なんて顔しやがる
「ごめん。なんか言われてる?」
慧太が書庫で古い図面を引っ張り出していると、後ろから瑞穂の声がした。
ごめんと謝られても瑞穂の責任ではないし、強いて言うならば飛び込んでいったのは慧太の方だ。
「あれこれ。でも、みんなすぐに忘れるよ、きっと」
「津田君に迷惑かけっぱなしになっちゃってるね」
頼むから、その表情をやめてくれ。
強気で可愛くない沢城の方が、マシだから。
「いいから!」
まだ謝り足りなそうな顔の瑞穂の言葉を強引に切る。
「あのさ、落ち着いたらまたメシでも奢って。それでチャラにしよ」
わかった、と瑞穂が足早に書庫から出て行く。どうも謝るためにだけ来たらしい。
膝から崩れ落ちそう。
冷静じゃん、と頭で考えるほどパニックだったらしい、と気がつき暗澹とした気分になる。
修行、足りねえ!
居酒屋の隅のふたり席で慧太は山口と向かいあって座っている。
「さて、津田君。何があったか、お兄さんにお話しできるかな?」
「何もないっす!喧嘩の仲裁に入っただけ!ホント!」
遊ばれモード突入決定だ。
勘も人当たりも良い先輩は、時々何を考えているのか怖いので、敵に回したくない。
俺って、あちこち敵わないところだらけじゃないか。
「いや、ここだけの話、みんな興味津々なんだけども。沢城と佐藤さん、ダメなわけ?」
「・・・知りません」
「津田が何か知ってるぞって、俺、みんなの期待を背負って来たんだけど」
「答えられません。勘弁してくださいよ」
ふうん、と山口は人が悪く笑う。
「津田が知っている何かが原因で、我が社の流通が乱れてるわけだ。解決の見込みは?」
「・・・知りません」
なんで俺がこんな風に窮地に陥らなきゃならないんだ。しかも、他人の崖で。
「ま、いいや。決意が固そうだし、突っ込まないでおいてやるわ。感謝しろよ」
あからさまな安堵の表情を笑われ、膨れた顔をまた笑われ、ひとしきり遊ばれてから解放された。
「ところでさ、沢城とおまえってセンはあり?」
別れ際に不意を衝かれた。
「ないです!」
俺は今、どんな顔をしたのか。
山口の笑った顔から、自分の表情は読めない。
なんだか、どんどん深い方に泳いでいっているような気がする。
足をつこうと思ったら、もう立てなかったりして。
溺れちゃうじゃないか。
朝の殺人的なラッシュにもまれながら、慧太はまた溜息をついた。
面倒なことになった。俺に腹芸を求めるな。
流通管理部は変わらず、佐藤の無愛想には拍車がかかったようだし、慧太へのアタリが特別良くなった訳でもない。
つまり、みんなが忘れるのを待っている形だ。
ただ、瑞穂と佐藤のふたりだけの残業は目に見えて減っていた。
もうダメになったのだと社内では内緒めかした噂話が大手を振っている。
葉桜になった桜坂を瑞穂と慧太がまた歩いているのは、瑞穂だけがロビーを横切るのを慧太が見つけたからである。
声を掛けなくても何の義理を欠くわけでもないのだが、気になるのは仕方ない。
「佐藤さんと一緒に帰らないの?」
他に聞き方はないのか。
瑞穂はゆっくりと首を横に振った。
「あの後、私の部屋には一回も来てない」
私の部屋という言葉が妙に生々しくて、慧太はつい瑞穂をまじまじと見下ろした。
「あの後って、この間の喧嘩?」
ちがう、瑞穂はまた首を横に振った。
「流産した後。だから、ひと月以上」
「・・・怖いんだもの」
瑞穂がつぶやいたのは、腰を据えるつもりで並木が切れた場所の階段に座った時だった。
「怖くなっちゃったんだもの。自分がどうしたいのか、わからなくなっちゃったんだもの」
箍がはずれちゃったな、こいつ。
聞いちゃった俺は、ますます深い所まで泳いで行かなくちゃならない。
「部屋まで来たら帰んないで、とか言いそうだし、その時の自分を想像したくないし」
