帯が解けた浴衣から、肌と下着が露になっていたのだ。弥羽は慌てて浴衣の前を合わせながら、変な下着でなくてよかった、と至極どうでもいいことを思った。
それから、妙な感覚に気付いた。確かに今、人見は「朝」と言ったが、薄いカーテンの付けられた窓から朝陽のようなものは感じない。遮光カーテンではなさそうなのに、まるで窓の向こうは夜だとでもいうように明るさはない。
弥羽の疑問に気付いたらしい人見はああ、と声を出した。
「この世界には夜しかないんだ。まあ、その表現は些か正しくないけどね。太陽がないというべきかな。でも、時間は存在してる。だから、当然朝や昼、夜、という概念もあるんだ」
人見が何を言っているのか弥羽には理解出来なかった。人は、太陽の位置で時間というものを作った。なのに、その太陽がないのに時間というものはある。
理に敵っていない。
弥羽は閉じた浴衣の襟元を握り締めた。
──此処は、人の世界ではない。
漠然と思った。というよりは、漸く気付いたというべきか。兎も角、昨日まで自分が身を置いていた場所とは違うのだ。何故こんなことになったのかはわからない。ただ、脳裏に浮かぶのは昨日人見に告げられた「仮死状態」ということ。なら、この体は一体何なのか。
「お腹、減らない?」
人見は窓に懸けられたカーテンを開けながら訊いてきたのだが、窓の向こうはやはり暗く、それは何の意味もない行動に思えた。
空腹かと問われれば、そうなような気がしてくる。とはいえ、仮死状態で腹が減るのかという疑問も浮かぶ。幸い、頭の中がパニックに陥ることはなかった。単に、理解出来ないことが多過ぎる。
弥羽はこんなときに初めて、自分には意外と順応性が備わっていることを知った。取り敢えず、過ごせている。取り乱したりせずに。
──意外とタフなのかな。
弥羽はぼんやりと思った。就活に苦しんでいるときは、自分はなんて弱いのだろうと感じていた。幾つもくる不採用通知を見る度に落ち込み、浮上する間もなく、次の求人を探した。多少、こちらが思う条件と違っても面接してくれるなら、と赴いた。それでもまた不採用で。
そんな日々を二年近く繰り返してきた。もしかしたら、そのお陰なのかもしれない。
「で、ご飯はどうするの?」
人見が掠れ加減の艶を含んだ声で訊いてきたのだが、その距離は近い。もう二センチ動けば、鼻と鼻がぶつかりそうな程だ。
「……食べます」
正直、何を出されるかはわからない。それでも弥羽の腹の虫は空腹を告げていた。
「よし、じゃあ、着替えて。仕事の詳しい話は食事を摂りながらにしよう」
人見は漸く顔を離してそう言った。光の加減によってか、彼の垂れ気味の瞳はたまに紅く見える。
「昨日着ていたものでいいかな?」
人見の問いに弥羽は無言で頷いた。
「じゃ、外で待ってるからね」
人見は柔らかく言うと、鼻唄を奏でながら部屋から出ていった。背が高く、微かに筋肉をつけた体はまるでモデルさながらだ。
弥羽は人見が出ていったのを確認してから、ベッドの脇の低い棚にある服に手を伸ばした。どうせなら下着も変えたいのだが、生憎用意はない。それは当たり前のことで、弥羽は昨日此処に面接をしにきたのだ。なのにもう採用と言われ、仮死状態と言われ、何故か住み込みらしい。
弥羽は何が何だか理解しきれない頭のまま、白いインナーに袖を通した。
「はい」
着替えを済ませて扉を開けると、そこでは人見が待っていた。そして、昨日なくなっていたスーツの上着を手渡してきた。受け取ると、それからは何か甘い匂いが漂ってくる。まるでキャンディのような匂い。
「昨日、煌夜が術を掛けてくれたけど、一応ね。念には念を」
「術?」
弥羽は受け取った上着を纏いながら訊いてみた。特に寒いとかいうわけではないのだが、薄めのインナー一枚だと何処か心許なく感じるのだ。
「そう、術。お嬢さんが人間だって見抜かれないように」
人見が何を言っているのかはわからなかった。人間だって見抜かれないように。それの意味するところは何なのか。人見はわざと核心に触れずに話しているのか、それとも弥羽が理解していると仮定して話しているのか判断が出来ない。それも、彼の腹が見えない笑顔と話し方のせいだろう。
でも、スーツの上着から薫ってくる匂いは嫌いではなかった。寧ろ、何処か落ち着く。
古い家屋というより、洋館を思わせる廊下を人見と並んで歩く。きし、と時折軋む音がする。それは家鳴りではなく、弥羽が歩いた部分の板が軽く沈むのだ。だが、人見の歩きに合わせて廊下が軋む様子はない。
──私より、この人の方が確実に重いはずなのに。
弥羽は横目で人見の端麗な顔を見た。長めの茶髪が顔にかかり、少しだけ左目を隠している。最近の若者的な髪型だ。
壁には無数の絵が掛けられている。どれもこれも風景画や人物画ではなく、抽象画だ。そして、どれも色合いが暗い。赤でも鮮やかな色ではなく、黒を混ぜたようなものだったり、群青色だったり。
凝視していたなら気分が沈んでしまいそうなものばかりだ。
「此方です」
人見がぴたりと足を止めた。そこには大きな扉がある。大学のときに講義で見た華族の屋敷の写真を思い出した。確か、華族の歴史について勉強したのだ。元々士族だった彼らは時代が変わるのと同時に華族という地位を与えられ、それでも扶持の少なかった者達は裕福な生活など送れなかったという。
