ダレニモイワナイデ
打ち合わせを山口に代わってもらった、その晩のことである。
「性格がストレートすぎてつまんないって女にフラれたこと、ない?」
居酒屋のカウンターに肘をついた体制で、山口は慧太に切り込んだ。
ないかと尋ねられれば、ないとは答えられない。
ダイレクトな言葉でそう言われたことはないが、身に覚えはかなりある。
「営業も同じ。良い商品です、良い工事をします、だけじゃ売れないから、まわりを固めるのも大事」
はい、と身をすくませる。
「営業先の反応がイマイチでも、気がつかないフリして通ってるうちに違う道ができるかも知れないし」
「酒の席で山口さんの営業論聞くんですか、俺?」
山口は、まあまあと手で慧太を制して、話を続けた。
「でな、ここからが本題。気がつかないフリ、忘れたフリってのは難しくない。必要な時以外は、頭から抜けばいいんだ」
「頭から抜く?」
「考えないってこと。慣れろ。どうせ、野口にいらんこと聞いたんだろ」
言葉の最後は、顔を慧太に向けていた。
「社員のプライベートってのは、業務に差障りがなきゃ仕事には関係ないから」
そうして、そのプライベートの部分は瑞穂にとって仕事の救いになっているみたいだ、と続いた。
「佐藤っておっさんは、トラブった時に自分で解決しろって突っ放す人だからさ、アメとムチ現実編ってとこ?」
昼間に頭に描いてしまった図が、また慧太の中に蘇ってきた。
「・・・やめて下さい。悪酔いしそうだから」
「3年くらい続いてるはずだから、それなりに相性いいんじゃない?」
「そんなに続いてるんだ?って、何で知ってるんですか?」
「多分、一番最初に気がついたの、俺だもん。狙ってたらトンビにアブラゲで」
珍しくやさぐれた表情で、山口は言った。
「気がついた時には遅かりしでさ、あーゆうのって、他人がどうこう言ってもダメじゃん。先に手、出しときゃよかった」
初心そうに見えたから、気長に攻めるつもりだったんだけど、というのは、おそらく本音だろう。
「山口さん、酔ってます?」
「うん、少し」
頭から抜くって、みんなそんなに器用なマネができるのか。できないの、俺だけ?
帰りの電車に揺られながら、慧太はなぜか暗澹たる気分になった。
俺、会社向きじゃない?営業としての資質、ない?
業務に支障なきゃ、って不倫もOKなのか。社会的には?
それとも、関心を抱くほど会社内の人間の行動に興味がないのか。
アメとムチ現実編って、いやいや、その想像は止しとけ、俺。
山口さん、おっさんに攫われるまで意志表示しなかったって暢気過ぎだろ。
いや、意志表示はしてたのかも知れないけど、沢城って気がつかなそうだし。
価値観の違う人が、同じ利益にぶら下がっている「会社」という固まりが、慧太には不気味になってきた。
入社して、もうじき1年だっていうのに。俺って、ガキみたいかな。
その日、慧太が仕事帰りにロビーで見たのは、蒼白になって壁に寄りかかった瑞穂だった。
「具合悪そうだな、大丈夫か」
そして、これがすべての発端になる。
「ごめん、タクシー呼んで」
それは消え入りそうな声で、立っていることさえも辛そうだった。
「救急車呼ぶか?」
「タクシーでいい。おおごとにしないで」
「佐藤さんは?」
「呼ばないで!」
語調のの強さに慧太は少し、たじろぐ。
ちょっと待ってろ、と瑞穂をロビーに座らせて、営業部のセクションへ走り戻り、営業車の鍵をキーフックから外して直属の上司に声をかけた。
「流通の沢城が具合悪そうなんで、送ってきます」
頷くのを待ってそのまま走り戻ると、瑞穂は苦しそうな体勢のまま、まだ座っていた。
車をビルの前までまわし、ドアを開けてロビーに行くと、社内の何人かが瑞穂に付き添っている。
立つ事も大変そうだ。
話が通じたらしい佐藤がロビーに出て来ると、瑞穂は頑なな声を出した。
「何でもありませんから。津田君が送ってくれるみたいだし」
それでも、血の気の感じられない顔と語尾が消えそうな声は隠しようがない。
大丈夫、と言い張る瑞穂を抱えて営業車に押し込み、誰かが持ってきた膝掛け毛布で包むと、発車する。
「救急病院でいいのか?」
苦しそうな息遣いの中に、ちがうの、と否定の言葉が入った。
「どこかで、降ろして。タクシー拾うから」
この期に及んでまだそれか、と思ったら腹が立ち、慧太の語気も荒くなる。
「歩くのもやっとなのに、このまま放っとけるか!どこに行くのか言え!」
泣いているような声で、言えないから、と返事が戻った。
「いいから、言え!」
考えついた救急病院に向けて車を走らせていると、決意したように吐息まじりの声が聞こえる。
「ごめん、そっちじゃないの」
その後の言葉は、聞き逃しそうに小さな声の懇願だった。
オネガイ、ダレニモイワナイデ。
「なんだか知らないけど、行き先あったら指示して」
慧太の声に、ごめんと小さな声が戻った。
「江戸川橋に」
言葉が途切れ、こらえる声が続く。
進路を変え、江戸川橋方面に向かう。
「駅に出るぞ。どこだ?」
「橋のとこに、看板がある病院」
慧太は首を回し、看板の表示を確認して読みあげた。明らかに動揺した声が出た。
「広瀬産婦人科病院、でいいのか?産婦人科だぞ!」
そう、そこ、と苦しげな声が聞こえた。そこなの。
駐車場に車を入れ、有無を言わせず瑞穂を毛布ごと抱えあげ「夜間入口」に向かう。
産婦人科って、子供産む所じゃないのか。
俺、入ったのはじめてかも。って、なんでここに緊急で来る状態が。
慧太は大急ぎで持っている知識に動員をかける。
連絡を貰った人かしらと確認され、瑞穂が頷くと、看護士がテキパキと瑞穂を車椅子に乗せ、運んでいった。
俺は、どうすればいいんだ?
帰っていいのか、待ってるべきなのか、誰か指示してくれ。
せめて、何があってどんな内容なんだか、説明してくれ。
薄暗い待合室で所在なくウロウロしていると、しばらくしてから受付に灯りがついた。
「沢城さんの付添いの方?」
はい、と答えて受け付けによると、紙を出された。
「悪いけど、入院保証人のお願いしていいかしら」
言葉はやわらかくとも、サインしたくありません、とは言えない雰囲気だ。
「入院なんですか?なんだかわからないんですけど」
「明日処置して、明後日には退院できるから」
処置という言葉に、慧太は良くない予感を抱いた。
「何の処置ですか?」
「あなたは配偶者か認知の可能性のあった人?」
あ、やばい。理解した気がする。知りたくないことまで。
「迎えに来る人がいれば伝えて。着替えが必要なの。着てきたものは使えないと思う」
ダレニモイワナイデ。
つまり、俺しか知らないのか。誰にも、の中に佐藤さんは入れるのか。
「話せますか」
ちょっと待ってて、と受付は奥に戻り、すぐ顔を出した。
「出血とショックが酷いから、お相手じゃないんなら長居しないでね」
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