齟齬しはじめる日常
部屋に顔を出すと、瑞穂はベッドの上に俯いて座っていた。
顔色はなく、小さな体がますます小さくなったようで、妙に痛々しい。
慧太は黙って部屋に入り、前日に購入した洋服の袋を布団の上に置いた。
「あ、ごめん、びっくりした。本当に来てくれたんだ」
「うん、来るって言ったし。受付の人に着替えって言われたし」
「ありがと、助かった。血まみれのスカート穿くとこだった。ナースの白衣借りて帰らなきゃ、とか」
無理に笑おうとする顔と、血まみれという言葉の生々しさに、慧太は言葉を失う。
「もう、検査も終わったから帰れるの。着替えさせてもらうね」
もう一度、ありがとうの言葉を背中に聞きながら、慧太は部屋を出た。
どこかの部屋から、うっすらと赤ん坊の泣き声だ。
赤ん坊の泣き声を聞いていたんだろうか。赤ん坊を抱く母親を見たのか。
車のエンジンをかけて、精算を済ませる瑞穂を待つ。
助手席ではなく後ろの座席に座った瑞穂は、また、ごめん、と小さく言った。
「家、どこ?」
車が動き始めても何かを話せるわけもなく、慧太が音を上げそうになった頃、黙って座っていた瑞穂がポツリと言った。
「ピル、飲み忘れたの。先月の棚卸のころ、残業続きでタイミングが合わなくて」
ピル?それって、普通に手に入るものなのか?
ピルの存在を耳にしたことはあっても、飲んでるヤツなんて知らない。
慧太の避妊の知識は「日本が世界に誇る品質」のラテックスのみである。
それきり瑞穂はまた黙ってしまい、慧太も話の糸口は見つからない。
ずいぶんと道を進んだ頃、慧太はやっと口を開くことができた。
「相手には、言わないの?」
「言わない。はじめから、言うつもりはなかった」
なんで、とは聞かないことにする。聞いて、どうする。
でもね、と瑞穂は少しだけ話を進めた。
「産めないってことと、産まないって選択は全然別のことだった」
深い吐息。続く深呼吸。頼む、泣かないでくれ。
「津田君には、本当に迷惑だったよね。ごめん」
「もう、謝んなよ。俺はただの送迎係だから」
ごめん、を何回も聞いているうちに腹が立ってきた。
ピルを飲み忘れたからって、瑞穂だけが苦しむ理由にはならない。
ワンルームが何部屋かの、小さなマンションに車を横付けした。
「部屋の中がすごいことになってるから、お茶でもってワケにいかないの」
「いいよ、話すことないし。寝てろよ」
ありがとう。瑞穂は繰り返して言い、ひどく心細そうな顔をした。
迷子の子供みてえ。
そう思ったらつい、運転席の窓から手が出た。
頭に手を載せても瑞穂は膨れることもなく、黙って頭を撫でられている。
俯いた頭を引き寄せそうになったところで、慧太は正気に返った。
何しようとした、俺?
じゃあな、と口の中でつぶやいて、軽く手を振りながら、車を発進させる。
参ったな、こんなことでヘトヘトだ。
翌々月曜日、やはり瑞穂は休暇をとっており、流通管理では佐藤が苦虫を噛み切ったような顔で仕事をしていた。
来ていないことに安堵したのはもちろん慧太ひとりで、他の営業からは少し不満の声が出始めていた。
ひとりが、前触れナシにたった2日間休んだだけで支障のでる業務。
沢城ってそんなに仕事できるのか。
ふと頭に浮かんだ疑問を、そのまま隣の席にぶつけてみる。
「流通って、何で人間増やさないんですか?」
山口は少し考えた風をしてから、答えを出した。
「販売するのが優先で、間接部門が重視されてないことがひとつ。今の面子で流通がまわってるのがひとつ」
「だって、沢城が休んだだけであんな状態じゃないですか」
「残念ながら人数さえ揃ってればって考える人もいるんだよ、会社ってのは」
会社全体の組織バランスとかもあるだろ、と念押しされると慧太は項垂れた。
俺って、甘いのかな。
「津田、今日は?メシ食って帰る?」
「すみません。今日もパスしときます」
酒を入れてしまったら、何か言ってしまいそうな気がする。
山口は物問いたげな顔をしたが、それ以上誘ってはこなかった。
社会人経験は3年しか違わないのに、と慧太は思う。
俺は、3年後に後輩の動静に気を使えるようになる気がまったくしない。
もうじき、新入社員が入って来るのに。
キャビネットに向かいカタログを選んでいた時、後ろからいきなり、ファイルで思い切り頭を叩かれた。
「痛え!刺すぞ!」
30cm下から、落ち着いた声が聞こえた。
「ボキャブラリー、貧困」
少しだけ笑いを浮かべた瑞穂が立っている。
「お、もう出てきたんだ」
「うん、いつまでも休んでられないし。佐藤さん大変だったろうし」
その大変にした張本人じゃないのか、と喉まで出かかった言葉を苦労して飲み込む。
「何でファイルで叩くわけ?」
「え?手だと痛いし、届かないし」
「いや、何で叩くのか聞きたかったんだけど」
「ミスが多くて腹が立つから」
それでね、とファイルを開かれた。
「沢城の位置だと、俺、見えないんだけど」
「津田君が大きすぎ!屈むか座るかして!」
いつものテンションの沢城だ、と慧太は少し嬉しくなる。
泣きそうな顔より、こっちのほうがいい。
「でね、私が休んでる間に出た津田君の発注予定。この現場、吹出口いらないんでしょうか」
「え?抜けてる?」
「しっかりしてよ!再チェックして、もう一回持ってきて。工期も再確認」
すたすたと歩き去る後姿に、二重の意味の溜息をついた。
ちくしょう、そうだった。
沢城は仕事に関しては、まったく可愛げがない上に、やたらキツいんだった。
あんな顔してたクセに、しれっと仕事に戻りやがって。
しれっと仕事に戻ったのでないことは、じきにわかった。
上手くまわっていた流通の連携プレイが、ギクシャクし始めたからだ。
今まで利いていた無理が利かなくなり、いつもなら手回しの早い処理が遅れがちになった。
通常流通品の在庫率があやふやだ。
営業事務の野口までが、なんかヘンだよね、と言い出す。
「あのふたり、上手くいってないんじゃないのぉ?公私混同だよね」
「上手くいってるほうが公私混同なんじゃない?仕事にはプラスってヤツ?」
若手内でヒソヒソと交わされる噂話の原因を知っているのは、慧太ひとりだ。
気持ち悪りい。
一連の出来事の原因も結果も、それに繋がる憶測も、全部気持ち悪い。
しかも、知ってるのが俺ひとりだってことが、一番気持ち悪い。