迷子みたい、じゃなくて迷子なわけだ。
慧太の痛々しそうな視線に気がつき、瑞穂は口を噤んだ。
「余計なことばっかり言ってる。聞いてくれてありがと。ごめん、忘れてって、更に勝手だね」
なんて顔してやがる。くそ。
慧太はやや強引に瑞穂の肩を引き寄せ、胸の中に抱え込んだ。
ちくしょう。どつぼ、だ。
「泣けば?」
俺にできることなんて、せいぜいこんなもんだ。
瑞穂はしばらく無言で身体を預けていたが、やがてゆるゆると立ち上がった。
「巻きこんじゃって、本当にごめん。今度こそ大丈夫だから、もう気にしないで」
合わない視線に慧太は苛つき、瑞穂を通せんぼする形で立った。
瑞穂は下を向いたまま、帰ると小さな声で言う。
「聞いてくれて、嬉しかった。ありがと。でも、もういい」
なんで、と問い返そうとする慧太の声に被せるように返事があった。
「期待、しちゃうから。次に何かあったらまた、津田君が話聞いてくれるような気がしちゃうから。だから」
「いいよ、聞くくらい」
「私がダメ。今まで自分で解決できた筈なんだから」
意志の強そうな口元と透明な瞳。この顔、この前も見たな。
「了解。無理、すんなよ」
やられた。理由のない敗北感を抱きながら、慧太は帰り電車に揺られる。
問題は沢城じゃなくて、俺だ。
気にしないでと言われて、気にしたいのだと思ってしまった俺の方だ。
頭の中で警告ランプが点滅する。やばいぞ、と囁く声も聞こえる。
深いところまで泳ぎすぎだ、溺れるぞ。
引き返すのって、どうすればいいんだよ。
新入社員の仮配属先が発表され、瑞穂の部署にもひとり、男子社員が入った。
普段から忙しい部署は、新人の教育のため更に動きが慌しくなり、小柄な瑞穂の後ろにノートを持った新人がついて歩いている。
何故今頃、間接部門の人間を増やしたのかはひとしきり話題になったが、まだ仮配属だということで、誰も真剣な興味を持っているわけではない。
人事なんて、人事権を持っているヤツにしかわからないのだ。
慧太が、書庫の棚の上段から古いマニュアルを降ろそうとしている瑞穂に手を貸したのは、誰もいないタイミングを見計らってのことだった。
実は後ろ手で鍵も閉めてしまったのだが、瑞穂はもちろん気がついてはいない。
何かをしようとした訳ではなく、誰かに話を聞かれないための用心なのだが。
「その後、どう?」
「変わらない。膠着してる。もう、おしまいかな」
斜め下を見ながら、言葉が続く。
「新人の配属は佐藤さんの申請みたいだし、私はもう要らないかも。会社、辞めようかと思って」
「なんで沢城が辞める必要があるんだよ」
瑞穂は何かを諦めたように小さく笑った。
「いたたまれないから。今だって限界が近いんだもん」
目を伏せた瑞穂の顔を見たとき、慧太の腕は自動で動いた。
後頭部を引き寄せ、唇を無理にあわせる。
身長の差が鬱陶しい。
驚いた瑞穂の手から落ちたマニュアルが、慧太の足に当たった。
顔を離した瑞穂は首を横に振りながら、静かに言った。
「ダメだよ、津田君。それ、吊り橋理論って言うの」
「なんだよ、その吊り橋っていうの」
「ね、人が来ちゃうから、やめよう?腕、離して」
「来ない。鍵閉まってるから」
俺、今きっと聞き分けがない子供みたいになってる。
自分の行動も話す内容も、ヒトゴトみたいに俯瞰している自分が他にいる。
一番驚いているのは、おそらく慧太自身だ。
「吊り橋理論ってね、同じ不安定な状態の場所に立った男女が、危険のドキドキとときめきを間違えやすいって話」
瑞穂は至って冷静に言う。
「津田君、嘘も隠し事も苦手でしょ?私が無理させたんだけど。だから吊り橋なんだと思う」
ね?と瑞穂は意識的に作った笑顔で慧太の顔を見上げた。