第四夜『噂話』3
提灯の灯りが途切れる。煌夜はそこで指を小さく鳴らした。すると、ほわりと小さな灯火が空に浮いた。それは決して明るいものではないが、指を動かして足許へと移動させると、道を照らすには十分なものになる。足許
淡く照らす狐火を頼りに煌夜は足を進めていった。向かう先は小さな社だ。そこである者と待ち合わせをしているのだ。
館では既に夕飯が振る舞われている頃だろう。今日の当番は美祢だったか。美祢の和食は本当に美味で食べ損ねることに残念さを感じるが、体としては特に問題はない。魂だけの存在を長く続けていると空腹は感じなくなる。そして、魂だけなので食べ物を摂取する必要もない。なので食事を摂るのは趣味のようなものだ。とはいえ、その趣味は煌夜にとって大きなものだった。当番が美祢であるなら、もしかしたら煌夜の分を用意しておいてくれているかもしれない。煌夜はそう考えながら足を進めた。
「お待ちしてましたよ」
社に辿り着くと、待っていたのは玖弧だった。
「すみません。少し寄り道をしていたら遅くなりました」
煌夜は狐火を玖弧の顔の辺りへと移動させた。玖弧の本来なら翡翠色の瞳が焔によって紅く光る。
「寄り道、ですか?」
玖弧は首を傾げて不思議そうな顔をした。大きくも小さくもないが二重のくっきりとした瞳がきょとんとする。
「ええ、もしかして、と思ったことがあったもので」
煌夜は狐火を小さくしながら返す。これは幻覚のようなもの。これが衣服や肌に当たったとして何があるわけではない。ただ、あまり大きな火の玉は邪魔になる。揺らめきがちかちかと視界を邪魔するのだ。
「それは何です?」
玖弧が揺らめく狐火を掌に乗せて遊びながら訊いてきた。
「通り道、ですよ。それがなければ今回の遊びは無理だと思いまして」
遊び、と称した煌夜に玖弧は小さく笑った。ふんわりとした微笑みは辺りの暗さをまるで照らすようなものではあるが、実際辺りは闇に包まれたままだ。この者は本来ならば自分如きがこんなふうに気安く口を利ける相手ではない。だが玖弧はそういった扱いをされることを嫌がり、畏まった態度を取らぬようにと懇願してきたのだ。それはもう、何十年も前の出来事だ。
罪に塗れ、罰を課せられた自分に救いの手を伸ばしてきてくれた者。それが玖弧だった。玖弧は大きくて白い手を、文字通り煌夜に向かって伸ばしてきてくれた。煌夜は一度は躊躇ったものの、最終的にはその手を取った。──それは、百年近くも昔の話だ。
「それで、その遊びの入り口はあったんですか?」
玖弧の問いに煌夜は唇を締めて頷いた。すると玖弧はそうですか、と返してきた。
「玖弧さんの方は?」
煌夜が尋ねると、玖弧は収穫はありましたよ、と笑った。
「まず、噂話の件についてなんですが、これは後に置いておきましょう。なので、いなくなった妖怪達についてからお話しますね」
玖弧は珍しく着ている着物の裾を翻して煌夜についてくるよう手招きをした。玖弧がついて来いと言っているのは社の中だ。この社は玖弧の本来の棲み家なのだが彼が此処にいるのは年に一度くらいなもので、他は民家に居所を構えている。
一見古びた社は中に入るとその印象を覆される。最初の頃、煌夜はこの差違に何度も戸惑いを感じたものだが今では慣れたものだ。障子戸を開けるなり出迎えてくれるのは豪華な屏風。そこに画かれているのは金色の狐が蛇を加えた姿だ。
「お帰りなさいませ、主様」
からりという障子戸を開ける音が響くなり、ぱたぱたという足音が聞こえた。姿を現したのは真っ赤な髪をした神主姿の青年だ。彼は尚哉といい、元は人間だと以前玖弧に教えられたことがある。
「ただいま。お茶を二つ用意して下さい」
玖弧が言うと、尚哉は畏まりました、と頭を下げ、またぱたぱたという足音を立てて姿を消した。
足を乗せた床は艶が光り、曇り一点ない。だがそこはやはり煌夜が体重を乗せても軋むことはしなかった。同じ魂の存在でも弥羽ならばこの床はきちんと軋む音を立てる。その差は何かというと、肉体が存在しているかどうか、だ。煌夜の肉体は既に失われている。正確に言えばあるのだが、その器に煌夜の魂が戻ることはないので失われたも同然なのだ。
玖弧は奥の間に煌夜を案内した。そこにある襖は至って質素なものだった。だけれどそれが決して安物でないことは一目瞭然だ。とはいえ、この襖はもう何百年と時を経てきているはず。
「お座り下さい」
玖弧に言われ、煌夜は部屋の真ん中に腰を下ろした。玖弧はというと、部屋の奥にある上座──そこだけ一段高くなっている板に腰を下ろした。そこの前には御簾があり、だが今は開け放たれている。玖弧は慣れた仕草でそこに座ると姿勢を正して煌夜の顔を見た。それに煌夜は三つ指を畳に付け、額をそれすれすれまで下げた。
「我等妖狐の長である九尾狐、玖弧殿。此度お手を煩わせ、大変恐縮に存じます」
玖弧は煌夜の低い声にはい、と明るく返事をすると直ぐに立ち上がり、煌夜の目の前へと移動した。
「いちいち面倒ですよね」
玖弧は煌夜の肩に手を掛け、その体を起こしながら言った。
「いえ、此処を訪れた際の仕来たりですから」
「本当はあの家で気兼ねなくお話したいのですが、内容が内容ですからね」
玖弧はふう、と息を吐く。
彼は柔和な見た目とそれと同じく柔和な性格をしているのだが、本来は妖狐を治める長なのだ。この社は人の世と繋がっている場所で、人の世では彼が奉られている。そして年に一度、彼が此処を訪れるのは人の世で供物祭があるときだけなのだ。その他は妖怪同士の大切な話し合いがあるようなときに此処を使用する。その際、妖狐という存在は彼に畏怖の念を敬し、このような振る舞いをしなくてはならないのだ。
「お待たせしました」
すらりと襖が開けられ、尚哉が二つの茶を運んできた。尚哉は玖弧が留守の間、此処を護る役目を申し付けられた存在らしい。
「ああ、すみません。お茶を三つ、でした。尚哉君、貴方の分も用意して下さい」
玖弧は目の前に置かれた二つの湯呑みを見て、慌てたように口を開いた。尚哉はそれにいいんですか、と顔を輝かせ、またぱたぱたと姿を消していった。
「では、お話を始めましょうか」
玖弧は開け放たれたままの襖を見てくすりと笑ってから静かな声で告げた。




