恋心
私がその短い人生を終えたのは、数えで17を迎えたころだった。
当時の私には、1年程前から気になっている人がいた。
私の店の前を通っていく、名も知らない人。
美しい着物を身に纏っていたので、『高貴な方だ』と、『私みたいな下町の娘などには目も向けられない、どこかのご子息だろう』と考えていた。
別にそれでも構わないと思っていた。
見ているだけでいい、と。
もしそのままで済んでいたなら、今頃こんな所に居ないのだろうけれど。
また、あちらへ行かれる。
一体どちらへ行かれるのだろう。
進む先には、茸も取れない山しかないというのに。
「おいおい、譲ちゃーん。ワシの団子はまだかいな?」
「あっ、おじいちゃん」
恋は盲目、とはよく言うもので、店番をしていたことを忘れそうになる。
自分に渇を入れ直して、団子を包む。
「お待たせ」
餡子のかかった団子を二つ、三軒隣のおじいさんに手渡し、代金を貰った。
にっこり笑って帰っていくおじいさんを見送った所で、母さんが看板を仕舞う。
「弥生? 最近ぼーっとしてるみたいだけど、大丈夫?」
「んー、ちょっと疲れてるのかも。あはは。先に休んどくね」
わざとらしい、と自分でも思うくらいに棒読み。
案の定、しっかり休みなさい、と母さんが言うのが聞こえた。
何も言わずに右手を上げて、寝室に入る。
パタン、と戸を閉め、息をはき、呟く。
「どうしてだろう。見ているだけ、想うだけで良かったのに。……良かった筈なのに」
なのに、今では
「……近くに、居たい……?」
ふと、耳元で声がした。
私の胸中を察したかのような言葉。
動きを止めて、恐る恐る前を見る。
誰もいない。
まさか、と思いつつ、戸を振り返って……。
そこに人はいなかった。
そう、人間は、誰も。
「人、呼ばない、良い。安芸、悲しむ」
「よ……妖怪?」
そこに立っていたのは、紛れもなく妖怪。
山里に住んでいるはずの妖怪が、どうして?
「ここ、いる、本当。お前、安芸、敵?」
この妖怪は心が読めるのかもしれない。
思ったことが全部伝わっている。
それよりも「安芸」というのは、一体、
「ソルゥ、考え、分かる。安芸、いる」
「いるって、どこにですか?」
「お前、心。そこ、安芸、いる」
私の心に。
もしかして、あの方が……?
思い浮かぶのは、店を通り過ぎるあの姿。
「それ、安芸。ソルゥ、友達」
名を知れたという喜びと、知ってしまったという悲しみと。
安芸という名は、聞いたことがある。
確かここの大名のご子息で大変優秀な跡継ぎ。
私なんか身分違いも甚だしい。
「何、嫌? 来る、いい」
「来るといい。そう言いたいの?」
「そう」
行きたい。だけど
「行く」
「えっ? ちょっ……」
言うが早いや、ソルゥは私の手を取り、何か言葉を呟いた。
妖怪の言葉なんて初めて聞いた。
待って。そんなことを考えている場合でもないような気がする。
今、私は妖怪に誘拐されようとしていて、その上行き先は大名のご子息がいらっしゃる所。
だけど、止めようがないのも事実。
「……бфчющЭ」
数秒足らずで呪文が終わった。
そう思ったら、周りの風景が変わっていた。
「ここ……森?」
見覚えがない訳でもなかった。
ここは、よく更紗と遊びに来ていた山。
更紗が死んでしまってから、2年位は来ていなかったけれど。
「変わって、ないなぁ」
更紗はもういないのに、山の風景は昔のまま。
そういえば、龍次兄さんも言ってたっけ。
『弥生ちゃんがさ、更紗とよく遊びに行ってた山あるだろ? あそこ変わってなくてさ。はは。当たり前だよな。更紗がいなくなっただけなんだから』
「さらさ……? ソルゥ、知る、ない。誰?」
そういえば、妖怪に、ソルゥに連れてこられてたんだ。
思い出に浸ってる時じゃない。
「友達。もう、死んでしまったけど。……それよりなんでここに?」
「安芸、会う。ここ、いる」
いないから聞いたんだけど。
と言いはしなかったけれど、心を読めるから気付いてるはず。
何年ここに通ったと思っているの。
この山に隠れられる場所がないのは、よく知っている。
「いる! 安芸、隠れる。ソルゥ、助ける」
