プロローグ ~17歳の犯罪者~
人が集中する地域から少し離れた場所にその建物はあった。造りの古いコンクリート製の3階建てビル。正面の扉の脇には下田組と書かれた木製の表札があり、扉自には金属の丈夫な物が使われている。1階にある窓は全てブラインドが降ろされ中の様子は伺うことができない。
住宅街から繁華街からも遠いこの場所は一般の市民が寄り付かないところであり、好んでここに来るような人はそうそういない。ここに来るのはいわゆるその道の人、つまりはヤクザだけだ。
しかし今ビルの扉から数メートル程の位置に立っている少年ーー神矢零二は到底ヤクザには見えなかった。
年は高校生くらいであろう。高めの身長に細めの体。髪は染色したりしておらず、少し長めの黒髪。これといって特徴の無い普通の男の子だが、目にかかった髪から覗く眼は年に似合わず鋭い光を放っている。服装も特徴は無いのだが、強いて言えば裾が膝くらいまである茶色のコートを着ているくらいだ。それでも季節的に冬に差し掛かっているこの時期では着ていても不思議はない。
そんな少年がヤクザの事務所の前に立ち、鋭い眼で正面を見ている。友達の家に遊びに来たような雰囲気ではない。もっともここは高校生が遊びに来るような場所ではないのだが。
普通なら零二はここからすぐに立ち去るだろうと思うのだが、そうはしなかった。ビルの扉に向かって歩き始めた。その歩みに迷いや恐れは無く、ここに用があると言わんばかりに堂々と歩いて行く。
周囲を見渡すと車が3台止まっている。どれも高級車で幹部か何かの送迎用なのだろう。
下が砂利地なので歩くたびに音がするが気にする様子もなく進み、扉の前まで来た。
扉の向こうには人のいる気配が無い。1階には誰もいないのだろうか。しかし車が3台止まっていたことからビルの中に人がいるのは確かだ。更に扉に近づく前に2階で人影が動いたのを零二は確認していた。
念のため零二は目を閉じ聴覚に神経を集中させた。聴覚を除く他の感覚を限界まで低下させ、聴覚のみに感覚を委ねる。
足音が聞こえた。1階ではなく上の階から十人近い数の足音が聞こえた。詳しい位置までは把握できないが恐らく2階に多数。3階に少数の人がいることは確認できた。
確認を終えると零二は感覚を通常に戻し眼を開いた。先ほどよりも鋭く、強い光を宿した瞳だ。
零二は姿勢を低くすると右足を後にずらした。視線は金属製の扉に向けられたまま動かない。両足の膝を少し曲げ右足を更に後にずらす。
そして勢いよく右足で地面を蹴ると同時に、そのまま右足は扉に向かっていく。
少年の蹴りを受けた扉は真ん中から大きく曲がり、衝撃を吸収しきれず吹き飛んでいった。そして扉は豪快な音を立てて壁に激突した。
扉の無くなった室内に入り中を見ると吹き飛んでいった扉により机や椅子がなぎ倒され、扉の当たった壁は大きくえぐれていた。
恐るべきことに零二はその華奢は体で金属製の扉を蹴破り吹き飛ばしたのだった。
だが当の本人は気にした様子もなく何食わぬ顔で室内に入っていく。
やはり1階に人はいないようだ。壁はコンクリート製で備え付けの窓もワイヤーが入った強固な物だった。
いかにもヤクザの事務所といった部屋だ。
零二が周囲の状況を確認していると、音を聞きつけた組員たちが階段を駆け下りてきた。
数は5人。どれも屈強な体つきの男達だ。
組員達は吹き飛ばされた扉や室内を見るや怒声を上げた。
「なんやお前は!?」
「ただでは済まさんぞ」
毎日声出しの練習をしていると思える程の大声だった。普通の高校生なら声を聞いただけで逃げ出すような状況だが、零二は平然のままだった。それどころか鋭い眼で組員達を見たままで何も言わない。
「聞いとんのか?」
組員達の中でも一際大きな体を持つ大男が少年に近寄ってきた。そして零二の襟首を掴もうと片手を出した。
「触るな」
零二は大男の片手を掴むと力任せに腕を引いた。すると少年の3倍くらいの体重がありそうな大男は浮き上がり低空を保ったまま、ソファにぶち当たった。
ソファに乗るようにして飛ばされた大男は直ぐに起き上がり、壁に立てかけてあった木刀を取ると再び零二に向き直った。顔は怒りで真っ赤に染まっている。
