びっくりさせて、ごめん
翌々週、二度目に誘ったのは横浜だった。
山口の軽口が頭をかすめ、電車で移動することにする。
すでに雨が心配な時期に入りつつあったが、天気はどうにか無事だ。
元町をウロウロし、中華街で食事をしてから、戻って港の見える丘公園への階段をのぼる。
そろそろ、夕方。寄り添って歩く人ばかりが増えてきた。
柵に体重を預け、見晴らしが良いと瑞穂が嬉しそうな声をあげる。
無防備な素の表情が眩しい。
「キス、したい」
慧太の言葉に、瑞穂が固まって目を見開く。
両肩に手を乗せ、腰をかがめると決意するような顔が瞳を閉じた。
もう一度、中学生みたいに確認してから顔を寄せる。
少しだけ重なった感触が心許なくて、もう少し、と2度目。
慧太の舌先が唇に触れた瞬間、瑞穂は飛退いた。
「ごめんっ!」
謝ったのは、瑞穂のほうだった。
行儀が悪かったのは慧太なのに。
「なんで沢城が謝るの?」
下を向いたままの瑞穂の言葉を辛抱強く待つ。
「怖い」
意味が掴めず、座って話すことのできる場所に誘導しながら、慧太は次の言葉を待った。
言葉の断片をつなぎ合わせて憶測する。
キスより先の行為が、すべて流産の記憶につながりそうで、怖い。
慧太と話すことが楽しい分、慧太に寄りかかって行きそうで、怖い。
おそらく趣旨は間違っていない。
慧太の隣で俯いて座る小さな肩の持ち主は、怖ろしく臆病になっている。
それを解放してやる言葉を、慧太は持たない。
解放される瞬間に、自分が立ち会えることを願うばかりだ。
「・・・帰ろうか?」
帰りの電車の中は、お互いに無口だった。
「ちゃんと、考えるから。まだ結論が出せない。ごめんね」
電車内の言葉の意味は、慧太にはまだわからない。
翌週の後半、瑞穂は会社を休んだ。
具合でも悪いのかと瑞穂と同じ部署の新人に尋ねてみたが、要領を得ない。
「有給の消化とか言ってましたけど。ずいぶんたくさんあるみたいだし」
考えてみたら、毎日会社で会うのだからと、瑞穂の携帯電話の番号もアドレスも知らない。
マンションに直接訪ねて行っても、在宅しているかどうかわからない。
「来週は来るのか?」
「何日か、来ると思いますよ?」
言葉に微妙にひっかかりを感じるが、来るという言葉に安心する。
来週、本人に聞こう。
「沢城さんが、一身上の都合ということで退社なさいます。
7月一杯在籍ですが、有給休暇を消化しつつということで、不定期の出社になります」
月曜日の朝礼で総務からの発表はとても事務的だった。
瑞穂が頭を下げながら、短い挨拶をする。
ショックを受けたのは慧太だけで、ざわめきすらおこらない。
有給消化に入るほど時期が迫っているということは、もう一か月近く前に退職届を提出している筈だ。
夢の島公園に行った日、帰りに言いかけたことは、これか。
席に戻って、ごく普通の顔をしている隣の席に声をかける。
「山口さん、沢城が辞めるの、知ってたんですか?」
「本人から聞いてたけど?え?知らなかったの?」
山口は珍しく驚いた顔をした。
なんで、俺に言わない?
慧太の混乱した頭に、山口の冷静な声が聞こえた。
「津田、顔と頭修正。仕事終わってから聞きに行け」
帰りに待っていて欲しい、と社内メールを瑞穂宛に送ってから、しぶしぶ営業鞄を抱えて外出する。
いくつかの現場を回り、打ち合わせを終えて帰社すると、瑞穂は帰宅した後だった。
メールの返事は一行。
びっくりさせて、ごめん。
翌日から、瑞穂は会社に現れなかった。
そして、迷った挙句週末に訪れた瑞穂の部屋のドアには、ガス会社の新規入居者への書類が下がっている。
引っ越すことすら、聞いていなかった。
まだ、出社する日があるんだろうか。
次に会った時に言うつもりだった?
それとも、俺とはもう連絡をとりたくないということだろうか。
せめて、どういうことだか本人から聞きたい。
鬱々として自宅に帰り、自室のベッドに転がる。
携帯電話の番号くらい、交換しておけば良かった。
なんで、何も言ってくれないんだ。
月曜日の朝にも瑞穂は出社しておらず、慧太の戸惑いは頂点近くなっていた。
総務に問い合わせても、個人情報は本人の許可を得てからでないと出せないと言われる。
普段から会社内で人付き合いのない瑞穂が、個人的に連絡先を教える相手がいるとは思えず、もう出社しないと決まったものでなければ、先行きがないとは言い切れない。
どっちを向いていいものかわからない。
「津田、メシ行かない?」
山口に声を掛けられたことにも、しばらく気がつかなかった。