──今これ、どうでもいいな。
弥羽は自ら自分の思考回路を切断した。
人見が扉を開けてくれると、そこは広間だった。大きくて長いテーブルに、豪華なシャンデリア。そして、外の闇を届けるだけの大きな窓。
「此方へとうぞ」
人見はそう言って、一番奥の椅子を引いてくれた。
「従業員にサービスは必要ないよ」
突然背後から届いた声に弥羽は肩を震わせた。それと同時に、昨日の可愛い男が弥羽の横をすり抜けていく。
「佳那汰、如何なるときも、如何なる相手でも女性には優しくしないと」
それに対して人見が可愛い男──佳那汰に微笑みながら言った。
「あんた、気を付けなよ。こいつ、雌なら妖怪でも人間でも構わない奴だから」
佳那汰の言葉に弥羽は眉を寄せた。だけれど、弥羽が口を開くより先に人見が話し出す。しかし、喋りながらでも弥羽をきちんと椅子まで誘導し、座らせた。
「それは聞き捨てならないな。女の子なら誰でも、てわけじゃない。確かに女の子は皆好きだけど、口説くのは可愛い子、て決めてるんだ」
さらりと最低発言をする男が、椅子を押してくれた。
「それって、向こうから来る雌なら、可愛いとかは関係ないってことだよね?」
佳那汰が弥羽から横に三つ程離れた席に腰を下ろしながら言うと、人見はまあね、とやはり最低発言をかましてから弥羽の向かいに座った。
「あの……ちょっといいですか?」
弥羽は人見ではなく、佳那汰を見る為に顔を左に向けた。そこでは佳那汰が銀色の髪を束ねようとしているが、さして長くないので上手くいかずに手こずっていた。
「何?」
佳那汰は髪を結わこうとする手を止めず、そして弥羽の方も見ずに口を開く。
「雌、て止めてくれませんかね? 一応、女という性別なんで。というか、貴方、私より年下よね? なのに、何で上からみたいな言葉遣いなの?」
弥羽は少々の早口で捲し立てるように言った。すると、佳那汰は眉間に小さく皺を刻んだが、それは不機嫌さを露にしたものではなく、まるで有り得ないものを見るような目付きだった。
「え、突っ込むとこ、そこ?」
佳那汰が大きな目を真ん丸にしながら言った。その姿は昔絵本で見た、くりくりとした目の可愛い狸のイラストを思い出せた。確か、友達のいない狸が森の中で一匹で暮らしていたのだが、ある日、そこに一匹の白狐が訪問してくる。狐は狸と友達になりたいのだ、と優しく言ってきたのだが、ずっと孤独に暮らしていた狸にはそれが信じられなかった。
それでも狐は毎日狸のところを訪れた。狸は少しずつ、狐に心を開き始めた。狐はいつも手土産をくれた。木の実、花、稲荷あげ。自分の好物を狸にあげるので、狸もいつしかそれらが好きになった。
そして、二匹は種類を越えて友達になったのだ。
ある日、狸は狐に尋ねた。「どうしてボクなの」と。すると狐は笑って答えた。「君となら親友になれると思った」と。狸は嬉しかった。孤独は寂しかった。誰かを信じてみたかった。狸は昔、人間にお母さんを殺されてしまって、それから何も信じられなかった。何故なら、その人間はいつもお母さんに食べ物をくれていたから。人間の理由は、そうやって狸を手懐けていただけたのだが、狸にはそんなことは簡単なかった。
二匹は毎日会い、毎日遊んだ。毎日美味しいものを食べた。
でもある日からぴったりと狐は狸の元に来なくなった。狸は毎日心配した。怪我でもしたのか、病に倒れたのか。待てど暮らせど、狐が再び狸のところへ訪れることはなかった。
それから沢山の日が経ち、狸は決意を固めて山を降りた。勿論、狐を探す為に。すると、一人の人間が毛皮を持っていた。それは間違いなく、あの狐の毛。光りに当たると銀色に輝く毛。
人間は、本当は銀狐だった彼を、毛皮欲しさに殺してしまったのだ。
狸はそれからまた、誰も信じられなくなり、山奥に一人籠って暮らしたのだ。
──懐かしい話を思い出したな。
とはいえ、弥羽はそれを何処で読んだのか思い出すことは出来なかった。何時、何処で読んだのか。唯一思い出せることは、この話を読んだときに、何のメッセージ性も伝わってこない話だと感じたこと。そう感じたということは、この話を読んだときはさして幼くはなかったということだ。流石に子供が絵本を読んでそんなことは思わないだろう。
「変わってるよね、あんた」
そんな話を思い出させた張本人の佳那汰が目を丸くしたまま言ってきた。あんた、という呼び方はどうやら直すつもりはないようだ。
「え?」
取り敢えず今はそれは聞かなかったことにしよう、と本題に対して聞き返した。すると佳那汰は髪を結おうとする手を止めて、口を開いた。
「だって、今の話で気にするのが『雌』て表し方なんでしょ?」
「そうだけど?」
佳那汰が何を言いたいのかわからず、弥羽は眉を寄せたまま首を傾げた。
「他に、気にすることないの?」
弥羽は過ごし方考え込んでから、ああ、と頷いた。
「この人が女好きってことですか?」
弥羽は人見を指差した。すると人見は酷いな、とわざとらしい苦笑いをした。
「違うって」
佳那汰は驚きと呆れを合わせたような表情を作っている。それでも弥羽は自分の発言の何がそんなの不思議なのか予想もつかなかった。
「だから、見初めたんですよ」
扉の方から低い声がした。