全部、吊り橋の上なの
何、冷静に分析してんだよ。
腹が立つままに、今度は両腕を掴んで一気に引き寄せた。
瑞穂は困惑した表情のまま、逃げられもしない。
もう一度唇を押し当てると、首を引こうとする気配があって、慧太は瑞穂の頭を押さえつける。
ちくしょう、と思うと容赦を加えることができなくなり、無理矢理唇をこじあける、ひどく強引なキスになった。
僅かに乱れた息の中で次に慧太が見たものは、瑞穂の透明な瞳だった。
「勘違いだよ、津田君。」
床にしゃがんだ姿勢の慧太を残して、瑞穂は書庫を出て行く。
あんなに冷静に諭されたら、反論なんかできないじゃないか、ちくしょう。
感情に理屈、つけんなよ。
でも、俺は?今の沢城とどうしたい?
慧太は自分の中のあちらこちらに触手を伸ばして結論を探った。
何かしたい訳じゃない。放っておきたくないだけだ。
勢いをつけて立ち上がり、慧太も書庫から出た。
鬱屈した感情そのものの顔をして、デスクに戻ったらしい。
向かい側の席から事務の野口が、隣の席からは山口が無言で慧太の顔を見て、ふたりで目を見合わせている。
あ、やばい。また何か問い詰められそうな気がする。
今話しかけられたら、頭の中から何かこぼれるから、話しかけないで。
「津田、まだ終わんない?」
そう声を掛けられても、顔を上げることもできずに手を振ったら、肩をポンと叩かれた。
「ま、気長にやれば?」
どういう意味だ、それ?思わず山口の顔を見上げる。
「さっき、すっごく動揺した顔の沢城が、書庫から出てきたけど?そのあとから出てきたのは津田だし」
それか、と机に頭を打ちそうになる。社内って、どこに目があるか、わからない。
頭の中にロンドン橋おちた、の歌がぐるぐる回る。どうにかしてくれ。
帰宅して自分の部屋のベッドの上で胡坐を掻いた慧太は、やっとひとつだけ結論を出した。
どうせ俺は考えるようになんかできてないんだから、動きたいようにしか動けない。
「沢城、あんた、この頃ますます痩せてない?それ以上痩せるとなくなっちゃうよ?ちゃんと食べてる?」
事務の野口が向かい側で声をあげた。
「食べてはいると思うんだけど」
尻すぼみになった瑞穂の声は、そのまま極まり悪そうな表情になった。
「栄養つけに行こう。津田君、場所決めて」
突然話を投げられ硬直した慧太に、野口が不敵に笑う。
こんな話の持って行き方を考えるのは、慧太が知っている限りでは、ひとりしかいない。
お節介なのか単に面白がりなのか、底の知れない隣の席は、まだ営業先から戻ってはいない。
遠隔操作までされちゃう俺って、何?
居酒屋に遅れてしれっと現れた山口は当然のように慧太の隣に腰をおろした。
「企んだでしょ」
「何が?」
はじめからそこにいたかのように話題に合流する巧みさは、そのまま営業力の高さだ。
普段から他の部署とあまり交流しようとしない瑞穂にも、万遍なく話を振り分ける。
さすがだなと感心していると、慧太は脇腹を軽くつつかれた。
「沢城、今日なら潰せるけど、持って帰る?」
「・・・いりません。俺、そんな風に見えます?」
「いや、おまえのほうは見えるけど。何かワケアリなんでしょ?」
反応が面白いから、と表情も変えずに言う先輩が不気味だ。
いくら社内が退屈だとは言え、自分が玩具になるのは悲しい。
持ち帰ったくらいで簡単に済む話だったら、楽なんだけど。
「沢城がオチたけど、どうする?」
野口がそう言ったのは、居酒屋に入ってから一時間も経っていなかった。
茹でた餅のようになった瑞穂が、座敷の隅で蹲っている。
「もう?そんなに飲んでた?」
あまりの早さに、揃った面子が驚きの声をあげた。
「一杯しか飲んでないよ。最近本当に急に痩せたから、体調悪かったかも」
元気付けたかったのはホントなんだよ、と野口は少し申し訳なさそうな顔をする。
仲の良い悪いじゃなくて、やっぱり女の子同士だし、と。
「悪いけど津田君、送ってって。」
「俺?路線違うし!」
「まだ、4時間は電車動いてるし。具合悪い時に家まで送ったことあるでしょ。君しか家知ってる人いないから」
他の営業からも声が出た。
「流通管理に一番手間食わせてるのは津田なんだから、お礼のつもりで行ってきたら?」
俺の立ち位置ってそんな?とヘコむ間もなく山口が手回し良くタクシーを捕まえてきた。
これな、と笑いながら手に握らされたものは、タクシー代の一万円札と「日本が世界に誇る品質」のラテックス。
「・・・山口さん、こっちはいらない」
爆笑を背中に聞きながら瑞穂をタクシーに押し込み、葛西方面へと指示を出す。
途中で何度か目を覚ました瑞穂の呟きは断片すぎて意味を成さず、理解できた内容はひとつのみだった。
夜中に何度も目を覚ましてしまって上手に眠れないということ、
目が覚めると辺りが真っ暗で、怖いから灯りをつけたままで寝ること。
そして何故か出てきた言葉。
「津田君が悪い」
俺?この間の書庫の件?聞き返しても、返事はない。
「今、全部吊り橋の上なの。落ちそう」
思わせぶりだが、解読不能だ。酔っ払い。
タクシーが目的地に近くなり、慧太は瑞穂の顔を覗きこんだ。
「おい、歩ける?近いぞ?」
瑞穂は一瞬だけ正気に返った顔になり、頷く。
「頭、痛い」
「どれくらい飲んだ?」
「グレープフルーツハイ、一杯と少し・・おかしいなぁ」
そう言いながら目を閉じてしまう瑞穂の肩を掴んだまま、運転手に道の指示を出す。
階段を上れないかもしれないから、ドアまではついて行くようだな、と思った後、山口に返したものが頭によぎってしまう自分が情けない。
今なら、一気にカタがつくのに。何のカタだ?
瑞穂のマンションの前でタクシーを降り、肩を支えながら階段を上る。
顔を引き寄せると抗いもせずに簡単に唇を重ねたが、重ねるだけで応える訳ではない。
歩く足さえやっとの状態で、それを意識しているかどうかあやしいものだ。
今なら、と囁きが聞こえる。
出て来い、俺の理性。こんな時にはちゃんと働け!
悩みつつドアの前までは送って、それ以上にややこしい話にはならず「津田君が悪い」の言葉も謎のままだ。
すこし、いや、かなり残念ではあるが、あれだけ酔えば眠れないこともあるまいと自分に言い聞かせながらの車中になった。
惜しいことした?そんなこと・・・したくないわけじゃないけど!
俺が悪いってどういう意味だ?全部吊り橋の上ってどういう意味だ?
飲んでないのに、俺も酔いそう。
山口に瑞穂を送り届けたメールを打ってから、そのまま自宅に戻ることにする。
今頃、ネタになっていそうな気がする。
慧太はまた深く溜息をついた。
「ごめん、昨晩のタクシー代払うから」
財布を持った瑞穂が慧太の席の横に立ったとき、向かい側から野口が声をかけた。
「大丈夫だった?津田君になんかされてない?」
「されてないと思うんだけど、あんまり覚えてない。何かした?」
何かしたって、何を!理性しまっときゃ良かった。
瑞穂と野口は同時に声をあげて笑った。
「本当に顔に全部出る」
ま、いいや。笑ってるから。