「結界か何かを張ってるとか、そういうこと?」
「そう。結界」
その声に反応してか、辺りの景色が揺らぐ。
そして、
「ソルゥ? ……なにか忘れたのか? さっき出て行ったばかりなのに」
2年前にはなかった洞窟から、声がした。
恐らく急ごしらえであろう、今にも崩れ落ちそうな洞窟。
この方は「ここ」に来られていたのだ。
茸も取れない山へ、妖怪に会うために。
「違う、安芸。ソルゥ……」
違う? そうではないの? ソルゥに会いに、
「弥生、安芸、心配。ソルゥ、安芸、心配」
そっか……。
ソルゥが読み取ったのは私の心ではなく安芸様の心。
私がここにいるのがご不満なんだ。
いつもは遠くから横顔しか見えないあの方が、私と向き合った位置にいる。
そんな嬉しさも、緊張も、なにも感じないほど冷たい空気が流れ、いたたまれない。
私と年の頃は変わらない、けれど天よりも遠くにおられるその方の目が、スッと細められる。
感情のない顔で、しかも私の方を見られない。
当然だ。
「ソルゥ、この女は……」
この方にとっては、私は「この女」にしか過ぎないんだ。
「家に帰すんだ」
もちろん帰ります。
あなたの命令には逆らえません。
大名のご子息であるから。
わたしの大切な人だから。
「安芸、人間、必要。友達、大事。弥生、安芸、大事」
ソルゥ。
もういいから。
この先は、聞きたくないから。
「要らない。俺には必要ない」
所詮私はこの程度の存在なんだ。
当たり前だ。この方にとっては私は見ず知らずの庶民でしかない。
分かっていたことだけれど、でも、辛い。
何の返事もしないでいると、くるりと背を向けられた。
「帰れ」ということなのだろう。
感傷に浸っている場合ではない。
我に返り、更紗や龍次兄さんと通っていた小道に引き返そうとした。
その時、
「お前の店の団子、一度だけ食べたことがある」
不意に声がかけられた。
「……え?」
「どんな豪華な料理よりも、ずっと味が良かった」
「あ、ありがとうございます」
なんでいきなりそんな……。
「店を続けたかったら、もう俺に関わるな。この意味、分かるよな?」
分からない、訳がない。
大名家の発言一つで客が動く。
この人が「あの店は不味い」と呟けば、店はすぐに倒れてしまう。
そういう意味だ。
「はい」
分かりたくなんてなかったけれど。
「本当に、申し訳ありませんでした」
あなたに近付きたいと思ってしまって。
あなたの事を好きになってしまって。
そう言って頭を下げ、踵を返して走った。
え? と問い返す声が聞こえたような気がしたけれど、気のせいだと言い聞かせた。
そのまま家に帰ったら、母さんの雷が落ちて、それが終わったら明日の分の団子の仕込みを始めた。
そしてまた、いつもの生活が繰り返される。
そう思っていた。
現実はもっと残酷だということを、この時の私はまだ知らないでいた。
それから半年後、遠見安芸は謎の死を遂げた。
彼の死因は誰も知らない。
わたしもまた、秘密裏に処分された。
母には不穏分子との繋がりがあるからと伝わったらしい。
城の牢につながれ、水の一滴も与えられずに衰弱死した。
とても見ていられない体になったが功を奏したのか、スクライディでは新しい入れ物が与えられた。
彼が私を覚えていても、分からないようになった。
そして奇遇なことに、彼は、そのままの入れ物でスクライディにいた。
創造主に連れられ挨拶回りをしていて、彼の姿を見つけた時の喜びは、忘れようもない。
1年間店の前を通っていた時も、実際に言葉を交わしたあの時も見られなかった笑顔があった。
スクライディで唯一過去を克服したという彼は、2班の班長を務めている。
そして私は、No.2や夢と共に、11班にいる。
夢は彼になついているし、No.2と霞が仕事でパートナーを組んだということで、交流はある。
ただ、過去を話すことはない。
タブーだから、というよりも、思い出して欲しくないから。
そうだよ。
そのままの笑顔でいて欲しいから、今はまだ、何も言わない。何も聞かない。
ただ前よりも近い所で、見るだけでいい。想うだけでいい。