突破口はどこだ
「津田君、帰り?」
ロビーで珍しく瑞穂から声をかけてきた。
おう、と慧太が片手を挙げると、横に並んだ。
「あのあと、どう?ちゃんと眠れてる?」
「私、眠れないなんて言ったっけ」
本当に酔ってたんだな、こいつ。
ちょっと歩こう、と誘って、桜坂をまた歩く。
航空会社の名を冠したホテルの内庭は閑散としていて、アーケードの灯りがただのっぺりと明るい。
「ずっと眠れないの?」
「ここ3週間くらいかな。佐藤さんに引導渡されちゃったから」
3週間って、キレた後か。
「なんて?」
「全部私次第って。私が終わりだと思うんなら、もう終わりなんだって」
勝手だな。突き放しもしないで、相手に決めさせる。
「もともとそうやって始まったんだし、それ以外に彼は言えないんだけど」
瑞穂は言葉を切って、一度深く呼吸した。
「私だって終わりだと思ってるんだけど。でも、私は手放したくないって言われたかったの」
あ、泣く、と思う間もなかった。
俯いた足元のアスファルトに水滴が落ちて、瑞穂は慌てて目元を拭う。
他の男のことで泣いてる女の話を聞くほど馬鹿馬鹿しいこと、ないよなぁ。
瑞穂の背に手をあてながら、慧太はふとそう思う。
「普通の相手、見つけようと思わなかったの?所帯持ちじゃないヤツ」
身も蓋もない質問。
「私にとっては普通だったの。好きな人といたかっただけ」
「だって、他人に言えないことだろ?」
瑞穂はまだ涙の残る目で慧太を見上げた。
「黙ってるのなんて大丈夫だったの。休みの日に連絡取れないくらい、なんでもなかった。夜遅くに帰っちゃうのだって、我慢できてたの。あの日まで」
明るい場所はやばいと慧太の中で警報が鳴り、瑞穂を促して人通りの少ない場所へ導く。
「続きは?言いたいこと全部、言っちゃえば?」
ビルの間の小さな石の階段は、表通りに繋がっていないので、夜に通行人はいない。
瑞穂は慧太を上目遣いに見ながら、それでも口を開いた。
「だから、津田君が悪い」
「なんで!」
あの日ね、と瑞穂は話し始めた。
「津田君が迎えに来てくれたでしょ?それで、帰り際に頭撫でてったでしょ?そしたら、ひとりで黙って全部なかったことにしようって思ってる自分が、可哀想になっちゃった」
「それって余計なお世話だったってこと?」
ちがう、と瑞穂は目を伏せた。
「ここで、泣けば?って言ってくれた時、泣くようなことだったんだって気がついちゃったの」
声がまた潤んでいる。
「だから、津田君が悪い」
「ヤツアタリじゃん、それ」
「わかってる。ヤツアタリしないと、落ちそうになるの」
言ってる意味はわかるような気がする。
だから俺が悪い、でいいや。別に不都合ないし。
ごめん、と言ってみる。瑞穂は、黙ってただ足元を見ている。
こんなとこ見せるから、放っとけなくなるんじゃないか。
肩を引き寄せようとすると、かなり強い口調で「ダメ」と拒絶された。
「ケチ」
「雰囲気に呑まれないで。私、今、誰かと寝る気ないし、佐藤さんともケリつけたわけじゃないし」
あ、こういうとこだけ冷静。沢城らしいや。
それにね?少し距離を置きながら、瑞穂は続ける。
「私みたいにケチついちゃったヤツと、どうこうしようなんて気の迷いだと思うよ?」
「別に、処女がいいとか思ってないし」
慧太の口から、不貞腐れた声が出た。
「話に聞くのと、目の前で見ちゃったのは違うでしょう?今日言おうと思ってたのはこれだったのに、私の話になっちゃってた」
私が不安定だからだね、ごめん。低い呟き。
「ヒトのこと言ってる場合じゃ、ねえじゃん」
「言っとかないと、私が揺らぐの。津田君、聞いてくれちゃうし」
揺らいで、こっちに傾けば受け取れるのに。
「勝手だって怒っていいから、お願いだから私のこと、気にしないで。津田君が気にかけてくれるたびに、思い出すことがある」
自分が思っているよりも重い意味だと、慧太が気がつく程度には悲痛な声だった。
まったく、身長どれくらい違うと思ってるんだ。早足で歩かれても、余裕で追いつくんだけど。
そう思いながら、慧太は追いかけることはしなかった。
お願いだから気にしないでと言われたって、そうはいくか。
気になる要素満載で目の前ウロウロしてるクセして。
でも、それで思い出すことがあるっていうのはなぁ。
それは、俺もだ。
見てしまったことをなかったことにはできないし、忘れてもいないことを気にかけないなんて、できっこない。
八方塞がり、行き止まり?