「このガキ殺したらあ!」
大男は零二に向かって突進し、持っていた木刀を思いっきり零二の頭部めがけて叩きつけた。
木刀が風を切る音がし、何かにぶつかって止まった。
零二は立ったまま姿勢を崩していない。避けたわけでも直撃したわけでもない。
左手で木刀を受け止めていた。
「こ、このクソガキ」
大男は木刀を零二の手から抜き出そうと力を込めるが、木刀は零二の手が掴んだままビクともしない。
大男は左手も使い両手で木刀を引き抜こうとする。それでも木刀は動かない。
「一つ聞きたい」
零二は木刀を掴んだまま静かに言った。
「下田組の組長。下田正造はここにいるか?」
「な、なんの用がある?」
大男は両腕に力を込めたまま応えた。
零二は大男の反応で組長がここにいると判断したらしい。何も言わず左手を引き、大男の両手から木刀を引き抜いた。明らかな体格差があるにも関わらず少年は幼い子供から取り上げるような動作で木刀を奪い取った。
大男は奪い取られた際に2歩程つんのめるように前に進んだが、大男が止まるときには零二は返す手で木刀を大男に叩きつけていた。木刀を引き抜いてから大男に叩きつけるまで流れるような動作だった。
木刀を叩きつけられた大男は衝撃で後ろに吹き飛び壁にぶつかってから倒れ、今度は起き上がってくることはなかった。死んではいないが、当分は目を覚まさないだろう。
零二は手にしていた木刀を床に捨てた。大男を殴った際に真ん中の部分から折れてしまったのだ。
「兄貴!」
しばらく呆然と倒れた大男を見ていた他の組員達だが、我に返ったのか一人が大男に駆け寄って言った。
そして残った組員達はそれぞれに木刀や鉄パイプなどの得物を持ち零二を囲んだ。
「兄貴をよくもやってくれたなガキ」
「生きて出られると思うなよ」
皆怒りに満ちていた。今の大男とのやり取りを見ていれば力の差は明確だった。だからといって逃げ出すような男達でもない。全員ほぼ同時に得物を振り上げ零二に襲い掛かった。
「随分とうちの者をかわいがってくれたな」
「あんたが下田正造か?」
3階の一番奥の部屋で零二と初老の男が向き合っていた。
周囲には数人の男が倒れている。死んではいない。気絶している者もいれば骨が何本か折れているのか体を抱え込んで呻いている者もいる。
「そうだ。俺が下田正造だ。狙いはなんだ?俺の命か?」
状況に反して下田正造と名乗った男は落ち着いていた。
ヤクザの組長に相応しい威厳と態度を持った男だ。
恐らくこの程度の修羅場は何度も潜り抜けて来たことだろう。
ここで零二が”お前を殺しにきた”と言ってもこの男は動じないと予想できる。
しかし生憎零二はこの男を殺しに来たわけではなかった。
「あんたの命に興味は無い。ただ手紙を持ってきただけだ」
「手紙だと?」
少年はコートのポケットから四つ折に畳まれた紙を取り出し、男に投げた。
手紙を受け取った男は中を確認した。
そこにはワープロ印字で“この町に二つの組はいらない。この町から消えろ”と書かれていた。
男はその文面から差し出し人が誰なのかを察した。
「なるほどな。お前は平松組のもんだったのか?」
平松組とは下田組と拮抗する暴力団の名前だった。この町の二大勢力の一つで下田組とはいがみ合っている仲だ。
「違う。俺は頼まれただけだ。平松組なんて知らない」
「そうか。なら平松組の刺客か。とんでもない奴を送り込んできたな」
「確かに手紙は渡した」
少年は短く言うと踵を返し、部屋を出て行こうとした。
「待て。お前は平松組のもんではないんだな?」
「そう言ったはずだ」
あくまで事務的な声で零二は言った。お前と話すことはないといった言い方だ。
「なら平松組から雇われたのか?」
「答える義務はない」
零二は男に背を向けたまま言った。
「俺に雇われる気はないか?お前のような奴が欲しかったところだ」
体を少しだけ傾け男を見た。
「金さえ用意すれば引き受けよう」
体を戻し零二は今度こそ部屋を出て行こうとした。
「最後に名前だけ聞いておきたい」
「・・・・・・神矢零二」
名前だけ言い残すと零二は部屋を後にした。