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巻き込まれる

見慣れない形の一室に案内され、身体を丸めた姿勢の瑞穂と対峙する。

着ているのは、病院のガウンだろうか。

シーツで覆われているので、わからない。

何を話していいのか掴めず、気まずい沈黙があった。

瑞穂の蒼白い顔は人形めいているのに、瞼が赤い。

息遣いだけがリアルだ。

「流れちゃった」

言葉の意味が上手く呑みこめず、慧太は返事に詰まる。

流れちゃったって何が。

考えてみろ。ここは、産婦人科だ。


「佐藤さんに、来てもらわなくていいの?」

「上司に報告する必要なんか、ない。言わないで」

挑むような言葉なのに、かすれた声が弱い。

上司に報告って、その当人が相手じゃないのか。

その疑問を今、瑞穂にぶつけるのが酷なことくらい、慧太にだって理解できる。

「私ひとりのことなんだから」

ぎゅっと目を瞑った顔は、苦痛に耐えているようにも涙をこらえているようにも見える。

「誰にも言わないで、そのまま忘れて」

慧太は思わず、天井を仰いだ。

「とりあえず、わかった。どこか連絡するところは?」

「誰にも連絡しない。ひとりで帰れるし」

白い顔に、また頑なな表情が浮かんだ。

「迎えに来てやる。知ってるのは俺だけなんだから、俺が来る」

そう言ってしまってから少し後悔したが、取り消す気にはならない。

「土曜日らしいし、ひとりじゃ無理だろ。受付で時間、聞くから」

瑞穂はそれ以上抗わなかった。

ごめん、いろいろお願いして。

ごめん、迷惑だよね。

ごめん、ごめんね。

本当はとても心細いのかも知れない、慧太には、そう見えた。


病院から出て運転席に座った途端、慧太は全身から力が抜けてハンドルの上に突っ伏した。

とんでもない事聞いて、とんでもない約束をした。

私ひとりのことって。全部自分で抱え込もうとしているのか。

血の気のない顔に、苦痛だけの表情を浮かべて。

あの懇願を見てしまった以上、誰かに悟られてはいけない。

俺に、それができるか。

眉間に皺が、刻まれていくようだ。

流れたってことは、つまりその前は在ったってことだよな、と慧太は自分に確認する。

何が。わかってるじゃないか。

何やってんだよ、ちゃんと避妊くらいしとけよ。

翌日の午前中、予定していた得意先回りをしながら、慧太はまったく上の空だった。

午後は社内で見積作成をしなくてはならない。


会社に戻ると、小さな注文をいくつか流通に乗せなくてはならない用事ができて、慧太は流通部門のブースに入った。

瑞穂の席は当然空いていて、グループ席の向かい側にはいつも通り覇気の感じられない男性社員が、信じられないほどのんびりと仕事をしている。

そして、それに横付けした形の席で、佐藤は受話器を肩に挟み左手でキーボードを操作しながら右手でメモを取る、という離れ業をやってのけていた。

実質はふたりの部署だと言われていることに、慧太は思わず納得した。

どう見ても、瑞穂が休みの分を佐藤がひとりでフォローしている形だ。

「あ、津田、昨日はどうもな。沢城のこと、家まで送ってったんだろ。どんな感じだった?」

受話器を戻しながら、目はパソコンに向けたままである。

「今日、朝にメールで休みの報告きただけだから、困ってんだよ」

仕事が忙しくて困ってるだけか、おい?

沢城はひとりで責任を抱え込もうとしているのに。


あんたのせいだろうが。

そう指を突きつければ、俺は気が済むのか。

慧太の握り締めた拳は行き先を持たずに、ゆっくりと開かれた。

慧太の顔も見ずに発注書を受け取った佐藤は、もちろんそんなことにも気がつかなかった。

頑なに佐藤に知らせるなと言い張った瑞穂なのだから、佐藤は知らない筈だと気がついたのは、自分の席に座ってからだ。

たとえば自分の女が自分の知らない内に妊娠して、自分の知らないところでカタをつけていたら。

逆に、自分の知らないところで、子供が生まれている可能性だってあるのだ。

ぞくり。

慧太は背筋に冷たいものを感じた。

自分は今迄失敗したことなどなかった筈だが、そう思っているだけなのだとしたら。

ダメだ、許容量いっぱいだ。考えるな、俺。


「お、悩める津田君。手が止まってるんじゃない?」

営業先から帰社した山口が隣の椅子に腰掛けたので、慧太はビクッと肩をすくめた。

普段から殊更にニュートラルに見えるこの先輩が俺の状況ならば、混乱することもないんだろうか。

「そんな顔して見ないでくれる?抱きしめたくなっちゃうから」

「え!俺、そんなに情けない顔してました?」

「オマエみたいに感情がダダ漏れのヤツ、希少種。レッドデータ」

山口は笑いながら、もし聞けることなら聞くよ、と言い添えた。

聞いてもらいたいのは山々なのだ、本当は。

慧太はますます悩ましい顔になって、資料に視線を落とすフリをした。

こんな状態で作った見積書、オチがありませんように。

「そう言えばさ、沢城って今日休みか?流通が静かだけど」

慧太は顔をあげることもできず、下を向いたまま返事をするしかない。

「さっき流通に行ったら、佐藤さんがてんてこ舞いしてたから、そうじゃないですか?」

棒読みだ。俺、役者には絶対になれない。

「あーやって、仕事できる人がワリ食うようにできてんだよなー、会社って」

山口はそう言いながら、パソコンを立ち上げてメールのチェックを始めた。

良かった。これ以上、沢城の話題を持ち越されたら頭の中身が漏れ出しそうだ。

慧太は心の中で安堵の溜息をついた。


終業のチャイムが鳴るのを待って、そそくさと帰る準備をする。

ヘタに残っていると、巨大な墓穴を掘りかねない。

そうだ、服。着替えが必要なんだ。

・・・俺が、調達するの?どこで、どうやって、何を?

スーツで買いに行く、小さいサイズの女物。何のバツゲームだ?

帰り電車に揺られながら、気分は半泣きだ。

どうにか全国展開のカジュアル服チェーン店でしどろもどろの買物を済ませたとき

慧太はその場でへたり込みそうなくらい、疲れていた。

俺が、何をしたって言うんだ。


一夜明けて土曜日、父親の車を借りて病院に向かう慧太は充分に後悔していた。

とんでもないことにかかわってしまった。

今度から、具合の悪いやつに親切心なんて、絶対起こすもんか。

土曜日の昼間の産婦人科は、当然のように待合室は混みあっていた。

若い夫婦、腹のせりでた妊婦、顔色の悪い中年女、茶髪のギャル系。

当然だが、男の比率は極端に少ない。

受付に寄るだけでも、慧太にはひどく勇気のいる行為だった。

部屋を教えてもらって歩く廊下には、赤ん坊を大事に抱いた母親だ。

居心地、サイアク。

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