突破口はどこだ。
「不景気な面下げて、営業に出るな」
上司に言われる程、ひどい顔つきだったらしい。
ちょっと来い、と教育係の山口に会議室に引き摺られて行く。
「何があったか話せ」
目がマジだ。慌てて視線を逸らす。
「話せないことなら、顔にも出すな。仕事に持ち込むなよ」
ガキじゃないんだから、と言われて慧太はますます視線が定まらなくなる。
「スミマセン」
「俺に謝ってもしょうがないだろ。自覚しろよ」
山口は横を向いて溜息をついて見せた後、いきなり普段遣いの顔になった。
真似できねえ!
「で、お兄さんに聞けることがあったら、相談に乗るけど?恋の悩みかな?」
また、遊ばれてる?
「山口さん、カノジョいます?」
「いたりいなかったり?ま、それなりに」
尻尾つかませない人だなぁ。
「忘れたいことがあるのに、顔見ると思い出すから会いたくないって言われたら、どうします?」
山口は少し思案する顔になった。
「記憶が薄れるまで会わないか、思い出すのが普通になっちゃうのを待つか、かな」
どちらにしろ、長期戦の構えをするってことか。
「ありがとうございました」
慧太は礼を述べたあと、テーブルに突っ伏した。
性急に何かを始めようなんて思ってた訳じゃないのに、気が急くのはなんでなんだろう。
「何悩んでるんだか知らないけど、仕事には支障だすなよ。次の説教は俺じゃないぞ」
山口は生真面目な口調に戻りもう一度念を押してから、会議室を出て行った。
同じ社内にいるのだから顔をあわせない筈はなく、顔を見ればやはり気にかかる。
眠れないのは良くなったのかだとか、その後ケリはついたのかだとか、尋ねてしまいたい。
聞いても何にもならないのは、承知してるんだけど。
慧太の受け持ち物件の納入予定や新規発注の打ち合わせには、流通管理の新人がファイルを持ってくるようになり、後ろからファイルで叩かれるようなこともない。
新入社員が手配しているのだからと思うと、さすがに自分のチェックが厳しくなり、慧太の発注依頼のミスはとても少なくなった。
仕事のできるヤツに甘えていたんだな、くらいの実感はある。
瑞穂の帰り時間は少し早くなり、流通管理部で遅くまで残っているのは、佐藤と新入社員だ。
ギクシャクしていた商品の流通はいつの間にかスムーズになり、新入社員の配属の仮の字が取れた。
記憶が薄れるのを待つか、思い出すのがアタリマエになるのを待つか。
それにどれくらいの期間を要するのか、慧太にはわからない。
そして、そうなるまでの間、瑞穂はやはりひとりの部屋で灯りをつけたまま眠っているのだろうか。
想像すると、産婦人科のベッドの上に俯いて座っていた瑞穂の姿が浮かんできた。
慧太しか知らない顔。慧太しか知っていないひどい傷。
やっぱりダメだ。
黙ってなんかいられないし、気にしないなんて無理。
感情を自分に無理強いするなんて、すっごい不自然。
自室のベッドで長くなって雑誌をパラパラとめくっている時、慧太はあることに気がついた。
休みの日に連絡がとれなかったということは、瑞穂と佐藤は昼間に一緒に歩いたことがないのだ。
俺ならできる。
「話を聞かせろ」ではなく「一緒に遊ぼう」でいいじゃないか。
可愛い女の子を誘って休みの日を過ごすのは、ごく普通の行為だろう?
目から鱗。