知っているのは、俺ひとりだ
「研修資料、ずいぶん頑張ったの作ったじゃない。誰の知恵借りた?」
上司のチェックが済んだ資料を、パラパラとめくりながら山口が言った。
俺がひとりで作ったなんて思っても貰えないんだ、と慧太は軽くヘコむ。
「沢城に、知恵借りました」
あいつ、オールマイティだもんな、と山口は頷いてから、不思議そうな顔をした。
「いつそんな話した?社内で喋ってることないじゃん」
「いや、こないだ一緒にメシ行って」
「ふたりで?」
珍しいこともあるもんだ、と山口はひとりごちた。
これ以上話すとまずい話になる、と自分の中で警報が鳴り、慧太は黙る。
「あのさ、なんだか隠し事がある時は表情にも気をつけた方がいいぞ」
何があったのか知らないし、余計なお世話だけどな、と山口は少し気遣わしげな顔をした。
放っておかれることが、とてもありがたい。
その年の新入社員は僅か3人で、2週間の社内研修期間の後、外部の新入社員教育研修に出される。
それが終わってから、改めて配属が発表になるのだが、慧太のセクションの後輩にはなりそうもない。
情けないけど良かった、と慧太は安堵する。
後輩ができたって、今の俺にはアドバイスもできない。
新入社員たちが揃って社内研修期間を終え、外部の研修に出ている最中に事件は起きた。
残業にしても、もう遅い時間である。
フロアには何人も残っておらず、慧太もそろそろ帰ろうかと支度を始めた頃だ。
流通管理部の狭いブースから、くぐもった言い争いの声が漏れてきた。
社内に残っていた何人かが苦笑しながら、痴話喧嘩かとつぶやく。
佐藤の声は殆ど聞こえず、その代わりに瑞穂の押さえ気味に激昂した気配が感じられる。
当然のように、仲裁に入ろうとする者はおらず、全員が固唾を飲んでいるようだ。
「・・・佐藤さんには、わかんない!」
そこまで聞こえたところで、慧太の身体は勝手に動いた。
ちょっとやばそうな内容かも。
パーテーションの前に立ったとき、もう一度瑞穂の鋭い声がした。
「私がどんな気持ちで会社に来てるかなんて、絶対わかんない!」
佐藤の抑えた声の内容は不明だが、宥めている様子ではない。
これ以上エスカレートしたら、かなりまずいんじゃないか?
慧太はひとつ呼吸をしてからパーテーションの中を覗きこんだ。
「悪いけど、外に丸聞こえ。ちょっとまずくないですか?」
佐藤はさすがに気まずそうな顔で慧太から視線を逸らした。
瑞穂は佐藤を見据えたままだ。
ここまで感情的になるヤツだったのか。
慧太は無理矢理瑞穂の前に割り込み、肩を押して場所を動かした。
「沢城、帰る支度して来い」
できるだけ威圧的に、命令形で口を閉ざさせる。
ここでこの場を押さえなくてはと思うと同時に、何で飛び込んだのかと後悔もする。
俺、余計なことした。
でも、病院で辛そうにしていた沢城を知っているのは、俺ひとりだ。
ありがたくないことに。
瑞穂が頼りない足取りでブースから出たのを確認して、慧太は佐藤にも声をかけた。
何か言わなければいけない気がしたからだ。
「佐藤さん、何があったのか知りませんけど、残ってる人はみんな聞いてましたから」
佐藤は視線を逸らしたまま痛そうな顔をしていたが、小さな声で侘びの言葉を言った。
「悪い。迷惑かけた」
別に、あんたはどうでもいいんだけどね。絶対顔に出てるけど、まあいいや。
なんだ、俺、冷静じゃん。
流通部門のブースを出ると、何人かが慧太を見ているのは気になったが、とりあえず瑞穂を追うことにした。
とんでもないことに首突っ込み過ぎだ、という自覚は、ある。
自覚はあっても、放っておくことなどできそうもない。知ってしまっているから。
背中を丸めて早足で歩く瑞穂を捕まえたのは、会社を出て何メートルも先ではなかった。
肘を掴んで誘導すると、意外なほど素直に慧太に従った。
ライトアップの時期が過ぎた桜坂はやはり人通りは少なく、結局花を逃した日にしか来ていないなと見当違いに思える。
「何があったか、話す気ある?」
慧太の問いに瑞穂は頑なに首を横に振ったが、思い直したように口を開いた。
「私が、公私混同してるのよ。自分でもわかってるの」
「仕方ないんじゃないの?ある程度は」
「在庫狂ってても?ダブり発注しても?」
俯いたままでは、表情が見えない。
「私ね、最近それがどうでもよくなっちゃったの」
絶望とも投げやりとも捉えられる口調だ。
「でも、それを佐藤さんは甘えだって言うし、済んだこと考え続けるのは弱いからだって言う。それが正しいのはわかってるんだけど、私は切り捨てられたような気がしちゃう」
慧太の頭に血がのぼった。
「なんだ、それ!何様だよ!」
仕事上のタテマエでは、正しいことかも知れない。責任もあるだろう。
しかし、それは本人が判断することであって、少なくとも佐藤の立場で言える言葉ではない。
仕事であれば、部下の仕事は上司の責任だし、恋愛関係であれば、その責任は。
「佐藤さんだって多分、わかってて言ってるの。それしか彼には言えないから。だけど私は今、仕事と自分を区別できない」
慧太の持っている結論は、ひとつだけだ。
「そんな男、やめちゃえ。別れればいいじゃん。沢城がもったいないよ」
また、沈黙。
「私、男の子だったら良かった。そうすれば、こんなことしてないで佐藤さんと仕事できてるのに」
そこまで好きか。
まったく理解できない。
慧太を見上げる瑞穂の顔は頼りなく、勝手にしろと吐き捨てることもできない。
それよりマズいのは、瑞穂の表情だ。
俺の女でもないヤツが、そんな顔で俺を見るな。
頼られてるって勘違いしそうになるから、俺が。
「佐藤さんと沢城の取り合いしてるんだって?」
ニヤリと笑いながら山口が慧太の顔を覗き込んだのは、翌日のことである。
「違います!なんかの誤解です!そうじゃないっす!」
全力で否定するが、自分で顔が赤くなっていくのがわかる。
こんな顔したら、余計に誤解される。
「もう、すでにそういうことになってるみたいだけど」
「違いますって!」
できれば、事情を今すぐ誰かに説明してしまいたい。
デスクの上で頭を抱えた慧太は、深く溜息をついた。
話がどうできあがっているんだか、絶対に聞きたくない。
退屈な社内の格好のゴシップネタになっているのは確かだ。
「津田にそんな芸当が、できるわけないのにねぇ」
からかい口調になっている山口に、恨めしそうな視線を投げてから、慧太はまた溜息をついた。
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